本山派修験寺院の霞支配と運営についてー由緒書・配下一覧から見えるものー

前回、本山派修験寺院の例を挙げて各種免許状の取得過程及び上官寺院による認証の流れを書いた。
免許状は、住職の地位を示すもので聖護院から許可を得て初めて効力が発生した。例外として関東一円の修験寺院を統括する幸手不動院は、配下寺院を免許状を発給していたが、基本は上洛によって受給した。本山派の組織間における秩序維持と浸透に免許状の発給が役割を果たしていた。

江戸期に入ると聖護院に加え、寺社奉行が執行した毎年の宗門改においても寺院の由緒書、住職の保有免許・役位(役僧、正または准年行事職)、寺院の組織構成、土地の所有状況を報告することが求められた。
先達・年行事職寺院は、上記に加え霞範囲と配下寺院名簿も作成して提出した。
今回の投稿は、聖護院・寺社奉行へ提出した寺院組織に関連する史料を提示して見えることを書いていく。

(1)修験寺院の由緒と組織体制

①明和6年(1769) 福寿寺作成の「山本坊配下・年行事・同行覚」
福寿寺は埼玉県鳩山町の本山派修験寺院で秩父郡・比企郡年行事職山本坊の配下寺院で役僧を務めた。
福寿寺は、山本坊の配下寺院名簿を作成した。埼玉県以外にも茨城県・新潟県まで山本坊が霞を有したのがわかる。地域の代官である正年行事を筆頭に「組」で編成した命令系統の整備を図った山本坊の霞支配の姿勢が明確な史料である。

②安永3年(1774) 笹井観音堂作成の「武州大先達瀧音山白山寺笹井観音堂触下次第」
笹井観音堂が「霞」地域である高麗郡・杣保・入東郡の一部に所在した配下寺院の一覧である。66寺院を支配した笹井観音堂の配下名簿であるが全寺院は記載されていない。聖護院・寺社奉行へ提出する意図で作成されたと見られるが全寺院を掲載しなかった理由は不明である。史料が残っている掲載寺院名から住職の交代に伴うものか、他寺院と霞が混在する地域もあり支配地を明確にするため作成したのが想定できる。


笹井観音堂の長屋門

③安永7年(1778) 万法院長順の作成の「先祖親類覚書」
万宝院は埼玉県富士見市の本山派修験寺院で入東郡年行事職十玉院の配下寺院である。
長順は、寺社奉行の命令によって寺院の経歴・家族・親類の構成・入峯修行回数・保有する免許状点数を記述した。

万宝院が別当を務めた勝瀬榛名神社

④天明7年(1787) 笹井観音堂の縁起である「観音堂寺記」
笹井観音堂が聖護院へ提出するために作成した由緒書である。由緒書は、笹井観音堂の堂主が配下の東林寺教純(狭山市奥富の本山派修験寺院東林寺住職)と十玉院の配下である福泉坊東彦の両人に依頼して作成させた。狭山市の調査があり「東彦が縁起作成に関わったのは古くから入東郡で活動していた福泉坊の住職であるため教純が執筆した内容の信頼性を高めるため」と指摘している。福泉坊は長享期の聖護院道興による東国視察で接待に関わったのが道興著『廻國雑記』の記述にあり、経歴の長さがわかる。

東林寺教純の墓石
福泉坊の墓石

 ⑤寛政2年(1790) 笹井観音堂作成の「本山修験道人別帳」
笹井観音堂良盛が寺社奉行へ提出した笹井観音堂の組織構成・同居家族および住み込みの弟子を掲載したものである。
笹井観音堂の執事であった薬王寺と補佐する役僧寺院が掲載される史料でもあり執行部の体制が確認できる唯一の史料である。薬王寺を始め、役僧達は堂主の通字である「良」が偏諱されている。笹井観音堂は地位保証に加え、堂主の名前を与えることで関係を深めていたと言える。同文書だけでなく配下寺院の所蔵文書、墓石銘からでも明らかである。


笹井観音堂の執事薬王寺の御堂

⑥天保13年(1842)作成の「上広瀬村明細帳」
「一 高外 坊地三畝廿九歩 除 正覚坊

 一 高外 上畑弐畝廿七歩 除かこい内地蔵堂地 同人

 一    拾五歩 御帳外愛宕宮地        同人」
埼玉県狭山市上広瀬の本山派修験寺院正覚坊の寺領が記述される史料である。高麗郡年行事職笹井観音堂の配下寺院で「院号」の正覚院で紹介される。同院は安永3年に作成された笹井観音堂の配下寺院一覧でも記載がある。

正覚院の持仏であった影隠地蔵 源義高が鎌倉方の追っ手から逃げる際に隠れた伝説がある。
正覚院境内地

(2)各寺院の提出史料から見える事項

前章では、鳩山福寿寺、笹井観音堂、万宝院、東林寺、福泉坊、正覚院の関連史料を提示して寺院の明細を触れた。
修験寺院が中世文書を所蔵、他寺院などの記録に登場することで近世以前の動向が確認できる例もある。
近世においては、上位権力への寺院明細を報告するため記録を保管することが増えてくる。今回のテーマである寺院運営体制、由緒書などの寺院にスポットを当てる史料が免許状類に継いで残るからだ。これは提出用と保管用で作成していたと見られる。

先達・年行事職寺院の史料では霞支配に関する寺院名簿を作成するため史料が存在しない寺院など動向がほとんど不明な寺院も記載されている。寺院名簿を配下寺院の史料と照合することで、「院号」を称した上限・下限、従属時期の推定が可能である。

住職の家族構成についても他寺院との縁戚関係が系図、墓石銘等から系譜関係を確定できる。住職の墓石も歴代全員が存在していないので、宗門改などの文書史料の記述から当てはめていくことになる。
加えて、由緒書には歴代住職名を掲載する寺院も存在しており、縁起の内容などは要検討な部分もあるが、開山が中世まで遡るか、近世になってからなのかを考える素材になる。来歴は、由緒書以外でも上官寺院が配下寺院へ発給する「従属証明状」によっても補完できる場合もある。

年行事職寺院が「霞」範囲拡大と浸透は聖護院の補任状によって明確であるが、あくまで範囲のフレームを与えたに過ぎない。実際の支配確立は、受給側の努力であるため、配下寺院の獲得時期については、上官・配下の両寺院の史料から考察しなければならない。
由緒書・各種免許状・補任状、配下寺院名簿は、他の史料やフィールドワークによって補完されるものである一方で、基礎史料に位置づけられ、霞支配の確立・浸透の過程では欠かせないものであると確認しておきたい。

(3)埼玉県の修験寺院研究について

史料が伝わるのは子孫の方々の理解と尽力、行政、先学による調査・整理によることが大きい。具体的には今回のテーマなら『狭山市史』、『所沢市史』などの自治体史が詳細な調査や企画展開催によって史料の存在を紹介によって認知されたことである。
先行研究では千代田惠汎氏の『村と修験』、宇高良哲氏の『武蔵越生山本坊文書』による山本坊および配下寺院の史料整理と検討で史料アクセスの利便性が増したのは非常に大きな成果である。
また,万宝院を始め十玉院関連文書を整理した富士見市教育委員会刊行の『富士見市修験関連文書』の刊行は十玉院の動向を整理、笹井観音堂の霞支配の検討に活動できる優れた史料集である。
さらに、新藤美恵子氏の『本山派修験と熊野先達』を併読することによって資料集の活用もできる。
埼玉県の修験寺院の研究は優れた論考がとても多いが、続けて検討されておらず特に、笹井観音堂は狭山市の調査研究のみという状況である。

筆者も自治体史未掲載の史料を取材によって触れる機会が増えてきている。また地域の山伏の伝承もご教示されることもあり、史料、伝承の保存が少しでも出来るように笹井観音堂と配下寺院の掘り起こしをしている。今後も有料・無料記事や論文を通じて整理と事実追求を図っていきたい。






いただいたサポートは取材、資料購入費用に当てます。