見出し画像

昔話から見る修験寺院ー本山派先達修験寺院十玉坊の境内地移転との関連ー

はじめに

山伏は昔話でよく登場する。人々との交流、専業である加持祈祷、または悪役で主役を務めることもある。
私が調査対象とする埼玉県狭山市笹井の本山派先達修験寺院笹井観音堂の「霞」地域、配下寺院でも関連する昔話は複数存在する。
具体的には、1つの主題として過去に投稿した狭山市広瀬の影隠地蔵は本山派修験寺院正覚院が管理した。同市入曽の本山派修験寺院宝泉寺では疱瘡、虫歯治療に関連する話が伝わる。そして笹井観音堂には在地の殿様が笹井観音堂門前を通行する際に下馬しなければならず、面倒に思った殿様が裏道を敷設して通行した「殿様街道」の話がある。
同市柏原の智光山公園には九頭竜池がある。九頭竜池には大蛇が棲む話が伝わる。九頭竜池が信仰の場として「智光山講」が存在して現在でも醍醐寺三宝院の火渡り行事執行を示す碑が所在する。
今回、大明敦『埼玉の妖怪』を入手したところ、本山派先達修験寺院十玉坊との関連を示す昔話の紹介があった。十玉坊が紹介されていないが発祥地である埼玉県志木市の地名が挙げられており4回に渡る境内地移動をした同院の動向とも関わるのではないかに至ったのでこれを主題とする。

(1)本山派先達修験寺院十玉坊

十玉坊は、戦国期には「十玉坊」として関連文書に登場、江戸期に「院号免許」を聖護院から受給して十玉院を称した。今回は、中世から検討するので坊号「十玉坊」の方を採用する。
十玉坊は、戦国期に発祥地の志木市大塚から富士見市水子、清瀬市芝山に移転を繰り返し、天文後期から天正7年(1579)まで後継者不在のため断絶した時期がある。笹井観音堂と同様、戦国期の動向が不明点が多い寺院である。また、笹井観音堂は歴代住職系図を所蔵するため住職名は判明するが、十玉坊の場合、長享期の住職十玉坊賢承が聖護院門跡御教書で登場する以外、住職名が不明である。江戸期から最後の住職十玉院岱弁に至るまで複数の住職が古文書、墓石から確認できるに過ぎない。

難波田城内にある十玉坊歴代住職墓地

文書1 文明19年(長享元年)(1487)正月28日 十玉坊宛 聖護院門跡御教書「十玉院文書」
「武州崎西郡年行事職のことは、十玉坊法印賢承の理にかなった旨を(聖護院門跡道興が)聞き召された。以前、奉行奉書を以て仰せだした上は、間違いないことだと(道興は)仰せだしである。
               文明十九年正月廿八日 法印(花押)
                 十玉坊法印御房」
同文書は聖護院門跡道興が十玉坊賢承へ崎西郡年行事を再安堵した内容である。十玉坊は、享徳の乱が終結後に関東の山伏から下向を要請され廻国した聖護院門跡道興を自坊で饗応したことが道興の日記『廻国雑記』に記述される。この時の境内地が志木市大塚である。

(2)十玉坊初期境内地の景観

初期の十玉坊境内地は、志木市館の志木市立第二小学校である。埼玉県富士市の富士見市立難波田城資料館で開催された企画展「富士見の修験道」では同地が地名と出土物の紹介がある。
地名には「御房下」・「地獄谷」・「館」が関連を伺わせる。出土物は校庭から山伏が修行を満行したときに立てる「碑伝」が多数出土したという。
現況を歩いた所、小学校付近は谷を開発して境内地を設けたのが確認できた。小学校の坂を上がると大塚の交差点に至り「鎌倉街道」が与野、大宮方面に伸びている。
地名の「地獄谷」について、企画展図録『富士見の修験道』では「十玉谷」の呼称が変化したものではないかと指摘する。
交通の利便性がある地点と共に居住地としても湧き水が流れる場所が存在しており境内地に適した場所である。
寺院運営面でも山内上杉氏宿老で武蔵守護代大石遠江守家の初期本拠柏の城とも隣接している。道興を十玉坊が饗応したのは大石遠江守家の支援もあったと想定できる。遠江守家も長享の乱以降は主君山内上杉顕定の動きに合わせ由井郷(八王子市)の浄福寺城に移転したので柏の城から離れている。大石遠江守家の由井での動向は齋藤慎一氏の研究に詳しいので参照されたい。

御房下の地点


十玉谷の尾根道を通る鎌倉街道


(3)十玉坊の境内地移転

大石遠江守家が柏の城を離れてから時期は不明ながら十玉坊も境内地を水子に移転した。水子に移転した理由は、新藤美恵子氏によると「十玉坊の旦那が難波田氏であったから」と指摘する。水子の隣接する地点には扇谷上杉氏宿老難波田善銀が難波田城主を務めていた。善銀は扇谷上杉朝定を守り、最後の本拠武蔵松山城に在城して最後は、河越合戦で北条氏康軍と戦い、戦死した。難波田城は周囲の湿地帯に守られた広大な拠点城郭であり、周囲にも鶴馬城、多門氏館など支城に守られ扇谷上杉領西方の防備を担った。有力被官である難波田氏が没落したことが十玉坊の運営基盤を揺るがすことに繋がったとも新藤氏は述べる。

文書2 天正7年2月3日 十玉坊宛 北条氏照判物「十玉院文書」
「武州の内、前々水子に境内地を置いた十玉坊が断絶に及んだにつき今般改めて芝山に十玉坊再興の由もっとものことである。入東・新倉の郡で氏照の領分における年行事職は聖護院殿の御証文に任せ申しつける。後日、書状を出す。
               天正七年庚辰
                   二月三日 氏照(花押)
                      十玉坊」

文書3 天正7年八月七日 十玉坊宛 聖護院門跡御教書「上田友吉家所蔵文書」
「入東郡併せ新倉郡年行事職の事は十玉坊由緒だと紛れもないことであるところ、近年、無主の地、同然の旨(は)とんでもないことである。いわゆる彼跡(十玉坊後継者)を相続させるのを(聖護院門跡から)仰せつけられた上は、これ以後、全領知させるので忠節奉公の旨、聖護院門跡が仰せ出しである。
                天正七年八月七日 法印(花押)
                         僧都(花押)
                        十玉坊」

文書2は、大塚から水子に境内地を移した十玉坊が断絶して芝山で再興したのが冒頭に記述される。十玉坊再興を受け、滝山城主北条氏照が「氏照の領分」、つまり滝山領の範囲内にある入東郡・新倉郡の年行事職については安堵すると十玉坊に伝えた内容である。両郡とも滝山領以外にも所領を有する領主がおり、全域を安堵した訳でないこと示唆する。
後半には聖護院門跡が発給した証文に従い年行事職を安堵すると記述しており、十玉坊は芝山で再興する際に氏照に聖護院から受給した年行事職安堵状を提出したと見られる。しかし、同文書に登場する証文は存在せず、日付が下った聖護院門跡御教書が残る。

文書3は、文書2より6ヶ月後に聖護院が発給した御教書である。十玉坊の霞を安堵すること、後継者がいないことへの叱責、新住職を立てたなら聖護院への忠節奉仕をするように命令した内容となる。
文書3の存在から、十玉坊は2度、聖護院から霞支配安堵を受け、北条氏照からも安堵を得ていると言える。領主が年行事職を安堵する場合、聖護院が発給した安堵状を追認する形を取っている。他例もあり、笹井観音堂、玉林坊、宝積坊の霞安堵状も各地域の領主は聖護院からの承認を追認していたのが書状から確認できる。
芝山にも定住せず、さらに水子に隣接する難波田城に境内地を移転して神仏分離令を迎える。

(4)地獄谷の昔話ー地獄谷の「小豆婆」ー

地獄谷について、『埼玉の妖怪』では「小豆婆」の話を紹介している。内容は、地獄谷の小豆婆は、滝壺で小豆を洗っていた。そこを通った若者が声を掛けたところ「お前見たな」と言って害した話である。現状でも大塚の十玉坊跡付近には湧き水が流れる地点があり、水脈の話は一致する。滝の存在も十玉坊の行場を連想させる。
私が注目したのは、若者を小豆婆が害してしまった点だ。山伏が登場する昔話は山伏の持つ験力、民衆との交流と救済、加持祈祷、破魔の修法を使用するなど「力」を発揮する場面が多い。まさに里修験の様子を描く。

冒頭で笹井観音堂と配下寺院が関係する昔話以外にも、東大和市宅部の本山派修験寺院円達坊、同市清水の本山派修験寺院持宝院の話が存在する。
円達坊は、住職が夜間に帰宅する際に魑魅魍魎を感じたので「出やば出ろ宅部の円達坊」と叫びながら歩いた話がある。住職が声明により歩いたのは一種の破魔の術である。懐中独鈷も出して鳴り物として使用するのも魑魅魍魎の退散を成就できる。

本山派修験寺院円達坊跡 狭山湖の設置によって湖底に沈んだ。中央の林は円達坊の境内地

持宝院は「火をふところに入れた法印さん」の話がある。この法印像は、現在、清水集会所に存在する。この話は、江戸末期に酒宴で男が法印に絡み、火箸で挟んだ高温の炭を渡した。法印は、懐に入れた後、男に炭を返した。それは熱いままだったので男は受け取らず謝罪した話だ。持宝院住職の験力を示す話であろう。
両寺院の話は東大和市のホームページで紹介がある。

持宝院住職の石造「火をふところに入れた法印さん」

円達坊と持宝院の話を紹介した。いずれも山伏の験力を示すもので、地獄谷の話とは対照的である。地獄谷の「小豆婆」が人間に害を及ぼすのは同地に山伏をはじめ宗教者が存在しないか少ないことを示唆する。戦国期の段階で入東郡・新倉郡年行事職十玉坊は大塚・水子・芝山と移転を繰り返し大塚から離れてしまった。そこに妖怪や怪異が入り込む隙を与えたと解釈したい。仮に十玉坊主と弟子が居住していたならば、「小豆婆」は調伏対象となりまた違った結果を産み出すのに繋がってくるだろう。

さいごに

今回は、『埼玉の妖怪』を読み十玉坊発祥地に伝わる昔話があったので紹介し十玉坊の境内地変遷と山伏の力を考えたみた。山伏は地域のカウンセラーとして加持祈祷、病気治療、教育と多様な活動をした。地獄谷の話は、十玉坊が他所に移転したのも要因と想定した。
円達坊・持宝院の話は山伏の験力を示すものだ。民衆との交流を深め運営基盤を整えること重視した修験寺院の動向に昔話は活動の一端を見せるものだと結論付けたい。






いただいたサポートは取材、資料購入費用に当てます。