修験寺院の呼称について2ー坊号・院号免許の区別ー

本稿は、修験寺院の呼称について、再度、整理・検討するものである。最近、企画展・SNSで修験寺院の呼称について区別が明確でない記述が散見された。
本山派の例を今回も取り扱う。本山派なら総本山聖護院から修験寺院の坊号・院号を始め、役職・僧位・法印・各種装備品・装束の着用免許を得ることで称する、身に着けることができる。以前、noteで「修験寺院の通称・呼称について」の投稿において記述した。そして、各種免許状は、世襲されず継承者は都度、上洛して聖護院から受給したのも述べた。

今回は、坊号・院号の区別をするために事例を挙げながら免許状を得る手順を記述していく。修験寺院の住職が受給した免許状に触れること、免許制度が理解できるならば区別は明確になるであろうと思われる。

(1)坊号・院号免許の受給手順

修験寺院には、聖護院から受給した免許状を所蔵している例は少なくない。それは、先達・年行事職寺院を通じて聖護院配下だと示す証文、地位を示すことになるからだ。埼玉県ならば、『埼玉県史資料編』などの自治体史および市町村が刊行する修験寺院の資料集によって触れることができる。

各種免許状を住職が聖護院から得るためには、上官寺院である先達・年行事職寺院の許可を得た上で、上洛、免許料を総本山へ納付して受給するのが手順となる。

文書1 文政元年(1818)「官位仕切状」「黒山覚浄院文書」
  「官位仕切之事
一僧都坊號
一院號
一両緒
一桃地
一権大僧都
一法印
一金襴地
右、願いに依り免許する。御令旨の義は明秋(文政2年秋)に上京するみぎりに(聖護院へ)言上して渡すことにする。以上
     文政元                山本坊
       寅十一月               役所(印)
       覚浄院栄元」

同文書は、本山派先達修験寺院山本坊の配下寺院である覚浄院の住職栄元が寺院運営にあたり免許状受給を希望して山本坊へ申請した時の返書である。
文中によると文政2年(1819)の秋に上洛して各種免許状を受給する予定だったが実際に得られたのは文政10年(1827)と8年後である。
栄元は、金襴地結袈裟着用以外の免許状は受給できた。

文書2 文政10年 「三山奉行若王子奉書」「黒山覚浄院文書」
「僧都を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色(ご意向と)、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
  文政十年三月七日       法橋秀堅(花押)
                 法橋秀孝(花押)
    武州入間郡黒山村
         蓮智坊栄元」
「(裏書) 
   大先達の霞により加判する
               山本坊(印)」

文書3 文政10年 「三山奉行若王子奉書」「黒山覚浄院文書」
「院号を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
  文政十年三月七日       法橋秀堅(花押)
                 法橋秀孝(花押)
    武州入間郡黒山村
         覚浄院栄元」

文書4 文政10年 「三山奉行若王子奉書」「黒山覚浄院文書」
権大僧都を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
  文政十年三月七日       法橋秀堅(花押)
                 法橋秀孝(花押)
    武州入間郡黒山村
         覚浄院栄元」

本稿と関係する免許状は、院号・権大僧都両免許である。坊号は僧都の僧位と共に文書1で栄元は聖護院へ申請する希望を山本坊へ出している。坊号免許状は存在せずとも聖護院坊官の宛先が「蓮智坊」と記述するので免許されたと見られる。

文書1から3までの文書から坊号と院号は区別され、免許状を得ることで称せるのは明確である。そして、帰国後は、山本坊へ出頭して免許状の認証を得ることで従属関係の確認と地位の確定を得るのがルールであるのは上官寺院の裏書と印判から確認できる。

免許状を得ても住職は寺号を称した、坊号を通称とするなど多様であるのが混乱を招く1つの原因と想定されるが免許制度を理解していれば生じることはない問題である。

覚浄院以外の寺院でも同様の事例は存在する。本山派先達修験寺院十玉院の配下寺院である般若院・玉宝院、本山派先達修験寺院笹井観音堂の配下寺院である大宮寺の例を挙げる。
列挙する3寺院には覚浄院が所蔵する「官位仕切状」は存在しないが、免許状の受給申請手順は、同様であると判断してよい。そして、十玉院以外は上官寺院の裏書と印判も存在する。

文書5 文政12年(1829) 「三山奉行若王子奉書」「水宮三衛家文書」
「僧都を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
  文政十二年三月朔日      法橋秀堅(花押)
                 法橋秀孝(花押)
    武州入間郡水子村
        大乗坊」

文書6 文政12年「三山奉行若王子奉書」「水宮三衛家文書」
「院号を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
  文政十二年三月朔日      法橋秀堅(花押)
                 法橋秀孝(花押)
    武州入間郡水子村
         般若院」

文書7 文政12年「三山奉行若王子奉書」「水宮三衛家文書」
「権大僧都を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
  文政十二年三月朔日      法橋秀堅(花押)
                 法橋秀孝(花押)
       武州入間郡水子村
            般若院」

文書5から7は、本山派修験寺院般若院の文書である。覚浄院栄元が受給した免許状と同じ内容である。住職名は記述されていないが、金襴地結袈裟免許状の宛名から般若院了諦だと判明する。

文書8 文政12年「聖護院門跡御教書」「水宮三衛家文書」
「金襴地結袈裟(の着用)を免許する旨、聖護院宮の御氣色により伝えるものである。
                 法印源定(花押)
   文政十二年三月五日     法限祐文(花押)
                 法限源乙(花押)
        武州入間郡水子村
            般若院了諦」  

金襴地結袈裟の着用免許については、千代田惠汎先生が聖護院門跡の名前で発給する特別な結袈裟であると指摘している。(千代田惠汎『村と修験』北武蔵研究会)

文書9 天保10年(1839)「三山奉行若王子奉書」「玉宝院文書」
「僧都を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
  天保十年七月十六日      法橋秀孝(花押)
                 法橋秀賀(花押)
    武蔵国入間郡安松村
          真浄坊盛慶」
「(裏書)
  武蔵入東郡下南波田村
        本山大先達
          十玉院(印)
          同行
          玉宝院」

文書10 天保10年(1757)「三山奉行若王子奉書」「玉宝院文書」
「院号を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
  天保十年七月十六日      法橋秀孝(花押)
                 法橋秀賀(花押)
    武蔵国入間郡安松村
          玉宝院盛慶」

文書11 宝暦7年(1757)「三山奉行若王子奉書」「玉宝院文書」
「権大僧都を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
   天保十年七月十六日     法橋秀孝(花押)
                 法橋秀賀(花押)
     武蔵国入間郡安松村
           玉宝院盛慶」

文書9から11は、本山派修験寺院玉宝院の文書である。歴代住職では権大僧都の僧位を受給していない住職も存在した。覚浄院・般若院ともに3点の免許状を受給した玉宝院盛慶の事例を取り上げた。

文書12 寛政11年(1799) 「三山奉行若王子奉書」「高麗家文書」
「僧都を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
  寛政十一年二月十九日(朱印)  法橋淳応(花押)
       武州高麗郡高麗郷
        大宮別当
         高麗山大宮寺
              行賢坊正純」
「(裏書) 霞下によって裏書を加えるものなり 大先達
                  観音堂(印)」

文書13 寛政11年(1799) 「三山奉行若王子奉書」「高麗家文書」
「院号を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
  寛政十一年二月十九日(朱印)  法橋淳応(花押)
       武州高麗郡高麗郷
         高麗山大宮寺住
              清乗院正純」

文書14 天保10年(1839) 「三山奉行若王子奉書」「高麗家文書」
「僧都を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
                法橋秀孝(花押)
  天保十年七月廿日(朱印)
                法橋秀賀(花押)   
       武州高麗郡高麗郷
        大宮明神別当
         高麗山
           梅本坊明純  
「(裏書) 霞下によって裏書を加えるものなり大先達
                  観音堂(印)」  

文書15 天保10年(1839) 「三山奉行若王子奉書」「高麗家文書」
「権大僧都を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
                 法橋秀孝花押)
  天保十年七月廿日(朱印)
                 法橋秀賀(花押)   
       武州高麗郡高麗郷
        大宮明神別当
         高麗山
           大宮寺明純

文書16 天保10年(1839) 「三山奉行若王子奉書」「高麗家文書」
「院号を免許することは聞いての通りで、子細は言わない。検校宮の御気色、三山奉行若王子御房所が仰せ出すものである。
                法橋秀孝(花押)
  天保十年七月廿日(朱印)
                法橋秀賀(花押)   
       武州高麗郡高麗郷
        大宮明神別当
         高麗山
           清浄院明純」

文書11から16は本山派修験寺院大宮寺の住職正純・明純父子が聖護院から受給した免許状である。
明純は、本山派修験寺院大徳院・東林寺の投稿でも登場した住職である。大徳院周応の姉つたは、正純と婚姻して明純が誕生した。明純は、周応に師事しつつ、祖父の大宮寺良純・叔父周応と共に東林寺教純の弟子でもあった。 

以上、16点の各寺院の免許状を列挙した。
坊号と院号は、明確な区別があり聖護院から免許を受けることで名乗ることが許された。順序的には坊号を称してから院号という流れであった。
各寺院とも各種免許状は上洛して一括申請の上、受給する。帰国後は、上官寺院に出頭して認証を得るプロセスは共通する。
一括申請という状況であっても、当初は坊号を名乗り「院号免許」を得てから以後、「院」を称した点は寺院表記においてしっかり整理することが重要である。免許制度を理解しているかが混乱が生じる有無を示す1つの基準となろう。

(2)坊号・院号を使い分けた住職達

次に、各寺院の院号・僧位の免許状から見える傾向について書いていく。
覚浄院・般若院・玉宝院・大宮寺の事例を触れていて、ある傾向が存在する。
僧位の免許は僧都・権大僧都が存在する。各種免許状を聖護院へ申請する場合、一括申請であっても「僧都免許」を受給する際に大宮寺明純は例外であるが、「坊号」で受給している。

一方、「権大僧都免許」は、「院号」で受給している。僧都・院号と申請順番が存在したのは想定できるがこの点を検討する。

僧都と権大僧都では、後者の僧位が上位である。僧位の格付けから考えると、住職達は高位の免許状を得るにあたり相応の格を持って申請して敬意を払ったと見るのが自然であろう。僧位の格付けの配慮から「権大僧都免許」を受給する際には先に院号免許を得てから申請を出した流れが見られると言える。一括申請においても地位への配慮は可視化させる意識が住職達にあったのだ。

今回は、最近、気になった修験寺院の坊号と院号について検討した。文章化の理由が両者の区別が明確ではないのが理由である。聖護院を頂点とする免許制度への理解によって混乱は避けられる。
また、覚浄院の文書から免許を得るためには事前に希望する免許状一覧を上官寺院に提出・許可を得る過程が存在することも記述した。そして、上洛して各種免許状を聖護院から免許料を納付の上、受給する。帰国後は上官寺院へ出頭して認証を得ることで完了した。一連の手順は、上官寺院と配下寺院の従属関係を再確認する機会にもなっていた。それは「官位仕切状」・「裏書」の存在から帰属先の明確さを示す証拠にもなる。霞一覧を先達修験寺院・役僧寺院が作成する、山伏修行、日々の指揮命令関係に加え従属関係の明示によって霞地域が混在する状況下において何重にも及ぶプロテクトの一翼を担っていたのが免許状申請から認証までの過程なのである。

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