戦国大名による山伏動員

今年の7月に長野県立歴史館で「山伏ー佐久の修験 大井法華堂の世界」の企画展が開催されたので初日に訪問してきた。
大井法華堂は、佐久郡岩村田にある本山派修験寺院である。開祖大井源覚は、信濃守護職小笠原氏の一族である大井光長の子として誕生した。
同堂は、聖護院から、慶長期頃(1596年から1615年)までに「佐久郡内大井の年行事職」の補任状を受給している。関連文書では、応安7年(1374)の段階で在地の旦那衆を熊野・二所へ引導する先達職を任されているので年行事職補任以前から血縁・地縁の面で密接であった。
企画展では図録が刊行され村石正行氏が「佐久の修験と戦国大名」で甲斐武田氏から在地山伏が支配を受けたことを示す文書を紹介している。山伏は、「身体頑健、独自のネットワークを有したため軍役や使者として遠隔地へ赴くことがあり大名から重宝された」と先行研究や文書解説でよく書かれる。この見解は、当たらずとも遠からじで山伏の領国内における位置づけを追っていくと必ずしも妥当とは言い切れない。今回は、史料に基づき、大名と山伏の関係の一端を触れる。


(1)使者を務める山伏

文書1 「武田家朱印状」
「(龍朱印影)条目
一 棟別役の普請、悉く皆、免許する
一 遠国への使い、勤めるべきこと
一 道者を引導する者は路銭を渡さない。ただし、場合によっては渡す。その外、客僧を務める場合は、路銭を出す。
     以上
永禄三年庚申
      八月廿五日
        国中
         客僧中」

この文書は、武田氏が従属する山伏達へ使者の任を発令する際に定めたルールが記述される。
客僧とは、意味としては、山伏を指す場合もある。
武田氏は条目で遠国への使者を勤めること、その際、任務であるから路銭を支給すると伝えている。
村石氏は、客僧が登場する文書として、もう1点紹介している。武田信玄が弘治2年(1557)に対立する「上杉謙信が信濃の飯山に展開したことを客僧から聞いた」と市川藤若に伝えた文書である。同文書でも山伏が信玄の命令を受けて北信濃の偵察任務を遂行したのがわかる。文書1にある「遠国への使い」とは外交や伝令の使者だけでなく重要地域での偵察の意味もあったと言える。

今回、武田氏の山伏支配の文書を紹介したのは、後北条氏と山伏の関係を示す文書でも同様の事例があり使者を務めた場合の待遇について類推適用が可能ではと思うに至ったためである。

(2)北条氏照*氏邦兄弟の山伏動員

後北条氏において、武田氏の山伏動員と同様の事例が鉢形城主北条氏邦と本山派修験寺院宝積坊の関係である。
宝積坊は、榛澤郡白石(埼玉県美里町)の本山派修験寺院である。聖護院・越後上杉氏・北条本家から榛澤郡の内で10ヶ所の村の年行事職を安堵された文書が存在する。

本山派修験寺院宝積坊の「霞」(知行地)一覧
聖護院坊官の源要が発給した「源要知行書立」から作成
宝積院の歴代住職墓地

文書2 「北条氏邦朱印状」
「申し付けたことは、よくよく走廻るべきだ。成就の上は、必ず扶助するので身命を軽んじて行動することを伝えるものである。
          寅   (象印 翕邦邑福)
           八月廿九日      猪俣左衛門尉 奉之
          法積坊」

この文書は、永禄9年(1566)に宝積坊へ氏邦奉行人の猪俣左衛門尉が扶助を対価に領国(当時は花園領・秩父領で永禄12年以降は鉢形領)への貢献を求めたものである。走廻は貢献を意味する。文書中では氏邦が具体的に宝積坊へ何を求めるのかは書かれていない。氏邦の領国支配において日常的かつ継続的な貢献を申しつけたのか、書き出し部分の「申しつけたことは」の意味から限定状況における貢献なのかのパターンに分かれるので具体的なことは不明だ。

また、氏邦が約束した宝積坊への扶助内容も文中からうかがえない。宝積坊は、霞支配確立の過程で氏邦から霞安堵状は受け取っておらず、聖護院・北条本家から受給しているので霞支配実務に関することではない。土地の寄進についても宝積坊の文書では見られない。
氏邦による寺院支援は、文書史料では存在しないが想定できるのが、鉢形領の護持僧の地位である。宝積坊は榛澤郡において10ヶ所の村の年行事職にあった有力修験寺院であるため領国の宗教行事執行を務められる資格を有するし鉢形城とも連絡が容易な地点に寺院が存在する。

氏邦は、天正13年(1585)から同14年(1586)に掛けて法養寺薬師堂へ、藤田郷六供(寄居町六供)の極楽寺住職・聖乗坊盛範を導師として被官の諏訪部定勝(鉢形領有力被官・日尾城将を歴任)・猪俣邦憲(鉢形領・上野領奉行人)・秩父孫次郎(秩父衆指揮官)ほかと共に十二神将を奉納している。奉納には宝積坊も参画した。

法養寺薬師堂十二神将右側


十二神将左側

氏邦による十二神将奉納は、鉢形領の有力被官も関わった一大宗教行事である。その行事に関わった宝積坊は氏邦との関係が密接であることを内外に示した形であると言える。永禄9年以降、宝積坊は継続的な領国への貢献が認められ、十二神将奉納への参加が認められるほどになった。秩父郡年行事職で武蔵において広大な霞を有した本山派先達修験寺院山本坊は参加していない点も宝積坊の貢献度合いが見える。文書2における「走廻」の意味とは限定された状況ではなく、継続的な領国への貢献を氏邦は求めたと解釈するのが文意に近いと言える。しかし、宝積坊の鉢形領関連の宗教行事への参加が十二神将だけの確認なので氏邦との関係密度の度合いとしてはまだ弱い状況である。今後の調査で発見できればと思う。

また、同文書の「扶助」とは鉢形領における護持僧として宗教行事に関わる地位のことだと現時点では想定しておきたい。氏邦が命令した「走廻」も文書1で武田信玄が山伏達へ命令した使者や敵情偵察任務のことを指すと見られる。宝積坊も氏邦より路銭支給を受けて各役目へ当たったのだろう。

後北条氏の例では氏邦兄の氏照も高麗郡篠井(狭山市笹井)の本山派先達修験寺院笹井観音堂へ「走廻」を命令した。

文書3 「北条氏照書状」
「   吉祥坊・亀東寺・邊満寺
      以上
右之山伏は観音堂并杉本坊年行事職下に
然るに天下の御弓箭なので触口下(笹井観音堂・杉本坊配下)の山伏は重ねていつ何時、どこにいても小田原の御下知次第で参上して走廻ことを手堅く申しつける。このたび年行事の下知に従わない山伏は聖護院殿に申し上げて死罪になる。知行についても誰の手に渡るかはわからない。山伏はその所々に属する年行事に大途(北条氏直)の御弓箭について伝えておくので観音堂并杉本坊手前に集合して御下知があったところに馳せ参じて走廻りすることを小田原より御下知があり申し出すものである。

 天正十六年戌子
      正月八日 氏照(花押)
        観音堂
        杉本坊」
この文書は笹井観音堂と配下寺院で当山派修験寺院杉本坊へ配下山伏を集めて、小田原からの命令があり次第、行動せよという内容である。文中にも「走廻」が記述される。ここまでの整理から、兵士ではなく小田原城からの命令によって伝令や偵察任務に動員されたと解釈できる。

今回は、武田信玄の山伏動員文書が北条氏照、氏邦兄弟による領国の修験寺院へ走廻を求めた事例と類似していたので、動員に当たっての支援や褒美について検討してみた。山伏は従属先から期待される活動は武力としての役割だけでなく、保有するネットワークや地理の習熟から軍事支援の方が主たるものであったと結論づけた。ステレオタイプの山伏のイメージを持つのではなく、存在する史料から個別に評価するのが大事である。

いただいたサポートは取材、資料購入費用に当てます。