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狭山市柏原所在の影隠地蔵についてー源義高伝説と本山派修験寺院正覚院との関係ー

はじめに

埼玉県狭山市柏原の奥州道交差点には、「影隠地蔵」が人と自動車を見守るかのように所在している。この地蔵は、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した木曾義仲の子義高の伝説がある。
伝説は、義仲から人質として鎌倉の源頼朝の元へ送られた義高が父と頼朝の抗争によって処刑から逃れるために鎌倉から逃亡を図った。途中、鎌倉の追捕をかわすため地蔵の裏に隠れたところ、義高の影を消したため一旦は回避できた内容である。最終的に追っ手に捕縛され、入間川の畔で斬られてしまった。義高を供養する神社である清水八幡宮が現在でも入間川段丘上に存在している。

しかし、義高伝説が全面に出ているためか地蔵の来歴に触れられることは無い。史料上では、『新編武蔵風土記稿』、江戸期の「上広瀬村明細帳」では明確に所有者が記述されている。今回は、触れられることのない影隠地蔵の来歴を現地調査も踏まえて記述していく。
なお、現在の所在地は柏原であるが、江戸期では隣接地区の広瀬と記述されている。江戸期の記述を基準にしていくのを断っておく。

(1)広瀬の位置

広瀬は、歴史的に見ても交通の要衝である。鎌倉街道上道入間川道が通っており、北東は「八丁の渡し」を渡河して大規模宿場の「入間河宿」が存在した。この宿場内の徳林寺には関東公方足利基氏が上野・越後に拠点を構える新田軍に対応するために9年に渡り在陣した「入間河陣」が置かれた。基氏は「入間河殿」と称された。
宿場については、落合義明氏による「中世武蔵国における宿の形成―入間川宿を中心に」で景観と隆盛ぶりと大規模火災による衰退が詳述されている。
広瀬から北西の日高市に向かって鎌倉街道が通り、道中の交差点も「鎌倉街道」とあり、歩いていくと鎌倉街道の石碑も存在する。街道は日高市から坂戸市へ向かって続いており途中の川越線武蔵高萩駅の周辺は「高萩宿」が展開した。後に「高萩新宿」として後北条氏が町衆に宿場管理の書状を発給している。

奥州道交差点脇の影隠地蔵
源義高を祀る清水八幡宮
奥州交差点上の鎌倉街道上道入間川道


日高市に入ってすぐの鎌倉街道上道入間川道の石碑

(2)影隠地蔵所有者の本山派修験寺院正覚院

冒頭で影隠地蔵の所有者は史料で記述されると書いた。所有者について、『新編武蔵風土記稿』では「正覚院持ち」記述される。
正覚院とは、本山派修験寺院であり上広瀬村に所在していた。同寺院について、5点の史料で動向が確認できる。

①宝暦5年(1755)作成の「上広瀬村明細帳」で「正覚坊」とある。(同坊の初見史料)

②安永3年(1774)に上官寺院笹井観音堂が作成した「武州大先達瀧音山白山寺笹井観音堂触下次第」で「高麗郡廣瀬村 愛宕山正學院」として登場

③寛政11年(1799)12月に広瀬浅間神社へ「正学院」が庚申塔を奉納

④天保13年(1842)作成の「上広瀬村明細帳」に「正覚院」として登場

史料①「宝暦五年二月 上広瀬村明細帳」『狭山市史近世資料編Ⅱ』
「   宝暦五乙亥年
 武州高麗郡上広瀬村諸色明細帳
    二月日
(前略)
              武州高麗郡笹井観音堂袈裟下
一高外 坊地三畝廿九歩 除 正覚坊
一高外 上畑弐畝廿七歩 除かこい之内地蔵堂地
一   拾五歩 御帳外神明宮地
一   弐畝歩 御帳外愛宕宮地
(後略)」 

史料①は宝暦5年における正覚院の境内地明細である。同時点では、「坊号」を称しており「正覚坊」とある。上官寺院は、「武州高麗郡笹井観音堂袈裟下」と記述されるように高麗郡年行事職笹井観音堂の配下寺院であるのも確認できる。

笹井観音堂が作成した史料②の安永3年(1774)付け「武州大先達瀧音山白山寺笹井観音堂触下次第」でも「高麗郡廣瀬村 愛宕山正學院」と列挙され上官寺院側でも主従関係が確認できる。史料から正覚坊は、宝暦5年以降から安永3年までに聖護院から「院号免許」を受給して正覚院を称したと言える。しかし正覚院受給の各種免許状は自治体史に掲載が無い。

院号を称した正覚院は、広瀬浅間神社所在の寛政11年(1799)12月に広瀬浅間神社へ他の村人と共に庚申塔を造立した。

正覚院が上広瀬の人々と造立した庚申塔(在広瀬浅間神社)

史料④においても境内地に大きな異同はなく寺領を維持していた。
史料④「天保十三年八月 上広瀬村明細帳」 『狭山市史近世資料編Ⅱ』
「 天保十三壬寅年八月
 武州高麗郡上広瀬村諸色明細帳
        名主清水播右衛門所持
(前略)
              武州高麗郡笹井観音堂袈裟下
一高外 坊地三畝廿弐歩 除 正覚院
一高外 上畑弐畝廿七歩 除地囲之内地蔵堂地
一   拾五歩 御帳外神明宮地
一   弐畝歩 御帳外愛宕宮地
(後略)」 

本稿が主題とする影隠地蔵と関連する項目は史料①と④である。宝暦5年・天保13年の検地において正覚院は「高外 上畑弐畝廿七歩 除かこい之内地蔵堂地」を寺領とした。影隠地蔵は『新編武蔵風土記稿』における「正覚院持ち」の記述と「上広瀬村明細帳」の「地蔵堂地」は一致する情報である。
現在の影隠地蔵は石造であるが、往事は木造であり時期不明ながら石造として再造立された経歴がある。正覚院が持仏とした時期は、「地蔵堂」とあるから建屋に安置されていたと言える。
源義高の伝説を詳細に書くならば、隠れた先は正覚院の地蔵堂内だったと見られる。

(3)影隠地蔵の来歴と正覚院の境内地の検討

源義高と影隠地蔵の伝説は、地蔵の裏に隠れたのでは無く正覚院の地蔵堂内に身を隠したのが「上広瀬村明細帳」からわかる。あくまで、影隠地蔵は伝説であるが本稿では実話のように書いてしまった。
ただし、実在の本山派修験寺院正覚院の持仏である点、地蔵は、「地蔵堂」に安置されたことは触れられることがないので史料紹介として提示した。

現地の影隠地蔵の解説版にもあるように何回か移転した旨が表記される。

影隠地蔵の解説版

筆者は、影隠地蔵が正覚院の持仏である点にも着目しているので、周辺で聞き取り調査を実施した。ありがたいことに地域住民の方、広瀬神社宮司の宮本氏からご教示をいただけた。改めて感謝します。

地域住民の方からは「影隠地蔵は、4回移転して現在地に至っている。明治になって信立寺へ移転した。その後、個人宅を経て、道路改修によって「奥州道交差点に移った」とご教示いただいた。

宮本宮司からは、「明治の神仏分離令時、清水宗德が周辺の寺院を廃寺にして檀家を広瀬神社の氏子にした」とご教示いただいた。
広瀬神社も「上広瀬村明細帳」によると真言宗宝蔵寺が別当を務めていた。神仏分離令によって宝蔵寺も廃寺なった。さらに、正覚院も同じく廃寺になったことがわかる証言である。正覚院も、「神明宮」と「愛宕宮」の別当社を所有していた。このうち、「愛宕宮」は同院の「山号」にもなっており、現在、愛宕神社として広瀬浅間神社に隣接して所在する。

正覚院が別当を務めた広瀬愛宕神社

江戸期の明細帳と広瀬地区における聞き取り調査で愛宕神社周辺が正覚院のの境内地だと推定した。別当社は、境内地に所在例が多いこと、明細帳の記述にある「畑」が現状維持されるのも根拠になる。

(4)影隠地蔵伝説に見る寺院のアジール性

源義高は、正覚院の地蔵堂に隠れて一次、追っ手をかわした。伝説上の話であっても寺院に駆け込むというのは、「駆け込み寺」が現在でも取り上げらえるように歴史上でも多くあった。
何らかの理由で社会的立場の危機、生命の危機に陥った場合、寺院に駆け込み生命の保全を図る駆け込みについては、伊藤正敏氏による詳細な研究がある。寺院に駆け込みは公権力や対立者からの追及を逃れる手段であっても寺院のルールに従わない場合は、追放されるとあり無条件の受入れではなかったと解説している。
また、寺院の周辺には経済的活動を行う市場などが立つことからその景観は「境内都市」と伊藤氏は定義する。

寺院という枠組みからも、寺院への駆け込みは「半僧半俗」・「優婆塞・優婆夷」と称された山伏の運営する修験寺院においても当然想定される。修験寺院における事例は、青森県新郷村所在の本山派修験寺院多門院の文書で存在する。
多門院は盛岡藩南部氏と関係が深い本山派修験寺院自光坊の配下寺院である。多門院は、南部三戸・六戸・七戸の内で67ヶ村の正年行事職を務めた。同院の霞を列挙した聖護院門跡の奉書も掲載がある。

史料⑤「年未詳3月10日 娘馬駆込訴状 」「多門院文書」
「恐れながら申し上げます

この度横濱村に在住する百目木村久三郎の娘18才「馬」と申す女(むすめ)が2月14日夜に「助けてくれ」と申して院内へ駆け込みました、実にやむを得ないことですが(娘の馬を)匿いましたので右のこと御報告いたします 以上」
    金剛院(印)
 三月十日
    大光院(印)
 多門院様」

同文書は、駆け込み人である「馬」という女性を寺院で保護した旨を金剛院と大光院が上官寺院の多門院へ報告した内容である。
馬は、金剛院へ駆け込み、多門院へ報告するため大光院が証人として連署したと解釈できる。
多門院の文書では事の顛末までは追えないので馬の動向はわからない。夜に駆け込んだので夜逃げであり家族間でのトラブルがあったのだろう。

おわりに

伊藤氏の研究と多門院の事例から影隠地蔵は伝説であっても問題を抱えた人間が寺院へ保護を求める手段がうかがえるものと言える。義高の悲劇として捉えるだけでなく、正覚院の持仏である点、地域内で移転を繰り返したこと、寺院のアジール性にも踏み込める伝説であると位置づけたい。義高伝説が大河ドラマに関係したため盛り上がりを見せたが、影隠地蔵の歴史に触れられることはない。
過去の投稿でも触れているように修験分野は人物・合戦・城館と比べると関心が薄い。地域でご教示やフィールドワークをしていると修験の話が消えてしまう危機感を個人的に覚えている。最近も義高関連のイベントが狭山市で実施されたので修験寺院と結びつけるのが可能な話でもあったので投稿した。

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