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本山派修験寺院宝積坊の戦国期の動向ー宝積坊幸鑁と「上田家文書」の宛名比定への試みー

はじめに

埼玉県美里町白石の本山派修験寺院宝積坊については、私は、noteで霞支配、領主との関係面で何度か取り扱っている。
先日、埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催される「鉢形城主北条氏邦」の企画展へ行ってきた。
注目展示品は埼玉県小鹿野町両神薄に所在する法養寺薬師堂十二神将像と月光菩薩・日光菩薩の修復後の姿である。
法養寺薬師堂十二神将は、鉢形城主北条氏邦が鉢形領被官と共に奉納したもので領国支配を検討する上で、欠かせない仏像となる。
近年、十二神将の墨書から氏邦の生年が明らかになり、従来は北条氏康の4男とされたが、氏規の弟に位置づけられた。さらに、兄弟序列も再検証がなされ、氏規の家中に置ける地位、氏邦の元服の遅さから氏康正妻随契院殿の出生ではないと指摘された。

氏規については、以前から「氏康次男」という記録の存在、正妻からの出生である点は明らかになっていた。
浅倉直美先生によって上記の点もさらに研究が深化して今川義元の元へ人質だった経歴も今川氏側から北条氏との架け橋になるのを期待された。元服時は今川氏当主の五郎に「助」を付けて「助五郎」を義元から授かったと指摘された。
十二神将の墨書からは北条氏邦の出生、他史料との結合から家中に置ける地位を研究によって再検証が進んだことで一気に価値が跳ね上がったのである。

氏邦による十二神将奉納には願主として「申神」を奉納した聖乗坊成範(盛範とも)が中心となった。成範については、榛澤郡六供(寄居町六供)の極楽寺住職で当山派山伏だった。そして、法養寺薬師堂造立にも関与したのが高橋稔氏の研究で明らかにされている。
先行研究を元に極楽寺の住職墓地へ筆者も行ったところ墓誌が存在して同人の記銘を確認した。

参画者には本山派修験寺院宝積坊も加わった。墨書には宝積坊幸鑁と記銘される。宝積坊の文書「上田家文書」には氏邦からの書状も含め中世文書が含まれるが住職名が書かれておらず、比定を試みた研究もない。宝積坊の動向から文書に登場する住職は誰かを推定するのが今回の目的である。


(1)北条氏邦と宝積坊幸鑁

宝積坊の文書は8点が確認される。内訳は6点が中世文書、2点が近世文書となる。
十二神将の内、「酉神」を奉納したのが宝積坊幸鑁である。幸鑁は「天正十三年酉乙六月七日 旦那宝積坊幸鑁僧都」と墨書した。
十二神将奉納は、氏邦にとって領国を挙げての一大事業であり、成範が願主として中心的役割を果たしたが、宗教的権威を持たせるためには榛澤郡10ヶ村の年行事職を聖護院から任命された宝積坊の関与が必要であったと以前の投稿では指摘した。


極楽寺にある住職墓地の聖乗坊成範の記銘


法養寺薬師堂十二神将(修復後)
法養寺薬師堂十二神将(修復後)

聖乗坊成範は氏邦から極楽寺へ寄進を受けるなど保護を受け領内の神仏加護を担う宗教者であった。そして本拠鉢形城と比較的距離の近い地点に位置する宝積坊を従属させることで同坊が維持する宗教的権威を領国支配に取り込んだのある。
その根拠になると見られるのが以下の文書である。

文書1 永禄9年(1566) 宝積坊宛 北条氏邦朱印状「上田家文書」
「申し付けたことは、よくよく走廻るべきだ。成就の上は、必ず扶助するので身命を軽んじて行動することを伝えるものである。
          寅   (象印 翕邦邑福)
           八月廿九日      猪俣左衛門尉 奉之
          法積坊」

同文書は、宝積坊へ氏邦が使者の役割を果たすなら必ず支援すると約束した内容である。奉者になっている猪俣左衛門尉は、宝積坊の所在する白石地域の国衆である。地縁から左衛門尉は宝積坊を指南(取次)して氏邦を繋ぐ役割を果たしていたと見られる。
同文書中の扶助は境内地の寄進状が存在しないので加持祈祷を担い、鉢形領の宗教行事に権威性を付与する護持僧の地位を宝積坊に氏邦は与えたと私は解釈した。
宛名も「法積坊」とあるのみで住職名は、記されない。天正13年(1585)に幸鑁が登場する19年前の年号である。年代を考慮すると文書1の宝積坊住職は幸鑁だと想定される。

(2)宝積坊の戦国期における動向

次に、時期は遡るが、文書1以外の宝積坊の文書を挙げて住職と系譜を整理してみたい。取り上げる文章は4点である。

文書2 永禄2年 宝積坊宛 聖護院門跡御教書「上田家文書」
「半澤郡之内十箇村の事は、年行事が相混じるので、東林坊が納得できないと申して訴えてきた。(訴訟について)糾明すべく、去年の春(永禄元年)から(聖護院へ)呼び寄せたといえども、両人(東林坊と宝積坊)は滞留ができなかった。東林坊が罷り出てきた以後、宝積坊に上洛せよと言ったのは、いわゆる入峯(修行)以前に各々を参洛させたかったからである。もし、難渋する族は、公事落ちになると堅く仰せしたといえども、東林坊は参洛してこなかった。しかるに六十年以来、去年に至るまで當知行の段は明白であるから、いよいよ全領知のところと聖護院門跡がおぼしめしである。
      永禄貳年七月廿九日 法印(花押)
                僧都(花押)
           武州宝積坊」

文書3 永禄2年 宝積坊宛 大草左近太夫奉書 「上田家文書」
「半澤郡之内十箇村、六十年以来任せ持ち来る筋目で聖護院殿御書出を下し上げは,間違いないことである
        永禄二年己未(禄壽應穏)
            十月二日  大草左近太夫奉
         武州
           宝積坊」

文書4 永禄3年 宝積坊宛 北条高広・長尾藤景連署状「上田家文書」
「武州半澤郡の内で十箇村年行事職は、六十年依頼の筋目であり去年7月廿九日の聖護院殿から任せられ落着の旨、領知は間違い無いことである。
        永禄参十二月廿九日       
                 高廣(花押) 
                 藤景(花押)」
         武州
            宝積坊」

文書2は、宝積坊が年行事職を務めた榛澤郡10ヶ村を巡り東林坊と抗争があった。聖護院は裁定を永禄元年(1558)から行うべく聴取を両寺院からしようとした旨が記述される。結果的に東林坊が上洛してこなかったので宝積坊の主張が聖護院から認定されて年行事職を従来通り務めることが可能になった。

文書3と4は、北条氏と越後上杉氏の被官が宝積坊へ発給した霞安堵状である。いずれも文書1の内容に基づき宝積坊側が申請してきたので発給した内容である。両氏は敵対関係であり、榛澤郡は上野・武蔵を小山川が隔て鎌倉街道上道で繋がる要衝である。霞間抗争も落着したが戦争によって宝積坊を首席とする霞地域の秩序や旦那に被害が及ぶリスクを軽減するため、敵味方双方に霞安堵状を申請した。
宝積坊の所在地は、花園城主藤田氏の藤田領である。藤田泰邦が死去したことで北条氏邦が藤田氏の家督を継承したが上杉軍来襲によって家中が分裂した。氏邦の長兄氏政が援軍を引き連れ、秩父郡の城を攻略、父氏康も支援しつつも氏邦を先頭に調略を試み成功させ「秩父一乱」は平定された経緯がある。
氏康・氏政の後見、祖父三山綱定の補佐を受けなければ藤田領を維持できない氏邦の初期における基盤の弱さを宝積坊側は理解しており、北条本家の被官大草左近太夫に霞安堵状発給の申請を出したものと言える。

文書2では榛澤郡10ヶ村の年行事職を巡り東林坊と抗争になったのが書かれる。最終的に宝積坊の勝訴で解決した。
天正7年(1579)に宝積坊は、聖護院へ霞範囲の明示証文の発給を申請して受給した。

文書5 天正7年 宝積坊宛 「源要知行書立」「上田家文書」
「武州半澤郡之内十ヶ村目録之事
一半澤
一目西
一本郷
一人見
一鬼口
一大屋
一原
一藤田
ー御前田
一ハリガ井
以上
   天正七年八月廿七日   源要(花押)」

宝積坊霞範囲図(転載禁止)

同文書に地名から宝積坊の霞は、現在の美里町、本庄市、寄居町、深谷市に及ぶのが確認できる文書である。
宝積坊は、東林坊のほか、深谷市に所在した榛澤郡年行事職を務めた本山派修験寺院大沼坊とも抗争した。聖護院と関東における修験寺院総取締役幸手不動院頼長が解決に乗り出し、大沼坊と宝積坊を引き分けに近い裁定を下し両寺院の面目を保った。大沼坊は宝積坊の上官であるが抗争以降、関係は断絶した。宝積坊は、幸手不動院との関係を深めていったのが江戸期の宝積院源昌宛の幸手不動院頼圓の書状で明らかである。
有力修験寺院との抗争を克服した宝積坊は、聖護院から霞範囲の目録を受給することで霞支配の確実な執行の手立てを講じたのが文書である。

文書5の年号は天正7年であり幸鑁が登場する同13年の6年前である。年代的に聖護院坊官源要から知行書立を受給したのは幸鑁と言える。
一方で文書2・3・4においては、一考を要する。
この点を検討してみたい。

(3)宝積坊住職の系譜整理

宝積坊の住職は「上田家文書」で1名だけ登場する。天保12年(1841)時の住職源昌である。同人の墓石は宝積坊墓地に存在する。そして今回の主人公である幸鑁が十二神将奉納で登場する。
その他の住職は、宝積坊墓地に墓石が存在する、墓誌によって住職名が確認できる。
墓誌によると、宝積坊は、武蔵松山城主上田朝直の弟源信で永禄2年(1559)に開山したとある。没年は、文禄元年(1592)である。
しかし、この記銘は史料で裏付けられない。上田氏の研究は梅沢太久夫先生のものが存在する。墓誌の記述について真実では無いとご教示いただいた。
上田氏は鉢形城西方、西ノ入・腰越・安戸一帯を本拠として腰越城を居城とした扇谷上杉氏宿老である。北条氏へ従属以降、武蔵松山城主に就任して朝直・長則・憲定と継承した。その領国は「松山領」と称された。
上田氏は「源姓」を称しており、宝積坊歴代住職も法名に「源」を通字とした。一致するのは「姓名」ではあるが、両者は史料で結び付けられず、何らかの所縁も想定されるが明らかではない。

宝積坊墓地の墓誌

永禄2・3年における宝積坊の動向は、墓誌に登場する源信によると言えそうである。しかし、活動期と没年から幸鑁の動向と全て被っている。加えて源信は宝積坊関連の文書には登場しない。
そして、文書2・3・4の記述で共通する事項がある。それは、聖護院が「六十年以来、去年に至るまで當知行の段は明白」、北条氏・越後上杉氏が「武州半澤郡の内で十箇村年行事職は、六十年依頼の筋目」の記述である。
永禄2年まで、60年に渡り年行事職を務めていた宝積坊が永禄2年開山というのは辻褄が合わない。同年から永禄2年から60年遡ると明応8年(1499)である。明応8年まで遡る史料、歴代住職の免許状は「上田家文書」では確認されない。
聖護院も60年に渡る年行事職の経歴を認めているのだから宝積坊の来歴は文書2・3・4の記述は正しいと見て良い。宝積坊墓誌の記銘が永禄2年開山としているのは、霞安堵状を受給した年号を根拠にしたのが想定できる。山伏としての権威性を得た時期を開山としたのだろう。
しかし、当時の住職が源信なのかは別問題である。現状、源信は幸鑁の動向から同一人物と想定しておきたい。

おわりに

今回は、北条氏邦の企画展訪問をしたのを契機として鉢形領の護持僧宝積坊の系譜と動向を整理した。その中で宝積坊幸鑁の登場は寺院文書の住職名を比定するヒントになった。墓誌の記銘と史料に混雑があり来歴は混乱が見えた。現状では墓誌で書かれる永禄2年開山時の住職は幸鑁としておきたい。
宝積坊の文書は、修験寺院の霞支配確立の過程がわかる内容であり、笹井観音堂の霞支配確立との比較にも私は活用している。そして領主との関係も同様であり、使者を務めた点、十二神将奉納参画は、宝積坊の鉢形領における地位を高めた出来事と位置づけられよう。
一方で中世期における住職の系譜は不明なままだ。今後の課題としたい。

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