戦国期における領主と山伏の関係構築ー加持祈祷の事例からー


自分がnoteに投稿したタイトルを見たところ本山派修験寺院における免許状申請から上官寺院への認証までの流れから主従関係の考察、由緒書・寺院運営の構成など具体的事例を挙げながらも抽象的な話になっていた。
今回は、現在、調査を開始しようと考えている本山派先達修験寺院玉林坊の文書をベースに戦国大名と山伏の関係についての第2弾を書いていく。
過去の投稿では戦国大名による山伏動員の実像を検討してステレオタイプではなく史料に即したことを記述した。
本投稿における主題は山伏の基本実務の加持祈祷面から戦国大名との関係を検討するものである。

(1)領主へ加持祈祷を執行する山伏

山伏が戦国大名に対して加持祈祷を執行した例は、宝積坊、大井法華堂の史料で確認できる。国衆では、勝沼領主三田氏と当山派修験寺院杉本坊(塩船観音寺)、岩付領主岩付太田資正と玉林坊との史料が存在する。最初は、文書で明確に加持祈祷の記述がある玉林坊と大井法華堂の史料から入る。

文書1 弘治3年(1557) 玉林坊宛 岩付太田資正書状「武州文書」
「下足立三十三郷衆分中(の)旦那役之義は、前の如く執行するようにせよ。争って(る最中の)違背の族がいるから、當陣のために入峯(修行)致している間は祈念して欲しい。旦那一人も相続の方は手抜かりしないようにせよ。恐れながら申し上げる。
  丙辰
   十一月二十九日 資正(花押)
    玉林坊」

同文書は、玉林坊へ岩付太田資正が旦那役を安堵した内容である。旦那役とは玉林坊が抱える旦那衆を熊野参詣を始めとする聖地へ引導する際の先達職のことをいう。旦那衆が増加・維持が寺院経営に直結するから資正は、旦那の中で相続が発生した場合、しっかり継承者を掌握することを指示している。そして、資正は戦地にいるので武運を入峯修行に祈願して欲しい旨を依頼している。
資正は、永禄4年(1561)の上杉謙信の越山で岩付衆を率いて参陣するまで北条氏康に従属していた。文書1の段階では、北条方として戦地に出陣したのを示す。

文書2 永禄11年(1569) 触口衆 御印判衆宛 山県昌景書状「長野県立歴史館所蔵文書」
「岩村田之法花堂(法華堂) 同所福泉坊 同所若狭 志賀之泉蔵坊 同所大日堂 同所東覚坊 同所和泉 平賀之善住坊 内山之永蔵坊 小田井之大禅坊 前田原之山城 平原之治部卿 柏木之宝徳寺 与良之南光坊 せき口之福壽坊 おふかへ之一乗坊 祢津新張之大真坊 上塚原之大悲寺 葦田之圓住坊 臼田之常楽坊 祢津瀧原之宮内卿 祢津田中之慈照寺
右仁拾仁人(22人)の山伏(は)御屋形様(武田信玄)に御祈念申し上げれば、今度一度に限り御普請役を免除すると(信玄は)仰せである。
 戊辰
   八月四日    山縣
            昌景(花押)
  触口衆
  御印判衆」

文書2は、大井法華堂をはじめ武田領各地の修験寺院へ武田信玄に対して加持祈祷を執行する旨を山県昌景が命令したものである。祈念の対価は普請役の免除であった。
22人の山伏へ祈願を命令するのは、当時、駿河の今川氏真へ武田信玄は攻め込み、氏真を支援する北条氏康と駿河・武蔵と広範囲で抗争をした時期である。長年の抗争相手の上杉謙信とも北信で対峙するなど3方に敵を抱えた状況であった。

(2)山伏達による加持祈祷の効果

信玄は駿河を獲得し、氏康の領国へも侵入して彼の5男で鉢形城主北条氏邦の拠点金鑽御嶽城も開城させて城主平沢政実を従属させる戦果を挙げたので
22人の山伏による祈祷は効力があったと言える。
山伏の在住地も広範囲なので個別で加持祈祷を執行したと見られるが、山伏が大勢で護摩を修すのは現在でも見られる。

江戸期に埼玉県坂戸市森戸の本山派修験寺院大徳院では、大徳院周応が近隣の浄学院・福寿寺・瑠璃光院・龍光院・持宝院と共に文化13年(1816)の日記で法会を執行した旨を記述している。特に、周応は、持宝院も森戸に在住した点、住職明慶は東林寺教純門下において兄弟子の関係であったため何度か、2人で護摩修行をしたことを書いている。
大徳院以外でも本山派修験寺院般若院では、「室町時代あたりから山伏達が集まって祈祷をしていた」というご教示を般若院の後身である水宮神社の水宮亘宮司から受けた。

山伏が複数人、集合することで加持祈祷の験力が増すため文書2で見られるように領内の山伏に昌景は命令したと見られる。山伏側から見ても祈祷命令に応答すること、普請役の免除などの報酬が受けられるほか、効力が上位権力に認定されれば優越的利益の享受が期待できる。修験寺院は、「霞」や旦那場が混在していることが多く、過去の笹井観音堂・宝積坊を扱った投稿でも他寺院と抗争した史料を紹介した。
寺院の霞・旦那場を拡大・維持は、聖護院や領主から権益安堵を受けても自助努力で実行するものである。年行事職寺院なら対象地域の山伏、地域の山伏なら旦那獲得は、他寺院との競争でありその結果が寺院の影響の混在である。
霞間抗争の裁定は領主も携わったが特に聖護院が中心になって笹井観音堂と玉林坊の抗争で下したように霞支配の実効性を示す「明白な証文」が根拠になった。
22人の山伏も加持祈祷は対価があることや今後の武田氏との関係を見据えて競うように執行したと見られる。

霞間抗争が存在した一方、大徳院・高萩院・大宮寺・持宝院のように東林寺教純と師弟関係を結んだのにはじまり、地域交流・姻戚関係で良好な関係を構築した例もある。

文書3 永禄11年 福泉坊宛 山県昌景書状 「四鄰譚藪」所収
「当主(武田信玄)長久の祈祷、丹誠を注ぐべきである。一度の普請を免除すると(信玄)は仰せである。
  永禄戊辰
     八月四日   山縣三郎兵衛尉
  岩村田
     福泉坊」
文書3は、福泉坊へ武田信玄の武運長久を祈願するのを命令したものである
福泉坊は、文書2でも登場している。文書3では個別に福泉坊へ祈願命令を昌景は出している。文書2と同様ながら、念を入れた形になる。他の山伏は昌景の命令を受託したが、福泉坊は武田氏に非協力的な前歴や容易に承服しない理由があったと思われる。

(3)領主と関係を構築する修験寺院

文書2・3で昌景が修験寺院へ加持祈祷を命令したのを確認した。上記に記したように山伏達も対価があること、今後の関係進展を見越して懸命に加持祈祷を執行したと見られる。結果、武田軍は各地で大戦果を挙げた。
領主が対価を提示して課役を命令したのは、本山派修験寺院宝積坊の事例でも存在する。

文書4 永禄9年(1566) 宝積坊宛 北条氏邦朱印状
「申し付けたことは、よくよく走廻るべきだ。成就の上は、必ず扶助するので身命を軽んじて行動することを伝えるものである。
          寅   (象印 翕邦邑福)
           八月廿九日      猪俣左衛門尉 奉之
          法積坊」

この文書は、永禄9年に宝積坊へ氏邦奉行人の猪俣左衛門尉が扶助を対価に領国(当時は花園領・秩父領で永禄12年以降は鉢形領)への貢献を求めたものである。走廻は貢献を意味する。文書中では氏邦が具体的に宝積坊へ何を求めるのかは書かれていない。

氏邦は、天正13年(1585)から同14年(1586)に掛けて法養寺薬師堂へ、藤田郷六供(寄居町六供)の極楽寺住職・聖乗坊盛範を導師として被官の諏訪部定勝(鉢形領有力被官・日尾城将を歴任)・猪俣邦憲(鉢形領・上野領奉行人)・秩父孫次郎(秩父衆指揮官)ほかと共に十二神将を奉納している。奉納には宝積坊も参画した。
氏邦による法養寺薬師堂への十二神将奉納は、鉢形領の一大行事であり、宝積坊が奉納に携わった点から同坊が氏邦の護持僧として位置づけられる契機になったと以前の「戦国大名による山伏動員」で指摘した。

宝積坊が秩父郡年行事職山本坊を差し置き、位置づけられた護持僧の地位こそ氏邦が与えた優越的利益である。
旦那衆との関係・在住地域における地縁が修験寺院存続の生命線であるが、上位権力が存在して、深い結び付きがあれば、寄進・加持祈祷を優先的に依頼されるのに繋がってくる。寺院運営の発展にも資する。

文書1の岩付太田資正が玉林坊へ武運長久の祈願依頼を受けたことがその証明となる。玉林坊は資正の継承者である氏資、氏資の討ち死後に入部してきた太田源五郎(北条氏政3男)とも関係を維持した。北条氏が没落後も先達修験寺院として地域で重きをなしたのが玉林坊の史料から確認できる。

領主と修験寺院の関係を示す例は冒頭で書いた勝沼領主三田氏と当山派修験寺院杉本坊である。

史料1 天文2年(1533) 「塩船観音寺仁王像修理棟札」「塩船観音寺所蔵」
「(表側)
敬白
奉十方旦那助成二王修理、願主顕祐内
右當寺伽藍安穏興隆佛法、殊者坊中安全
諸人快楽、別大旦那三田嫡家平朝臣弾正忠政定
并息綱定、家門繁昌、惣保内萬民豊穣両世願望成就如件
(裏側)
杉本坊覚満・圓林坊照傅・神門坊顕祐・寶聚坊顕秀・禅林坊・北之坊・橋本坊什海・宝積坊良満・宝蔵坊顕運・梅本坊宗雅染一之旦那財林坊永賢巳上徒衆
鎌倉大佛所弟子圓慶(花押)、顕祐同宿豊後顕宗、因幡顕泉、肥前顕忠、季房脇旦那奥富三郎、勧進之人数、浄善、孫三郎、四郎五郎、四郎三郎、孫二郎八郎二郎、藤二郎、三郎四郎、三郎太郎、彦八、藤七 渡邊殿、西大炊助殿   
         西三郎左衛門殿
干時天文二年発巳卵月六日 大法師等敬白」

この棟札は勝沼領主三田政定・綱定父子が塩船観音寺の仁王像を修復したことを示すものである。導師の1人、杉本坊覚満は、当山派修験寺院杉本坊住職である。覚満は三田氏有力被官である師岡氏を出自とした。杉本坊は当山派に属しながら高麗郡・杣保年行事職笹井観音堂の配下寺院で杣保周辺の修験寺院を統括した立場であった。
師岡氏は、政定の父氏宗が青梅御岳神社を造営した際に名を連ねた宗久・宗世父子の動向が確認できる。宗世の後には、著名な山城守がいる。山城守の子秀光は清戸番衆副指揮官に着任したほか、三田被官を主君北条氏照に取り次ぐなど、宗久から秀光に至るまで勝沼領・滝山領の領国支配に携わった地位にあった。
一門である覚満も三田氏の後援、上官寺院である笹井観音堂との強い繋がりから寺院の発展を図り、覚満の後も三田氏・北条氏没落という転機があっても存続を果たした。
塩船観音寺と三田氏との関わりも修験寺院と領主の結びつきを示す証明になる。

まとめ

今回は、修験寺院の加持祈祷という本来の実務を通じて戦国期の領主との関係を検討してみた。
玉林坊・宝積坊の例が存在するように護持僧の地位を獲得できた寺院が存在したこと、加持祈祷を複数で執行する場合、対価、今後の領主との関係構築を見越して競合状態であったと想定した。
その源泉は、霞・旦那が地域の中で混在しており、掌握と管理が寺院運営の生命線となり、実施は、住職の自助努力であったことに発する。日常的な権益を巡り、何かのきっかけがあれば抗争になりかねない問題でもあり地域、領主との結びつきを得られる機会は問題発生の予防・寺院を宣伝するのに繋がり活かす必要があった。
反面、霞が混在しても寺院間で交流を頻繁に行い、意思疎通を図り平和状態を創出した例もあった指摘した。

よく取り上げられる領主による山伏の軍役動員・課役だけでなく、山伏の本業を執行する役目を史料で確認できることを今回紹介した。修験寺院が所蔵した中世文書の保管は時代が下っても免許状・補任状と並ぶ寺院の権威を明示する手段になり得た。実際に、縁起でも誇張はあっても戦国期のことが記述される場合もあり何らかの情報を継承するのも地縁・血縁を第1優先しながらも存続発展を図るツールになった点も確認しておきたい。

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