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私たち姉弟は生まれた時と名前が違う話 2019/3/21(隠れ虐待と母との記録5)

世の中は新元号発表を目前に沸く中、
私たち家族は平成も始めのころの話を、していた。


「「『隠れ虐待』が母にバレた話」が母にバレた話」の電話の次の日、母からLINEがあった。

電話では前回に比べてパニックを起こしている挙動も少なく、比較的理性的になってくれたと思いきや、もちろんそれで母が穏やかになったわけではなかった。

それは、
「LINEで申し訳ありません」
という世にも不吉な書き出しだった。

正気でないのは内容を読まずとも文章の雰囲気でわかる。その長文をさっとスクロールするに全部敬語、いや丁寧語で書かれている。

もちろん何か正気でない母がアクションを見せることは想定内だった。
一度落ち着いて見えたところで本当に落ち着いていたら今まで苦労していない。
だがその中でも、思わずあちゃ~と眉をしかめてしまったのは、文章の最後に記されたこれだ。

「えりちゃん、(弟)君へ」

わざとらしく名前にちゃんと君付けでかかれたそれ。
同じ文章を弟にも送ったことがわかった。
色々と対策をこうじてはみていたのだが、弟を巻き込むのは免れられなかったらしい。

すぐ弟に「お母さんから変なLINE送られてきたでしょ」と送った。
「うん。あれ何なの?」とすぐに返ってくる。
私は高校時代母とぶつかっていて、弟には迷惑をかけたと思っているので、また巻き込むことになって申し訳ないと思うばかりだ。

以前「弟はできが悪かった」と書いたが、そんなのは過去の話で、今彼は県内では名の知れた会社でバリバリ働いている会社員だ。
私より社会人としては2年先輩なこともあり、今は出来の悪い弟どころか兄にも近い存在だ。

私たち兄弟は昔から仲がよく、距離が近すぎないことも含めて友人のような関係性だった。
お互いに家を出てそれぞれ暮らし始めた今でも、二人で遊びに行くということも珍しくない。

そんな私たち兄弟は、ちょっと危うい母のもと、地方の田舎でたくさんの親戚にも囲まれながら生きてきたわけなのだが、
私は1つだけ、両親が自分達に隠してきた事実を知っていた。
それは、私たち兄弟は、なぜか小さい頃と名前が違う、ということだ。

母から送られてきたLINEの内容は、こう書き出されていた。

「LINEで申し訳ありません。
ゆっくり話す時間もないでしょうから…
喉まで出ていて引っ掛かり苦しいからお話しますが……」

そして母は、私と弟にその真相の一部を語ることになる。

私は最近父から大まかにはその真相を聞いたのだが、弟は自分が全く違う名前で生まれてきたこと自体を全く知らない。

私は「隠れ虐待」からなるエッセイを公開したことがきっかけで、家族の思いもよらない事実を知ることになってしまった。
それがこの名前の話であり、私たち家族がどうやってできたかという話である。あの母の人格を作った要因ですらも、ある。

私は以前、昔と名前が違うことを、最近軽くTwitterで呟いたことがあって、それを母が、隠れ虐待のnoteを探そうとエゴサーチしているときに見つけたらしかった。

母は、生まれた時と名前が違うことが子供にばれていることを知らないので、そのツイートを見てより心をかき乱してしまったのだろう。
母は、私のツイートやnoteに対して、自分ことを暴露しているのをなくしたいということ以上に「子供の失態を見つけて正してあげなきゃ」「子供が世間に悪く思われないように」という正義感や義務感でネットで私の名前やSNSを見まくっているらしい。電話で「私が見つけてあげてよかった」と何度も言われて少し困ってしまった。
ちなみに現在は母の目にこのnoteやTwitterが見つからないよう対策できた。それでも見つかる可能性が0な訳ではないのだが、それでも母が見つけ出して読んだとしたら母の詮索しすぎだと言えるし、見つかっても書こうと決心したので、私は今ここにも記録をしている次第だ。
今から書くことは母から中でも絶対に書くなと念を押されたことなので、汗を書きながら書く。
 
 

これは「隠れ虐待」に記した私の子供時代より何年も前、両親が結婚するときにまで遡った話だ。

まずは私と弟の名前を記しておこう。

私 今:水嶋衿→昔:佐々木衿
弟 今:水嶋夕→昔:佐々木健人

仮名ではあるが、限りなくこんな感じだ。

高校生の時だろうか。小さい頃のアルバムを見てみると、いとこと一緒に遊ぶ自分の名札の名前が今の名前と違って、そこで私は名前が変わったことを知った。

父に「なんか名前違うんだけど……」と聞くと、お父さんの仕事の都合、などと言われてはぐらかされた。
当時はなにか事情があるのだろうくらいに軽く考えてそこまで気にしたことはなかった。

名字が変わるというのは、結婚や離婚や養子縁組などで不思議なことではないと思う。しかし、うちの場合どれにも該当していない。
しかも、お分かりのように、
「水嶋夕」と、「佐々木健人」もはや別人だ。
弟に関しては上の名前も下の名前もまるごと違う。

何かある。さすがに何かあるぞこれは。

そう思って真相を父に聞き出したのは、偶然にも例の「隠れ虐待」の最初の記事を公開するたった一週間ほど前のことだった。

用事があって帰省したとき、父に「区役所から、以前名前変えましたよね?って聞かれたんだけど」と嘘をつき、父に問いただしてみた。

父は少し近くの一点を見つめてバツの悪そうにしたあと、
「もう、わかってくれる歳になったからな」
と、言った。
父は、ゆっくりゆっくり、つぶやくように、途中付いていたテレビの感想なんかを挟みながら、教えてくれた。

この名前の真相を知ることで、田舎の独特すぎる社会性の闇を垣間見ることになる。
 

今から記すことは、あくまで私のたった一代前、あくまで「平成」に起こっていることだということを、念を押しておきたい。

まず、「水嶋」は母方の姓で、
「佐々木」は父方の姓に当たる。
つまり名字に関しては、生まれたときは父方の姓で、現在は母方の姓を名乗っていることになる。

水嶋家と佐々木家は、共に田舎の同じ町内で深い根を生やした一族だった。
田舎の「いい家」というやつだ。ちなみにどっちと言えば佐々木家の方がいい家らしい。

そんな家に生まれた父と母は町内で出会い、結婚していないのに子供を身ごもってしまった。その子供というのが私だ。
ここから、両家の仲違いが始まる。

通常であれば、当人同士と両家にその意思があれば、いわゆるできちゃった結婚として、母がお嫁に行って二人は結婚するだろう。
それが一筋縄ではいかなかった。

まず、佐々木家の父は次男で、長男はすでに結婚してお嫁さんをもらい、子供もいる。
水嶋家の母は長女だが、弟がいて、彼が家を次ぐ長男に当たる。
どちらも家を次ぐ兄弟がいるので、父も母もどっちが家を出ても大丈夫なはずだった。
なので両家の言い分は一緒だった。
だがそれは
「うちのがお宅に入っても大丈夫ですよ」
ではなく、その真逆で
「絶対にうちのを家から出さない!」
だったのだ。

信じられないのだが、うちの田舎にはまだ
「血筋によその血を入れない」
という美徳が継承されている。

私の知る限りその伝統といえば、ちょっと前までの天皇家くらいだ。
よって両家にとって相手は「よその血」であり、本当は結婚もよその家との「混血」というべき子供の存在も認めたくないのだが、さすがに子供ができてしまってはしょうがないのでどうしようというのが今回だ。

由緒ある佐々木家は、すでに長男が家督を継いで安泰なのにも関わらず、よその血を家に入れたくないのと家族を手放したくないばかりに、父を水嶋家に入れることを断固許さなかった。
「男は嫁をもらうに決まってる!お宅は長男もいるだろう、女は嫁に行くと決まってるじゃないか!」
という言い分である。
これを言われてしまうと水嶋家はぐうの音も出ない。

この田舎において、男は嫁をもらい、女は嫁にいくというのはほどんど法律に近い。
それ以外は、恥であるのだ。


一方、水嶋家が娘を嫁にやれない理由は、もっともっと切実だった。それは、この血の美徳の代償とも言えなくない問題があったからなのだった。

よその血を入れないことで、その家の血は当然どんどんと濃くなっていく。
前の記事「母さん、晩年っていうのかい」などを読んでいただいた方は察しがついているかもしれない。
母の弟、つまり私の叔父は、重度の知的障害を持っており、結婚をすることができない。血が濃いせいで、などと私は思いたくない。だが事実として、祖母と祖父も、はとこ同士で、近く血が繋がっている。私は孫として祖母と祖父が結婚したことに間違いなどないと思う。だが親戚での婚姻が繰り返されてきたことは間違いない。

他の家も同じだ。そのせいとはっきりは言えないのだが、うちの田舎には先天の障害を持った人がとても多い。それも、3~5人兄弟で全員が重度の同じ障害、というケースがものすごく多い。
では昔から障害者が多く生まれるのに困っていたのでは?それで血が濃くなることを防ごうとできたのでは?と思うが、そうではないらしい。
これは祖母が言っていたことなのだが、最近までは先天の重度の障害者などほとんどいなかったのだという。叔父が生まれるほんの10年前までは、重い障害のある子供は生まれられないか、生まれても長くは生きられなかった。それが医学の進歩により、どんなに重い障害を持っていても生きることができるようになったのだと。
祖母は苦労して叔父を育てることに手一杯で、母に全く構えなかったことが後悔だと私にはこぼした。この家庭環境は母の性格にも影響している。母も母で、子供のころいっぱい傷ついたのだと思う。今の母の性格は、このころの影響も随分あるようだ。

こうした理由で、水嶋家は母を嫁にやることは一族が途絶えるという意味なので「嫁にはやれない」を突き通しているわけである。

水嶋家は叔父の人権のこともあり「うちは長男が……このままでは家がついえてしまう……」とも強く言いづらかったことに加え、佐々木家の方がいい家なので押しづらい、でも引くわけにもいかない、といったことになっている。

佐々木家優勢、水嶋家劣勢ながら耐えている!という鬼気迫るこの状勢。
渦中の台風の目である私が書きしたためていることに皮肉を感じつつ続きを書く。

さて、問題は私だ。
両家がバチバチと抗争を繰り広げていることなど露知らず、私は母のお腹でのほほんと大きくなっている。
このままだと結婚しないままに子供が産まれてしまう。

もうどうしようもないこの状況に、母と父の仲人であった佐々木家の本家当主が一手を下した。
その提示された案というのが、これだ。

「産まれてくる子供の人生を、佐々木家と水嶋家、半々にしたらどうか」

つまり、子供は人生の前半を佐々木家の娘に、やがて水嶋家の娘になる、ということだ。

そんなことできるの?と思われるかも知れない。
できない。
私は一人なので人生の途中から違う人間になることなんてできないと恐ろしく思う。だがそのとき、提案されたこの常識はずれの案しかなかったのだ。

両家はこれで折れた。
急ぎ行われた結婚式で、佐々木家当主はその旨を親戚含めたそこに来た全員に発表したという。奇妙な話だ。

そして父と母は、私に、佐々木でも水嶋でも合う名前を考え始めることにした。
全く似ていない名字のどちらにも合う名前というのは難しく、まずは音から決めたので、生まれたときはまだ漢字は決まっていなかったという。

それから、私は佐々木家の人間として生きていた。
佐々木家には私と4日違いで生まれたいとこがいて、双子のように育った。
私もいとこも名前が変わった字面をしているのだが、それもなぜか、まるで双子のように似ていた。
このとき撮られた写真を、高校生の私は発見し名前のことを知ることになる。


さて、現状佐々木家に丸め込まれてしまった感じのある水嶋家。途中で水嶋家になるって何なの?それっていつ?

そんな水嶋家に風が吹いたのはそれから2年後。
母が第2子を身ごもり、それが男の子だということがわかったのだ。

つまり、この男の子を水嶋家のものに出来れば、(男は結婚し嫁をもらい男の子を産むと決まっているので)水嶋家が存続できることになるのだ。
ここで水嶋家は力を振り絞って交渉した。
この時点で、私は「佐々木衿」、今にも生まれる弟は「佐々木健人」という名前である。

水嶋家は頑張って、跡継ぎの佐々木健人奪還に成功する。
そしてついでに、私佐野衿ももらってきてしまうことに成功してしまった。

というのも、調べたところによると、下の名前を途中で変えるより、事情なく名字を変える方が手続きが大変なんだという。
そのルールのひとつとして、名字を変えるときは、その家族全員の名字が変わらなければいけないというのがある。なので弟が佐々木になるということは衿も佐々木家にうつらないといけないわけだった。

そんなこんなで私は「佐々木衿」から「水嶋衿」となり、今、佐々木衿と名乗っていた記憶はない。

さて、問題の弟は、すっかり水嶋姓を諦めていた両親から「佐々木健人」と名付けられていた訳だが、産まれたあとに水嶋姓になると決められ、相性のこともあって下の名前もろとも変えてしまったのだという。
そして弟は似ても似つかぬ「水嶋夕」となり、彼も「佐々木健人」だった記憶はもちろんない。

これが私たち兄弟が生まれたときと名前が違い、それを隠されてきた理由だ。
 
 

そして父は2時間ほどかけてこれを語ったあと、こう締め括った。

「このことは、姉ちゃんは別に知らないままでよかったんだけどね。家を出ていくんだから。知らなきゃいけないのは夕だよ。」

私が「もし夕が女の子だったら?」と聞くと
父は
「少なくとも水嶋になるのはもっと後だったろうな」
と答えた。


私に課せられているのは、結婚してお嫁に行くこと。
重いのは弟だ。早く嫁をもらって家督を継ぎ、男の子を作り、叔父のことも引き継がなければならないのだと。
これが、決まりなのだと。これができなければ両家の約束が破綻してしまうのだと。
そう熱く語る父に、私はこのことは両家の誰かでなく両親でもなく、私から弟に伝えようと決めた。

それにしても、私たちは家の汚いところをよく隠されて田舎で生きたものだ。
山のようにいる親戚たちから私たちはなんにも聞かされることなく、両家のみんなから可愛がられて育った。唯一祖母ができちゃった婚だったことを私に口を滑らせて「あれ?知らなかった??あら余計なこと言ったわねこれは」と焦っていたくらいだろうか。

両家のことを少し悪い人たちのように書いたが、実際はそんなやりとりをしたとは思えない優しい人たちしかいない。
むしろ、両家を取り持って両親をなんとか結婚させてくれた佐々木家当主のことを、私は恐い頑固親父と思ってあまり好きではなかったので、驚いた。今は亡き和幸おじいさまには感謝しなくてはならない。
恐ろしいのは一人一人でなく、閉鎖された部落の文化や価値観なのだと恐ろしく思う。

そして、この両家のやりとりがされていたころ、両親は、きっとただの若い男女だった。
母は今の私と同じ20代の若い女性だった。
突然お腹に人一人発生してしまったというだけでもパニックなのに、その中で両家にもみくちゃにされたのだろう。前のエッセイで、母は私が佐々木家に行くとヒステリーを起こして暴れると書いたことがあるが、それもこれを聞いて府に落ちた。
 
 
 

「衿ちゃん、夕君へ

 落ち着かない母より」

しどろもどろな文章で事実が綴られたあと、そう締め括られたメッセージをじっと見つめながら、これを送信しながら家でパニックを起こしているであろういつもの母を想う。

私といくつも変わらなかった母が、激動の始まりから、よく、私たちをここまで育てたものだと、純粋に思った。
だが、母は、まだ私たちをまだまだ育てていたいのは知っている。私たちの世話を焼き、パニックを起こし、甘えられ、そして甘えていたいのだと。

母に、

子育ては、終わったんだよ、お疲れ様
と一言伝えたくなった。

色々書いたけれど、お母さんが私たちを愛していて、辛く、一生懸命だったことは知っている。私もお母さんとの日々を許すし、私がこれを書いたことも許してほしい。そしてこれからは、各々に幸せになりませんか、と。

私は、実家に帰ることを決めた。
隠れ虐待の記事を公開して以来、初めて母に対峙することになる。
どうしようもなく恐ろしい。行きたくない。

そして今、大人になった弟にじわじわと「家督の責任」がのしかかろうとしている。彼は私にとって、家族であること以前に、一人の幸せになってほしい大切な人である。
弟にも会いに行き、話をせねば。

私は、始めてしまった記録を諦めずしたため続けながら、家族とも向き合うと決めたのだから。

こうして、仕事の合間を縫って、家族に会いに行く旅を決行することになった。

 
 
今回も長い文章をお読みいただきありがとうございました。
次回はその遠征の記録を。

どうにか、なる。
 
 
 
 
 

↓「隠れ虐待」と母との記録、1作目↓

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