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弟に会いに行ってきた話 2019/3/23(隠れ虐待と母との記録6)

弟に会う口実は、「映画、行こうよ」だった。

その日、午前中は仕事をして、そこから弾丸で弟に会いに行くことになっていた。
弟の住むところの近くの映画館のあるショッピングモールで落ち合うことになっていたが、弟に駅から映画館までの行き方を聞くと、駅まで車で迎えに来てくれることになった。

仕事を片付け、池袋から急いで電車に乗り込む。
途中で鈍行に乗り換えて、後はどんどんと田舎になっていく車窓を延々に眺めることに徹していた。

高いビルがひしめき合っているところから、
ビルはどんどん低く低くなっていき、
なんにもなくなったな、住宅街だなぁと思うと
あっという間に民家もまばらになり、
気づくとあんなに狭かった青空が遠く広く広がってる。
あたりは畑と大空。
田んぼの様子からもう春だなあと実感する。
腰の痛みを感じて2時間ほど経っていたことに気づく。
そろそろ着いていい頃だと思うと、弟からLINEが来た。

「西口で待ってるよ」

スタンプで返事をしつつ、あと1駅か2駅だろうと勘定して、電車のドアの上の路線図を確認する。
そして、青ざめた。
全く逆方向に走る電車に乗っていたことに気づいた。
各駅停車で2時間揺られながら、気づかなかった。

弟に「あと2時間かけて戻ります」と少し震えながら送信。
「俺は待てるけど姉ちゃん帰る時間大丈夫?」と気を遣われながら、なんとか夕方に映画館の最寄り駅にたどり着いた。

弟の車に乗り込んで、映画館に向かう。
「もう着かないかと思った!ごめん!」
「そんなこったろうと思ってたよ」
乗り込んだ瞬間たちまちお互いの仕事のことや遊びのことに話が始まる。元々、よそより大分会話量の多い兄弟のように思う。

見慣れない町の景色を眺めていると、色々この町のことを説明をしてくれた。
あの煙が出ているところは最終焼却炉なんだよ、ここはイオンに繋がる道だよ、と。

一緒の家にいたはずの彼が住む、見知らぬ町。
これを書く今も、あの日見た知らない町の景色が、まるで夢の中で見た光景のように、少しの非現実な違和感をもって脳裏に再生されている。
私たちは違う一人の大人になってしまったんだな、と噛み締めた。

10分ほど走って映画館に到着する。
私が路線を逆走したことにより、丁度よく見られる映画に限りが出ていた。まったくチケットを買っておかなくてよかった。

丁度時間が合ったのは「飛んで埼玉」だった。

映画館がない地域で育った私たちが映画を見る文化を知ったのは、大人になった最近の話なので、私たちにとって映画を観るというのはまだ特別なことだ。

「飛んで埼玉」を二人ともゲラゲラ笑いながら鑑賞する。
というのも、どことは言わないが私たちが育ったのは「飛んで埼玉」をゲラゲラ笑わずには見れない県なのである。

見終わった後、夕食を食べにショッピングモールのレストランに入った。
「飛んで埼玉」の感想を延々言い合う。
その流れで地元の話になる。はてまて実家の話になる。
いい流れだ。見たのが「飛んで埼玉」でよかった。
私はまるで本題でないのを装って本題を切り出した。

「そういえば、あのお母さんのLINEのことなんだけどさ」

「あれね、そうあれなんなの?」

私は母にTwitterやnoteがバレて発狂に至ったいきさつから、あのLINEを母が私たちに送る経緯の全てを話した。

Twitterがバズったことがきっかけで母がSNSを覚えたこと、
私たちの名前をエゴサーチしていること。
そこで母と家族との生活について書いた「隠れ虐待」の記事がバレて母が発狂していること、
エゴサーチをしまくるようになった母に、自分の名前の事情に関するツイートまで見つかったらしく、母が私たちに隠していた過去をLINEで告白するに至り、あのLINEがが送られることになったということ。

その話をパスタをすすりながらもうんうんと聞いていた弟は「ほーん」と相づちをうち、パスタを飲み込むと

「それは姉ちゃんが悪いね、見つかるアカウントでやるんじゃあないよ」

とさっくりと言った。
すいませんとしか言いようがない。

そして、母がLINEでパニックしながらしどろもどろに送った、自分達の名前と産まれる時の事情を、改めて詳しく話した。
自分達が両家の揉め事の中産まれてきて、そのお陰で名前すらも途中で変わることになり、それを隠されきて大人になった今、家督である彼に両家から背負わされた責任がのし掛かろうとしていること。

名前については、自分の以前の全く違う本名に「もはや偽名じゃん……」と驚きつつも、彼はケロリとしていた。

「産まれるときのことも、過去のことだし。過ぎた話だからそれは気にならないな」
と素知らぬ顔をした。

私は、家族がどう言おうと、あなたの人生は自由であるべきだと思う、これからも好きに生きたらいい、好きに何か困ることがあったら言ってほしい、これから大変だし(私がもっと大変にしちゃったこともあるけど)何かあれば連絡してほしい、協力してやっていこう、と伝えた。

これを伝えることが、今回弟に会いに来た理由だった。

だが彼からの返事は、思った何倍も冷静だった。

「姉ちゃんに相談すべきこととそうでないことがあるからね。」

私が関与した方が母の情緒を逆撫でする心配もあるでしょ、ということだろう。

「まぁ結婚とか、この先のことは全然考えてない。まだ若いから考えてないってのもあるとは思うけど、そもそも俺は家のことに縛られて何かを決めることは絶対しないよ」

そう強く言い切る彼の言葉は、曇りない本心であるように見えた。意外だった。
どちらかというと彼の方が私より帰省する頻度も多いし、優しい性格だし、家族欲が強いのかと思っていたからだ。
だからこそ今回彼にも影響を与えてしまったのが心配だったわけなのだが。

そういえば最近、彼が家族の前でいる態度と本心が違うことが垣間見えていた。

家族のことは愛しているし心配だけど、自立した自分にとって、小さな子供のころと変わらず心配してくれる親がちょっと厄介。だからこそ大きくなった子供が、家族、特に母親の前ではわざと親が心配しないようなことばかり言ったり、都合よく親の前の自分を繕うのは、多くの親子にとって自然なことではないだろうか。

特に私たちは、敏感な母への発言や態度を厳重に調整することが癖付いているので、親の前にいる自分と素の自分が違うということが起きてくる。
弟も無意識に、母が寂しくないように、自立しているが適度に弱く適度に甘えん坊で家族が大好きな息子を演じるようになっていたようだ。
私も家ではそんな弟ばかり見ていたわけなので、家族に縛られることはないとさらりと言い切る彼が意外だったのだと思う。
同じタイミングで帰省した時などに二人になった時、
「こんなこと絶対お母さんには言わないけどね」「お母さんにはこう言ったから口裏合わせよろしく」
そんな会話を苦笑いしながらするのも悪くなかった。

彼も彼なりに親との距離感に迷っているようだった。
そして彼は少し渋い顔をする。

「前に実家に帰ったときに、お父さんに彼女とか結婚とかすごい催促されたんだけど、そういうことだったのか…。考えてみるとは言っておいたけど」

彼は、私の知る限りは恋人がいたことはない。
家を出るまで家族の中で恋愛の話をするのは母への刺激になるのでご法度だったので、お互いにお互いの恋愛事情を一切知らない。
彼はゲイかもしれない。無性愛者かもしれない。なんでもいいと思う。
それが急に父が態度を変えて嫁を催促するようになったわけで、困惑していたようだった。

そして彼はしみじみと呟いた。

「俺はお母さん似だから、お母さんの気持ちもわかるよ。ひとつ不安があったりすると、起こってもないことや言われてもないことを妄想して本当のことのように感じてダウンすることがあるのは、わかる」

独り言を言うように少し低い声で呟く彼は、色々なことを思い出しているようだった。
大学に4年間通わせてもらった私と違って、専門高校を出てすぐに働き始めた彼は、精神的にひどく辛くなった時期もあるとぼやいていた。その時期のことと、母との生活の日々をきっと思い出している。

そして彼は苦い顔をふと緩めて笑った。

「俺も20年以上息子やってるわけだからお母さんのことも家のことも、どうしたらいいかなんてもろもろわかる。大丈夫だよ」

大丈夫に決まってるだろ、こっちは上手くやるから自分の心配をしてくれと、そう言わんばかりだった。

彼は、私の全ての話に、全く動揺を見せなかった。
もちろん同様が1ミリもなかったわけではないだろうが、少なくとも動揺を態度に見せてはこなかった。

私の話に適宜客観的なコメントをしながら頷く彼と、昔誰にも負けない弱虫で訳もわからず母の前で泣きじゃくっていた彼の姿がふと重なった。

目の前にいる彼は、すっかり若い成人男性の顔をしている。
子供の頃、真っ先に守ってやらねば壊れてしまうと思っていたあの弱い彼は、もういないのだとハッとする。
家庭環境や色んな要因で達観したのは私だけではなかったようだ。

「ちょっとのことじゃ驚かなくなったしね。家族のこともあっさり引いて考えられてるというか。もしかしたら人には冷たいって言われるかもね」
と彼は言う。

「家から出て、俺も家族のことを客観して考えるようになったよ。会社にいるやつら、片親だとか貧乏だとかで苦労したやつもいてさ、うちは恵まれてたんだなぁとかも思うよ」

と彼はふと呟いた。

「逆にうちはおかしかったんだなってことも、色々ね」

そっかうんうん、と私は頷く。

うちはおかしかったんだなということ。
それは母のこと、母との毎日のこと。それだけではない。
障害のある叔父と育ったこと、学校に行く家と学校から帰る家が違ったこと、水洗トイレがなかったこと、隣の家がたくさんの狼を飼っていること、必ず遠吠えで町内放送は聞こえないこと、布団は年中敷きっぱなしなこと、父が釣ってくるヒラメを祖母の家の玄関に置いておくと翌日ごちそうになっていること、ベーコンエッグのベーコンは焼かれていないこと………


おかしかったこと思うことであって、よかったとかよくなかったとかではない、どの家でも決まってあるその違い。
家を出て初めて、自分はああいう一家庭に育ったと、まるで小説の主人公の設定のように意識するのだ。
きっと、おかしかったことに気づくことは、自分はどんなところでどんな風にこの人間になったのかということをわかることなのだろう。

彼も私も、まだまだこれからその″おかしかったこと″に気づき続けるのだと思う。
 

その流れで自然と叔父の話になると、彼はおもむろに切り出した。

「俺も叔父さんのことを作品にしたって話したじゃないか」

私はまたうんうんと頷く。

「叔父さんと一瞬だけコミュニケーションが成立したっぽい瞬間があって、それを書いたんだ」

へぇ、と私は2度続けて大きく頷いた。
叔父とコミュニケーションがとれたことがあるということに1度、それを書いて人に見せたということに、もう1度。
重度の知的障害によってコミュニケーションをとることができない叔父との生活。叔父の存在は家族外には隠されている中、やはり彼も私も同じようなことを感じ、それを周りに表現していたということに、嬉しいような気持ちすらした。

「実はそれ、なんか賞に入ったんだよね。でも、家族にバレたらよくないと思って、辞退したんだよ」

そう聞いて、少し驚いたが苦笑いをしてしまった。
私も数年前だったら多分同じことをしていたと思う。
私たちは表現したくて作りたくて見られたくて見られたくないという葛藤をずっと繰り返してきたのだなと思った。

それから、私たちはものづくりの話をした。
それしかしてこれなかった私たちだが、そのことついて深く意見を交わしてみたことはなかった。

できごとを何かものづくりに昇華させたいとしてきたが、私たちはその中でも記録に執着しているとわかった。私は文章と、それを喋ること。弟は、写真。
どうしようもない感情を、何か形にしたい、という欲。
母の主観的な性格と子育てが私たちにものづくりをさせていると思うと皮肉だ。

その他にも、つかの間だがたくさんの話をした。ものづくりのこと、実家の地域の祭のこと、母校が閉校すること、ナウシカが歌舞伎化すること。

そして弟は、この自分達の名前が変わっていた事情を、弟の趣味であるクトゥルフ神話TRPGのシナリオに使って、「実は本当の話」という大オチにしたらいいんじゃないかという話で盛り上がっていた。
私がこれをエッセイとしてしたためている裏で弟はこの話をシナリオにまとめている。姉が姉なら弟は弟だ。どうしようもない。
 

 
 

お会計で、私が財布を出すと弟が「いいよ」といいそれを制してきた。
「転職祝い」と言って奢ってくれた。

「お祝いなのにこれくらいじゃ奢りがいがないな」とはにかむ彼の横顔を見て

色々心配してやってきたのは杞憂だったなと思った。
 
 
 
私のせいもあり壊れかけたこれからの家族の中で、彼は適宜必要に立ち回って、自分で幸せになってくれるだろう。

いくら家族が家族として繋がろうがそうでなかろうが、各々が幸せであればそれでいいのだと、
家族のあり方や形が変わっていこうが恐れなくてもいいのだと、そう弟は私に思わせた。

彼に会いに行ってよかった。
母がしたことも自分がしたことも、あの過去の全てが、あれは実際に歩んできた時間なのだと認められた気がした。

彼に会いに行ってよかった。

今しかない、と私は思う。
 
 

弟に駅まで送ってもらい別れを告げ、

そして私は再び、東京の自宅へ向かう路線を
″逆走″し始めていた。


私は弟と別れたその足で、母に会いに向かうことに決めた。
 
 
 
 
 
 

さて、今回も長い文章を読んでいただきありがとうございます。
この「隠れ虐待と母との記録」は、次回で完結です。
母に会いに行ってきたという話で、一旦幕を閉じたいと思います。
平成中には公開したいと思いますので、読んでいただければ幸いです。







↓「隠れ虐待」シリーズの始まりです↓


↓シリーズ中で最も読んで頂いた2作目です。
最も読まれたnote入りありがとうございます。↓

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