所蔵史料から見る修験寺院の運営と霞支配

修験寺院の調査では、現物史料や法具などの所蔵品を拝見できることが近年、増えてきた。末裔の方、博物館で熟覧・撮影によって記録保存が出来ている。また、実際の取材でも口伝をご教示いただくこともあり、史料以上の価値がある、補完できる情報も多い。
一方で史料が常に所蔵されているわけではなく、口伝が主たる情報という場合もある。いずれの場合もフィールドワークや取材を通じてアクセスできるものであり自らの足で理解を深めることが基礎になるのは強調しておきたい。足で情報を得る、そこからご教示いただく方々からの内容を五感を使って記憶する感覚は私が常に感じることである。五感で感じるのは大げさな言い方かも知れないが1回の機会がとても貴重な時間になるため、盛った表現を使っても許されるのではないか。

資料集や文献で得られる情報について自分が受け身の瞬間が必ずある。しかし、調査の出発点になるのは確かで実際に現地訪問して納得することも多い。フィールドワークや取材というのは能動的行動であるから、そこから深掘りできる、自分の見解が主張できるだけの素材を集めるきっかけになる。また、修験寺院の企画展では出陳史料のリストアップ、所蔵している史料は目録が作成されることが多い。
今回は、まだ未見の史料も多くあるが実見できた史料も通して所蔵品の傾向から寺院運営と霞支配について検討していく。

(1)修験寺院が保存する所蔵品の傾向

①霞支配関連


修験寺院の所蔵品で必ず存在する史料が総本山が発給した各種免許状、先達・年行事職の役職にあった寺院なら霞支配の補任状および安堵状である。
同史料群は、寺院地位を示す、本山と配下寺院との関係を内外に明示する証文の効果がある。特に、修験寺院同士が霞を巡り抗争になった際に訴訟裁定するのは、総本山聖護院である。加えて、聖護院の権力を背景に関東なら総取締役であった相模の本山派先達修験寺院玉瀧院・武蔵の本山派先達修験寺院幸手不動院が裁定の役割を果たした。

文書1 天文21年(1552)「聖護院門跡御教書」『篠井家文書』
武州杣保内ならび高麗郡年行事職の任を相伝の由緒に任せ全て領知するようにと聖護院門跡は仰せだしているのを伝える。
 天文二十一年三月廿七日 僧都(花押)
             法印(花押)
  佐々井
     観音堂

文書2 文禄3年(1594)「聖護院門跡御教書」『十玉院文書』
入東郡の内で(三ヶ島郷・山口郷除く)惣郡の(霞支配の)事は、十玉坊分に(ついて)先年、(笹井)観音堂が無主の地(十玉坊主が不在)になっていると言ってきたが(十玉坊の霞だと聖護院は)一担仰せつけておいた。しかるに数年に及び相論(霞間抗争)をしているのは、はなはだ、けしからんことなので一層糾明すると当年、(聖護院門跡が)仰せだされた。もし上洛してこなかったら沙汰ができないと仰せつけた旨、去年、奉書で出したが(笹井観音堂)は上洛してこなかったので、すべて(三ヶ島・山口両郷を除く入東郡の霞は十玉坊が)知行とすべしと聖護院門跡のご意向を伝える。
  文禄三年八月五日 法限(花押)
           僧都(花押)
      十玉坊

文書3 文禄5年(1596)「聖護院門跡奉書」『篠井家文書』
  以上
両度の御証文を確かに(聖護院奉行)へ見せました。こちらに(証文の)御案文があるとのことでした。しかしながら、玉林坊が言ってきたのは、入東郡の(霞支配)については一円(を)十玉坊に(聖護院が)仰せつけたので、お尋ねしたいとのことでした。今、玉林坊(は)証文を(聖護院へ)提出してこなかったので従来のごとく(笹井観音堂の入東郡における霞)全て知行としてください。万一、(玉林坊が主張する入東郡の霞関係について)明白の証文があった場合、その時は糾明します。そのように思っておいてください。恐れながら申し上げます。
 文禄五
   八月廿五日   慶要(花押)
           源春(花押)
    観音堂

3点の史料のうち、文書1は、笹井観音堂が聖護院から発給された霞安堵状、文書2は、笹井観音堂と十玉坊が入東郡の霞を巡り抗争したことについての聖護院門跡による裁定状、文書3は文書2に関連して笹井観音堂が玉林坊とも抗争していた際に霞支配の確認を求めて聖護院から受給した裁定状である。

文書1は地位明示証文になる安堵状である。安堵状は、戦国期に大名・国衆へ従属する地衆が戦争・課役において功績を挙げた際、新たに従属関係を結ぶ際に所領の安堵状を発給申請することになる。そして安堵状を得ることに所領の支配者が確定して内外に示す証文になる。修験寺院の安堵状も同様に自坊の地位を聖護院から認定を得ることで霞支配の正当性と権威を示すことになり武士と山伏の地位安堵は同様の思考に基づいて上位権力へ申請した。

文書2・3は、霞間抗争で聖護院から裁定を笹井観音堂(埼玉県狭山市)・十玉坊(埼玉県富士見市)・玉林坊(埼玉県さいたま市)が受けた内容で、文末にそれぞれ、笹井観音堂と十玉坊に霞地域の支配を認定する旨を記述しており、裁定状が地位確認証文の効力があることが確認できる。
聖護院が訴訟裁定をする上で重視しているのは抗争当事者の上洛による弁明と霞支配を根拠付ける「明白の証文」の存在である。

文書3以外でも、天文22年(1553)付けの本山派先達修験寺院大行院(埼玉県鴻巣市)と十玉坊が檀那の帰属を巡り抗争した際、聖護院は「十玉坊側に明白の証文があった場合は糾明する」とした上で大行院へ檀那の帰属を認定する記述している。

同年、玉林坊と十玉坊が檀那の帰属を巡り抗争した際に、聖護院は、「十玉坊の提出した証文は確かなものではなかったが、万一、明白な証文が十玉坊から出されたら糾明する」とした上で玉林坊への檀那の帰属を認定している。

また、天正12年(1584)に笹井観音堂・十玉坊間の抗争にも干渉してきた玉林坊と入東郡宮寺郷を巡り抗争した際にも聖護院は「明白の証文があり玉林坊側が提出あった場合は糾明するが現状は笹井観音堂の支配を認める」と記述している。この4点の事例から霞支配の根拠になる証拠提出を当事者へ常に求めることで訴訟基準の統一を図った。聖護院の統一した裁定基準によって抗争の解決が図られ、最終的に権利関係は落着して再燃することは無かった。

次に、関東における修験寺院総取締役の地位にあった玉瀧院・幸手不動院の訴訟裁定活動を見てみる。

文書4 慶長14年(1614) 瑞光寺広海書状「篠井家文書」
辰の年、(幸手)不動院・小田原玉瀧坊・十玉坊御出合なされた時も、観音堂より外の年行事から指図されたことは無いと申し上げます。奥留の年寄共、また我等も不動院・玉瀧坊・十玉坊へ申し渡しします。以上
           瑞光寺 
慶長十四年酉五月廿日  広海(花押)
   大蔵殿
 藤木  
   作右衛門殿


真言宗瑞光寺(埼玉県狭山市)

文書5 天正七年(1579) 不動院頼長書状 「安部文書」
近年、大沼坊・宝積坊の相論の地、今度、(聖護院へ)御奉書を御申請した。一円において玉瀧坊と拙者(頼長)が(抗争について)知らなかった。関東の義について両人(玉瀧坊と幸手不動院)が知らないことがあるのはあるまじきことだ。ただし、重ねて京都より(聖護院)へ御奉書を以て仰せつけなさるのが(抗争解決)になる。富士・三嶋参詣のほうは前々の如くあるべきである。今後、一筆によって(大沼坊・宝積坊)へ渡すことにする。以上
  天正七年         不動院
     霜月十六日       頼長(花押)
       金剛寺
       大秀院
       大乗院

文書4は、奥留郷の真言宗瑞光寺住職広海が、同地は笹井観音堂の霞であり、今まで他の年行事職寺院から指図を受けたことがないと聖護院の奉行人へ訴えたものである。
同文書は、笹井観音堂が十玉坊から干渉を受けている奥留郷の霞支配を正当化する目的で広海に抗弁状を聖護院へ提出依頼をしたことによって発給されたと見られる。
聖護院は「明白の証文」の提出を抗争当事者に要求していたから文書3ほか、玉林坊との抗争事例の裁定を教訓に笹井観音堂側は広海へ証文を提出させたと言える。
文書冒頭に、幸手不動院と玉瀧坊の名前が登場する。十玉坊の抗争が長く続いたので「辰の年」、すなわち、慶長9年(1604)に幸手不動院と玉瀧坊は現地検視のため来訪した。その時、笹井観音堂と十玉坊も立ち会いをしている。同郷の案内と霞境については笹井観音堂が聖護院側へ説明した。聖護院側による抗争地点の実地検視を受けて古老も協議に加わり霞支配の正当性を主張するための「明白の証文」を用意できた。そして、笹井観音堂の依頼もあり広海は慶長14年に聖護院奉行へ文書4を提出した流れが想定できる。

文書5は、本山派修験寺院で榛澤郡年行事職大沼坊と榛澤郡10ヶ所の村の年行事職宝積坊が霞間抗争した事を知り、幸手不動院住職頼長が聖護院の裁定奉書を受ける段取りを3ヶ寺に報告した内容である。
大沼坊は榛澤郡年行事職であるから宝積坊の上官寺院にあたる。霞内において上官と配下が霞の帰属を巡り抗争した事例であるが詳細は不明である。最終的に両者とも地位を聖護院から安堵されるが抗争をきっかけに関係は断絶した。宝積坊は江戸期に院号を免許されており、幸手不動院頼圓から天保12年(1841)に飢饉の中に関わらず入峯修行を執行したことを賞され宝積院源昌が独鈷を授与された。上官寺院との断絶を受け文書5発給以来、最上位の幸手不動院と関係を深めていたことがわかる。

幸手不動院と関係を深めた宝積院源昌の墓石  

②各種免許状

修験寺院の住職が寺院運営と地位を確立するためには上洛して入峯修行および法会への奉仕によって聖護院から各種免許状の受給が最初の段階となる。
具体的には、坊号・院号・僧都・権大僧都・法印・一僧祇から三僧祇・各色の結袈裟着用・貝緒両緒・黄衣着用などの各種免許状である。以前、「修験寺院の通称・呼称」についての投稿で免許状取得は住職ごとの申請であり世襲はされない、一括で住職は、必要な免許状を申請したと書いた。
免許状の点数は数多く、書式も決まっているので十玉院と配下寺院の玉宝院、般若院・万宝院、笹井観音堂の配下寺院では竜蔵院・大宮寺の所蔵文書を参照されたい。

住職達にとって僧位・山伏の各種装束免許は聖護院へ所属していることを示す称号、装備であるためそれが代々継承されているを残す必要がある。先達・年行事職寺院も各種免許状に対する考え方は同様であり、補任状・安堵状とともに各種免許状を後世に身分証明手段として保管した。
江戸期になると幕府による「宗門改め」が毎年実施されるため、住職は、寺院の縁起・所領・家族・弟子・聖護院から授与された各種免許状・従属先を
記述した書状を提出することが求められた。宗門改について住職達がが提出した文書については、笹井観音堂・十玉院の関連史料で確認できる。特に万宝院の従属証明状は詳細に記述されており証人を付けて提出する念の入れようである。

以上が寺院運営と霞支配に関する修験寺院の所蔵史料である。いずれも内外に地位を示す証文の性格を有しており、江戸期になると登場する従属証明や宗門改による寺院明細状がある。聖護院から受給した書状群に加え従属証明・寺院明細状の存在によって地域における住職達の地位はさらに補完さえたと言えよう。ただし、江戸期になると山伏は住職個人が死去した際、戒名は自分で決定できたが(自身引導)、妻や娘の戒名は地元の僧侶に付けられる取り決めが幕府によってなされた。(妻子・一家引導)
山伏は、住職以外の葬儀執行制限に加えて加持祈祷だけに専念するように命令され、近所の宗派寺院の住職と法具の貸借も禁じられるようになった。引導に関しては山伏側の反発が強く、本山派先達修験寺院山本坊は江戸在住の本山派修験寺院総触頭氷川大善院を通じて幕府と何回も交渉した様子が文書で見られる。法具の貸借禁止も山本坊と越生龍穏寺の事例で確認される。
地域において加持祈祷・医療活動・学問教授・文芸交流によって地位を確立浸透してきた山伏は総本山からの免許状、幕府へ提出した証文の存在によってさらに立場が明確になったが行動の制限によって財政基盤を崩されたマイナス要因も存在した。

今回は、修験寺院の所蔵史料の種類と傾向を書いた。いずれも山伏としての地位を内外に明示する手段として保管する必要があっため、補任状・安堵状・各種免許状が伝えられたと位置づけられる。戦国期の感状や安堵状も文書類では所蔵確率が高い。
修験寺院でも霞が接していたり、同じ地域でも所属先が異なることで檀那の帰属を巡り抗争のリスクは常にある。
そのため聖護院という権威ある機関からの書状を抗弁状と活用できるように大切に保管する必要がある。

(2)所蔵史料から見る霞間抗争を防ぐための手段

霞間抗争のリスクは、大徳院の事例で見たように大宮寺・高萩院と縁戚関係を結び、霞を越えて親密を維持することで現地レベルで軽減する動きも見られた。この3ヶ寺は、笹井観音堂配下寺院の本山派修験寺院東林寺住職だった東林寺教純の弟子だったことでも繋がっている。弟子間の繋がりが友好関係の基礎になっていたのである。

大徳院周応・大宮寺良純・高萩院教寛の師匠だった東林寺教純の墓石

また、大徳院の上官寺院である山本坊も川越市を境に十玉院と霞が接していたため、十玉院の霞場に弟子が住んで活動することがあった。そのとき大徳院・林蔵院の両年行事職寺院は、十玉院へ秩序維持のための誓約書を提出している。
同誓約書は、十玉院の所蔵史料として保管されており、寺院間の共有事項として残しておく必要があったのだ。
さらに『大徳院日記』では山本坊配下寺院ほか、笹井観音堂の配下寺院の出入りの記録も詳細に記述されている。日記の構成は季節の出来事・地域イベントの開催、山伏、地域の人々との交流の様子がメインだ。記録の趣旨は業務日報の性格が強く所縁のある人間を次世代の円滑な運営のために把握して継承する意味があった。そこにはトラブルを避けたい思惑があったのは確実だ。山伏の日記以外でも俳諧の会や寺子屋の開設が記録に残っていることも多い。俳句の会を開き交流の証として額を寺院へ奉納する、師匠の墓石は弟子達が造立する、教本の存在などでも確認できる。

加持祈祷の事例からは効力をさらに高めるための医療行為に使用する医学書が東林寺の所蔵史料にある。医学書は3点伝わっており、実見の機会を得られたところ、実際の診療・投薬に対応できるように辞書形式であった。診療・投薬のほか鍼灸治療も実施していたと見られる。とくに製薬については先学が指摘しているように「秘術」と位置づけられるので門外不出である。東林寺以外にも笹井観音堂の執事だった薬王寺が製薬道具を所蔵しているが、相互に医療行為を実施していることは認識していても製薬関連の交流は憚る話だっただろう。

まとめると上位権力との結びつきを示す書状群のほかにも地域の人々との交流の記録を残すことによって檀那関係の維持、円滑な寺院運営を思考する住職達の動きが見えると言える。


   


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