添野彬裕

研究テーマは、①鉢形城主北条氏邦②武蔵国衆藤田氏・三田氏③本山派修験寺院笹井観音堂です…

添野彬裕

研究テーマは、①鉢形城主北条氏邦②武蔵国衆藤田氏・三田氏③本山派修験寺院笹井観音堂です。 最近は、笹井観音堂の研究をしています。笹井観音堂の運営・支配を配下山伏の動向も踏まえての調査で関係確立・浸透の過程を明らかにすることがミッションです。

最近の記事

本山派修験寺院宝積坊の戦国期の動向ー宝積坊幸鑁と「上田家文書」の宛名比定への試みー

はじめに埼玉県美里町白石の本山派修験寺院宝積坊については、私は、noteで霞支配、領主との関係面で何度か取り扱っている。 先日、埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催される「鉢形城主北条氏邦」の企画展へ行ってきた。 注目展示品は埼玉県小鹿野町両神薄に所在する法養寺薬師堂十二神将像と月光菩薩・日光菩薩の修復後の姿である。 法養寺薬師堂十二神将は、鉢形城主北条氏邦が鉢形領被官と共に奉納したもので領国支配を検討する上で、欠かせない仏像となる。 近年、十二神将の墨書から氏邦の生年が明らかに

    • 本山派先達修験寺院十玉坊の再興に伴う霞範囲の検討ー笹井観音堂の動向も踏まえてー

      はじめに 前回の投稿「昔話から見た修験寺院」で本山派先達修験寺院十玉坊の廃絶と復興について先行研究・史料に沿って記述した。 北条氏照書状と聖護院門跡御教書を合わせると十玉坊は再興にあたり聖護院門跡から2通、氏照から1通の霞安堵状を受給したのがわかる。その内、聖護院門跡御教書は1点が伝わる。 今回は、2点の史料を基礎としながらも十玉坊と霞間抗争を繰り広げた本山派先達修験寺院笹井観音堂の文書「篠井家文書」も加味しながら十玉坊の霞展開と笹井観音堂の動向を検討して当時の霞範囲を復元

      • 昔話から見る修験寺院ー本山派先達修験寺院十玉坊の境内地移転との関連ー

        はじめに 山伏は昔話でよく登場する。人々との交流、専業である加持祈祷、または悪役で主役を務めることもある。 私が調査対象とする埼玉県狭山市笹井の本山派先達修験寺院笹井観音堂の「霞」地域、配下寺院でも関連する昔話は複数存在する。 具体的には、1つの主題として過去に投稿した狭山市広瀬の影隠地蔵は本山派修験寺院正覚院が管理した。同市入曽の本山派修験寺院宝泉寺では疱瘡、虫歯治療に関連する話が伝わる。そして笹井観音堂には在地の殿様が笹井観音堂門前を通行する際に下馬しなければならず、面

        • 『埼玉史談』に論文掲載されました

          いつも、投稿に関心を寄せていただきありがとうございます。このたび『埼玉史談』に私の論文が掲載されました。 題名は『東林寺教純の系譜と動向』です。投稿でも東林寺は何度か触れています。論文では投稿で触れてない住職の系譜を検討しました。また、免許状、蔵書の現物写真を掲載しています。 修験に関心がある方は購入いただけると嬉しいです。お求めは、まつやま書房までお願いいたします。 引き続きよろしくお願いいたします。

        本山派修験寺院宝積坊の戦国期の動向ー宝積坊幸鑁と「上田家文書」の宛名比定への試みー

          修験寺院の師弟関係について

          はじめに 本山派先達修験寺院笹井観音堂の研究を継続している。寺院運営と年行事職としての霞支配が主たるテーマであるが、運営は宗教活動を基礎として経済・文芸などの多方面に参画することで旦那衆との関係深化、財政基盤を整備していった「里修験」的活動が史料に残る。 霞支配に関しては、笹井観音堂を頂点とした上流部分だけでは史料上の制約から把握は困難である。むしろ、「同行」と称される配下寺院の動向からアプローチするのが断片的ながらも実態を把握できるのがわかった。これは筆者のフィールドワーク

          修験寺院の師弟関係について

          狭山市柏原所在の影隠地蔵についてー源義高伝説と本山派修験寺院正覚院との関係ー

          はじめに埼玉県狭山市柏原の奥州道交差点には、「影隠地蔵」が人と自動車を見守るかのように所在している。この地蔵は、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した木曾義仲の子義高の伝説がある。 伝説は、義仲から人質として鎌倉の源頼朝の元へ送られた義高が父と頼朝の抗争によって処刑から逃れるために鎌倉から逃亡を図った。途中、鎌倉の追捕をかわすため地蔵の裏に隠れたところ、義高の影を消したため一旦は回避できた内容である。最終的に追っ手に捕縛され、入間川の畔で斬られてしまった。義高を供養す

          狭山市柏原所在の影隠地蔵についてー源義高伝説と本山派修験寺院正覚院との関係ー

          戦国期における領主と山伏の関係構築ー加持祈祷の事例からー

          自分がnoteに投稿したタイトルを見たところ本山派修験寺院における免許状申請から上官寺院への認証までの流れから主従関係の考察、由緒書・寺院運営の構成など具体的事例を挙げながらも抽象的な話になっていた。 今回は、現在、調査を開始しようと考えている本山派先達修験寺院玉林坊の文書をベースに戦国大名と山伏の関係についての第2弾を書いていく。 過去の投稿では戦国大名による山伏動員の実像を検討してステレオタイプではなく史料に即したことを記述した。 本投稿における主題は山伏の基本実務の加持

          戦国期における領主と山伏の関係構築ー加持祈祷の事例からー

          本山派修験寺院の霞支配と運営についてー由緒書・配下一覧から見えるものー

          前回、本山派修験寺院の例を挙げて各種免許状の取得過程及び上官寺院による認証の流れを書いた。 免許状は、住職の地位を示すもので聖護院から許可を得て初めて効力が発生した。例外として関東一円の修験寺院を統括する幸手不動院は、配下寺院を免許状を発給していたが、基本は上洛によって受給した。本山派の組織間における秩序維持と浸透に免許状の発給が役割を果たしていた。 江戸期に入ると聖護院に加え、寺社奉行が執行した毎年の宗門改においても寺院の由緒書、住職の保有免許・役位(役僧、正または准年行

          本山派修験寺院の霞支配と運営についてー由緒書・配下一覧から見えるものー

          修験寺院の呼称について2ー坊号・院号免許の区別ー

          本稿は、修験寺院の呼称について、再度、整理・検討するものである。最近、企画展・SNSで修験寺院の呼称について区別が明確でない記述が散見された。 本山派の例を今回も取り扱う。本山派なら総本山聖護院から修験寺院の坊号・院号を始め、役職・僧位・法印・各種装備品・装束の着用免許を得ることで称する、身に着けることができる。以前、noteで「修験寺院の通称・呼称について」の投稿において記述した。そして、各種免許状は、世襲されず継承者は都度、上洛して聖護院から受給したのも述べた。 今回は

          修験寺院の呼称について2ー坊号・院号免許の区別ー

          所蔵史料から見る修験寺院の運営と霞支配

          修験寺院の調査では、現物史料や法具などの所蔵品を拝見できることが近年、増えてきた。末裔の方、博物館で熟覧・撮影によって記録保存が出来ている。また、実際の取材でも口伝をご教示いただくこともあり、史料以上の価値がある、補完できる情報も多い。 一方で史料が常に所蔵されているわけではなく、口伝が主たる情報という場合もある。いずれの場合もフィールドワークや取材を通じてアクセスできるものであり自らの足で理解を深めることが基礎になるのは強調しておきたい。足で情報を得る、そこからご教示いただ

          所蔵史料から見る修験寺院の運営と霞支配

          山伏の加持祈祷と医療・製薬の関係

          修験寺院と地域住民との交流について本山派修験寺院大徳院の例を挙げて以前、投稿した。私は、修験寺院の運営の調査をするにあたり医療・製薬分野を重点に置いてる。医療関連の知識・技能は秘伝と位置づけられたため、生業にしていた寺院としていなかった寺院で分かれる。また、史料の制約・伝承の有無も関係してくる。 先日、根井浄氏の論文である『修験者の医療について』を読んだ。内容は、修験者の医療を咒法療法と薬物療法に分類して、広く一般に浸透していたこと、実践の中に迷信的要素も含まれており、その

          山伏の加持祈祷と医療・製薬の関係

          神仏分離令に伴う修験寺院の財産保護活動

          修験寺院の研究を投稿してきたが、明治元年(1868)には明治政府より神仏習合社会の転換を図る神仏分離令が出された。また、同5年(1872)には修験道禁止令が出され全国の山伏は還俗して神官になるか、寺院を廃絶して帰農するかの選択を迫られた。修験寺院の所蔵文書では都道府県知事から改めて、寺院財産、神官に就く旨の書類を提出して認証を受けたものも含まれる。これら2つの法令でより問題になったのが廃仏毀釈で寺院の仏像や経典、諸史料などが既存の神官、民衆から破壊行為を受けて毀損した例が存在

          神仏分離令に伴う修験寺院の財産保護活動

          修験寺院の通称・呼称について

          第1回の投稿で本山派修験寺院大徳院、第2回は、本山派修験寺院宝積坊の活動・寺院運営を検討した。 いずれも京都の本山派総本山聖護院を頂点する修験寺院である。住職が寺院名を称する、山伏の装束を着用、年行事職・僧位など地位を明示するためには、全て聖護院から補任・免許を受けるの必須になる。 山伏の装束着用・年行事職・僧位などの地位に関しては、今回の主題とは異なるので取り扱わない。 今回は、修験寺院の住職が寺院名を称するための過程を書いていく。 (1)寺院名を称するための過程 修験

          修験寺院の通称・呼称について

          戦国大名による山伏動員

          今年の7月に長野県立歴史館で「山伏ー佐久の修験 大井法華堂の世界」の企画展が開催されたので初日に訪問してきた。 大井法華堂は、佐久郡岩村田にある本山派修験寺院である。開祖大井源覚は、信濃守護職小笠原氏の一族である大井光長の子として誕生した。 同堂は、聖護院から、慶長期頃(1596年から1615年)までに「佐久郡内大井の年行事職」の補任状を受給している。関連文書では、応安7年(1374)の段階で在地の旦那衆を熊野・二所へ引導する先達職を任されているので年行事職補任以前から血縁・

          戦国大名による山伏動員

          修験寺院住職の地域交流についてー本山派修験寺院大徳院の事例からー

          (1)山伏の多様な活動 noteでの投稿第1回目は山伏の話をする。山伏は、地域に在住して近隣の人々から加持祈祷の依頼を受けて、病気なら護摩を修すに加え、医療行為・投薬を行って治療を行っていた。また、災いを避けるためにお札を授与・占術を行い、人々の不安を取り除いていた。現代の様に医者などの専門職の人間が常にいるとは限らない時代において山伏は「地域のカウンセラー」であった。地域の祭祀(祭り、庚申講)においては導師を務めていた。祭りの具体例は神楽・獅子舞などである。 神楽・獅子

          修験寺院住職の地域交流についてー本山派修験寺院大徳院の事例からー