「人を小馬鹿にすることで精神安定を保つ安全な場所にいる観察者」。あなたの中にそんな自分はまだいますか?もういませんか?
しゅんしゅしゅんです。
1Q84、何者、Think CIVILITY。
先週に買った本たち。なんというか。組み合わせがおしゃれではないか。騎士団長殺しではない村上春樹、直近の直木賞受賞作品ではない文庫、英文タイトルの翻訳ビジネス書。言語化は不可なんだが、なんともおしゃれだ。
誰も共感しないだろうか。ほんのりとなら共感するだろうか。まあどちらでもいいのだけど。3冊を組み合わせた僕は、おしゃれだ。
年下のかわいい子がレジにいても、堂々と並ぶ。どんな文学的な風貌な青年がレジにいても、表紙を上にしてレジ台に差し出す。誰に見られても恥ずかしくない。ああこの3冊をスタバでこれみよがしにひろげよう。
たまにこんなことを考えている。そんな僕は自意識過剰かもしれない。
そして僕は、浅井リョウさんの「何者」に、やられた。
僕は35歳になる。自意識はだいぶなくなった。不必要に人を批判することもない。斜に構えたりもしない。懸命な人に冷めた目をむけたりもしない。
もちろん自意識がゼロとなり、僕は解脱したのです、なんては思っていない。でも、年齢に比例して自意識はなりをひそめている。
でも自意識は案外近くにいた。
本の帯にはこう書いている。
ラスト30ページ、物語が襲いかかる。
ラスト30ページ衝撃が走る。慟哭のラスト30ページ。そんな類のもんかと思いきや、まさに物語が襲いかかってきた。
この小説、僕の中の自意識をべりべりはがして、僕の目の前にたたきつけてきた。
登場人物の誰かに共感するというより、自分の中の評論家魂が登場人物にのっかってたら、かまかけられたって感じ。おとり捜査みたいな。もう言い訳できない。
そして問うてくる。
おい、お前は立って戦っているのか?人を評する資格はあるのか?
僕はがむしゃらに戦えているだろうか。内省世界に逃げ込んで安全な場所から評論家ぶって悦に入っていないだろうか。毒にも薬にもならない高説を垂れ流していないだろうか。
そんな考えがぐるぐると頭をめぐる。
評論は結構なのだが、自分の中の評論家がでかくなり過ぎていないか、何にもチャレンジすることなく、ただ外野から評論するだけになっていないか、確かめる必要はあるだろう。
この本が、そのリトマス試験紙となってくれる。
文中にこんな台詞がある。
十点でも二十点でもいいから、自分の中から出しなよ。自分の中から出さないと、点数さえつかないんだから。これから目指すことをきれいな言葉でアピールするんじゃなくて、これまでやってきたことをみんなに見てもらいなよ。百点になるまで何かを煮詰めてそれを表現したって、あなたのことをあなたと同じように見ている人はもういないんだって
私は誰にどれだけ笑われたってインターンも海外ボランティアもアピールするし、キャリアセンターにだって通うし自分の名刺だって配る。カッコ悪い姿のまま、がむしゃらにあがく。その方法から逃げてしまったらもう、他に選択肢なんてないんだから。
ほざいてねえで。評論してねえで。さらけだせ。はじかけ。はいつくばれ。生きろ。勝負しろ。それだけが本当で、それ以外は本当じゃない。ってことだ。
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20代は不安だから、評論家になると思う。
何かを否定することで、その否定の対象とは違う者であることを勝ち取る。見分ける分別をもっている自分は優れていると思う。あれはない。これはない。あいつは違う。こいつはださい。攻撃的な評論家だ。
30代は確かめたいから、評論家になると思う。
それもいいと思うよ。これもいいと思うよ。何事にも良し悪しがあるからね。だから僕が進んでいる道だって間違いじゃあないよね。なんて。わかったような口をきく理解者的な評論家だ。
40代は、まだ30代だからわからない。でも何かを起点に評論家になってしまうんだと思う。
でも多分。評論することに、幸せはない。
前線は疲れるし、評論家でいたいけど、たぶんそこに本当に幸せはないんだろうから、いくつになっても前線でいたい。シェルターの中にいたくはない。えらいもんで人間は成長するので、一歩踏み出した先はいつのまにか陣地となり、いつのまにかシェルター化している。
恥ずかしくて、かっこわるくて、げろ吐きそうな1歩を、1年に1回は踏み出し続けないとなあ。
いまさらかもしれませんが、名作です。
では。
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