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本山派修験寺院竜蔵院の系譜の検討ー大宮寺衍純の日記からの考察ー

はじめに

地域の修験寺院の調査は、フィールドワークこそが根本だと筆者は思う。墓石、聞き取りなどで文書だけは追えない情報、新発見の史料が多いからだ。修験寺院は、自治体史で充実している場合、別途編纂などで基本情報を揃えて紹介することもある。
筆者は本山派先達修験寺院笹井観音堂の寺院運営・霞支配を研究しているが、近年は配下寺院の方から主従関係の浸透、霞支配の実態に迫っている。具体的には所沢市糀谷の竜蔵院・狭山市下奥富の東林寺・日高市高萩の高萩院である。
竜蔵院は、『所沢市史社寺』で文書、所蔵板碑の択本が収録されるなど豊富な情報がある。
竜蔵院は57点収録されており、寺院運営、旦那衆との交信など具体的な情報が残っているので地域山伏の動向を今に伝える。
筆者は数年、研究しており、末裔の糀谷八幡神社中義之宮司から様々なご教示を賜り、日々前進させて貰っている。改めてお礼申し上げる。

東林寺教純と高萩院教寛は、師弟関係にあった寺院と、横田稔編 『武蔵国入間郡森戸村 本山修験 大徳院日記』で紹介されて、過去のnote投稿、『埼玉史談』で取り上げる機会があり恩恵を受けた。
今回のテーマに関連させると教純門下の山伏に大宮寺良純がいた。良純の曾孫・衍純が残した史料に竜蔵院が登場する。
改めて、本論で紹介するが史料中には「玉蔵坊」と竜蔵院の坊号で登場する。本稿では、玉蔵坊を称する竜蔵院の人物の比定と改めて竜蔵院住職との系譜関係を検討するものである。

(1)大宮寺衍純と本山派修験寺院玉蔵坊との関わり

大宮寺衍純が玉蔵坊と関係が確認できる背景は、衍純が江戸幕府に寺院の朱印状を発給申請するために江戸に出張したからである。

文書1 嘉永七年(1854) 「御朱印御改日記」『高麗家文書一』四一号
「嘉永七甲寅十月
 御朱印御改日記
   武州高麗大宮寺」
   覚
七日
森戸出立
(中略)
十日夜雨
十二社へ参り添簡請取来ル、
 添翰
一 拙院の霞下、武州高麗郡高麗郷大宮寺義、今般、御朱印御改に付、御奉行所へ罷出て、願い出しますので取り調べの処、相違御座いませんに付、すなわち添翰をつかわしました。御吟味の上、御差出し願い奉ります。以上。
          笹井村大先達
               観音堂
嘉永七寅十月
  本山江戸
    御役所
旅宿へ立ち帰り即刻役所へ出る。役僧法徳院に初めて面会して、観音堂の添翰あわせて手札(を)差し出す、(御朱印状の)写紙(は)大奉書にてしかるべきと承わり届けた。

十二社から玉蔵坊次男求馬(が)役所へ参っており、先刻、十二社へ参ったおりの書役(御朱印状写し作成)の事は、大久保に住む旗本隠居にて役所へ数ヶ寺分(の御朱印状写しの作成)を頼み、作成してもらえると(玉蔵坊次男から)承わった。もともと、玉蔵坊と入懇の人であるゆえ、拙院(大宮寺)の写しも頼みたいと玉蔵坊へ申し上げたら、即刻、次男(玉蔵坊次男)が何を置いても書役依頼に同道してくれた。則ち明日、御朱印持参致すと約束した。

十一日
早朝、大久保法徳院へ参り大徳院も同道で美濃帳について承りたいとしたら即ち美濃にてよろしいと指図があった。(衍純)と大徳院(周乗は)同道して飯田氏へ参る。
伝馬町三町目、万屋にて大奉書壱貼・中美濃弐状半を買った。壱分遣わし百十六文返る、すぐさま、(衍純は)飯田氏宅(へ)書役へ持参いたし写しを頼んだ。この日から写しが始まり、夕方、宿所へ持ち帰った。
(後略)」

文書1は、大宮寺衍純が縁戚である大徳院周乗と一緒に江戸へ朱印状発給のため出張した際に付けた日記である。周乗も江戸出張について日記を付けていた。
衍純は、十二社で上官寺院笹井観音堂が発給した「朱印状発給願」の添翰を受け取り、役僧法徳院を訪ねた。
法徳院は、周乗の日記「御朱印御改日記」にも記述があり、本山派修験寺院江戸触頭を務めた大久保大聖院の役僧である。
朱印状写しの様式を法徳院から指図があったので衍純と周乗は大奉書と美濃紙を購入している。

衍純と周乗は朱印状写しの作成を誰かに依頼しなけらばならかった。そこで十二社で衍純に当時の堂主・笹井観音堂良賢が発給してくれた添翰を届けてくれた「玉蔵坊次男」に人の紹介を頼んだ。文書1・2で登場する、「大久保住居旗本隠居」こと飯田一夢を「玉蔵坊次男」から紹介され、一夢の元へすぐに頼みに行って、承諾を得たのが同文書の内容である。

文書2 嘉永七年(1854) 「御朱印御改日記小遣帳」『高麗家文書一』四二号
「嘉永七年     高麗山
            大宮寺
 御朱印御改日記小遣帳
 甲寅十月   三拾五世衍純
   覚
(中略)
翌十日
役所にて玉蔵坊次男(と)面会いたし、この者(と)同道して飯田一夢方へ参り(御朱印状)写し(を)認め(作成してもらう)のを依頼した。
(中略)
入用金覚
(中略)
一 弐百四拾文 玉蔵坊弟ト二人酒食
(後略)」

文書2は文書1の江戸出張で掛かった費用明細書である。文書2でも「玉蔵坊次男」と衍純・周乗が飯田一夢宅へ依頼しに行ったのが書かれる。衍純は、同僚寺院である「玉蔵坊次男」を食事に招いてお礼をしたのが明細にある。

文書1・2で登場する「玉蔵坊次男」を竜蔵院の誰かを比定する前に玉蔵坊が旗本飯田一夢と昵懇だった背景を述べる必要がある。
竜蔵院所蔵史料には、境内地周辺の旗本澤家が同院の有力な旦那だと示す史料がある。
澤家は、糀谷に隣接する三ヶ島の妙善院を菩提寺としており、江戸へ大番役で出府した経歴がある。

旗本澤家菩提寺の妙善院


玉蔵坊と飯田一夢の関係は、師旦関係にある澤家の人脈に求められると言える。衍純が「玉蔵坊と飯田家は、入魂」と書いてるから澤家を介して加持祈祷を竜蔵院へ依頼したこともあると想定可能である。

(2)「玉蔵坊次男」とは誰か

玉蔵坊は、竜蔵院の坊号だと混乱を避けるため再度、記しておきたい。
同修験寺院の歴代住職を記した「三島山高林寺玉蔵坊世代」(以下「玉蔵坊世代」)が竜蔵院史料に含まれる。
世代書を作成したのは第28世竜蔵院義鳳である。
竜蔵院所蔵文書57点のうち13点が義鳳の動向を示す史料となる。
中義之宮司のご教示を元に、整理したいと思い「本山派修験寺院竜蔵院についてー住職竜蔵院義鳳の活動を中心にー」を執筆した。
義鳳の動向整理は、寺院運営を知ることと同義であると考えるに至った。


竜蔵院義鳳の墓石


義鳳は、文政6年(1823)に初めて登場して、慶応2年(1866)に死去した。衍純の嘉永七年の江戸出張時の竜蔵院住職が義鳳となる。衍純に助力した「玉蔵坊次男」こと求馬は、義鳳の子である。
義鳳の子には、第29世竜蔵院義翁(文政六年(1823)ー明治24年(1891))がおり「玉蔵坊世代」に登場する。同世代書は義鳳・義翁・義英と継承された旨が記述されている。義鳳死去後にも追記がされた史料でもある。しかし、義鳳の子・求馬は「玉蔵坊世代」に次男であるため登場しない。

だだし、求馬の動向を探る手掛かりが竜蔵院歴代住職墓地にある。

竜蔵院義道夫妻の墓石

竜蔵院住職墓地は、「玉蔵坊世代」に記述が無い山伏の墓石が存在する。写真の竜蔵院義道は、明治21年に死去したと墓石に記銘がある。義鳳の死去後、竜蔵院一族で死去年が判明してるのは義翁・義英と義道である。義翁は義鳳の長男で後継住職で義英は、義翁の子で「神仏分離令」以降は神職に転じた。系譜関係を整理すると義道が求馬の法名であり衍純が記した「玉蔵坊次男」に該当すると想定できる。
義道は聖護院から「権大僧都」・「法印」免許を受給しており、兄・義翁を補佐する立場にあったと言える。

大宮寺衍純と江戸出張した大徳院周乗には弟・周興がいた。周興は、兄の留守中、来客応対をしたり急用の場合は江戸に使者を派遣して連絡を取り合っていた。
衍純の弟で高萩院教全の養子になった高萩院純昭がいる。純昭も高萩院の運営とともに大宮寺へ訪問して兄弟仲は良好であった。
大宮寺・高萩院の兄弟関係のように竜蔵院でも義翁・義道兄弟は協力して寺院運営に当たったと指摘しておきたい。

おわりに

本稿では、大宮寺衍純の江戸出張時に本山派修験寺院玉蔵坊が助力した内容の日記を扱い、竜蔵院の住職系譜の再検討を試みた。
衍純は「玉蔵坊次男」を求馬という実名を書いている。求馬が竜蔵院住職墓地所在の墓石で「玉蔵坊世代」に登場しない人物の中から検討したところ、竜蔵院義道が求馬であると比定した。
本論では流れの関係で書かなかったが義鳳は、笹井観音堂から役僧に命じられた書状が竜蔵院史料に存在する。義鳳は、役位から笹井観音堂良賢より使者を命じられて求馬を派遣したと見られる。
そして、竜蔵院と飯田一夢の関係は竜蔵院の有力旦那だった旗本澤家との縁であった。修験寺院と旦那の関係を考える1つの素材になり得る事例だと大宮寺衍純の「御朱印状御改日記」を位置づけたい。

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