神仏分離令に伴う修験寺院の財産保護活動

修験寺院の研究を投稿してきたが、明治元年(1868)には明治政府より神仏習合社会の転換を図る神仏分離令が出された。また、同5年(1872)には修験道禁止令が出され全国の山伏は還俗して神官になるか、寺院を廃絶して帰農するかの選択を迫られた。修験寺院の所蔵文書では都道府県知事から改めて、寺院財産、神官に就く旨の書類を提出して認証を受けたものも含まれる。これら2つの法令でより問題になったのが廃仏毀釈で寺院の仏像や経典、諸史料などが既存の神官、民衆から破壊行為を受けて毀損した例が存在する。
修験寺院は、神仏習合のもと仏教の法具も所有していたから、法令に従う面と、破壊行為から財産を守るため近隣の寺院に預けることにした。

私は、修験寺院の調査でフィールドワークをした時、関係者の方々から神仏分離令に伴う財産保護活動を伺うことができた。取材では、寺院所在の地域住民との関係が良好であったため、神官に就く、法令遵守、万一に備えて避難の観点という点でのお話が主で、破壊行為はされなかったことが得られた。
今回は、神仏分離令時に御堂、法具を他所へ移転した例を挙げながら取材で得られたことを書いていく。

(1)施設の移転例

御堂などの施設を他寺院へ移転した例を書いていく。取材では現存物を見られた。

①笹井観音堂
笹井観音堂は本山派先達修験寺院で埼玉県狭山市笹井に所在する。
現在は大門が存在して当時、境内に存在していた観音堂は、入間市河原町の根本山を経て入間市二本木の寿昌寺へ移転され現存している。根本山が昭和57年に廃絶したため、寿昌寺へ移転された経緯がある。

笹井観音堂の大門


寿昌寺に現存する笹井観音堂の本堂「観音堂」

②吉祥院
吉祥院は、入間市仏子の本山派修験寺院で笹井観音堂の配下である。院主が管理した別当社の神主に就任したため、薬師堂を移転してきたと移転先の長徳寺ご住職より教示を得た。


長徳寺へ移転した吉祥院の薬師堂

③十玉院の輪蔵
十玉院は本山派先達修験寺院である。埼玉県富士見市南畑の難波田城を境内地としていた。経典を入れる大型の輪蔵を霞内(知行地)である川越市の本応寺に移転した。輪蔵を最後の院主十玉院岱弁が本応寺に移転した理由は、星副住職に伺ったが不明だという。現在は、御堂内に保存され、年1回だけ御開帳があり金網越しに見学することになる。

本応寺にある輪蔵を保存する御堂

難波田城内にある院主上田家墓地

(2)法具の移転例

①般若院
法具の移転例は富士見市水子にある本山派修験寺院般若院で確認される。般若院は、十玉院配下である。現在は水宮神社となり、院主が代々宮司職を継承している。般若院の史料は同僚の本山派修験寺院玉宝院と同じく点数が多いのが特徴で上官寺院とも親密であったのがうかがえる物も存在する。


般若院 現在は水宮神社

水宮亘宮司からは非常に貴重なご教示を得られた。般若院は、護摩壇・不動明王像を近所の中道不動堂へ避難させたという。護摩壇は、中道不動堂が廃絶とのことで水宮神社に返還されたのだが、痛みが激しいので廃棄したという。護摩壇の写真は、富士見市立難波田城資料館刊行の企画展図録「富士見の修験道 十玉院と般若院」に掲載されている。
また、不動明王像の方は、修繕されたので現存する。

現在、社殿内には、般若院の不動明王像・役行者像・神輿が安置される。
水宮宮司によると「役行者像を富士見市に調査依頼したところ室町時代の物で、言い伝えによると室町時代には山伏が集まって加持祈祷をしていた」という。また、十玉院について「神仏分離以降も十玉院は、地域のリーダー的存在」であったともうかがえた。先に紹介した十玉院岱弁は、寺院を閉めてからは、上田岱弁を名乗り、埼玉県の県会議員を務め地域貢献を続けたというのが難波田城資料館の調査で報告されている。
神輿も奥様から「近年まで祭りで担いでいた」というご教示をいただいた。

今回は、神仏分離令・修験道禁止令に伴う、修験寺院の財産保護活動を投稿する。法令が明治政府から出されたことでの財産避難は困難なものであったが、近隣寺院で大事に保存され、般若院のように持ち主へ返還された例も存在する。
特に、般若院に関しては、文書史料での動向は江戸期が初見であるが役行者像の作製時期から室町期まで開山が遡ることが確認できたのは十玉院の入東郡・新倉郡における霞形成を知る手かがりになり得る。
修験寺院所有の御堂・法具の保存が図られたのは加持祈祷を基本とした近隣住民との継続した親密な関係の蓄積がもたらした結果であり、霞支配の浸透ぶりがうかがえる1つの根拠である。

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