がくさん~地方公務員&国家公務員⇒IT企業⇒独立⇒クラウドファンディングキュレーター(ベンチャー社員)&コーチ~
がくさんです。
地方公務員6年・国家公務員2年(出向)・民間企業(IT企業)2年を経て、個人事業主として独立。その後、現在はクラウドファンディング企業のキュレーターとして働きながら、認知科学のプロコーチとして活動している33歳一児のパパです。
本記事は、私が何者なのかを書いた記事です。
これまでどんな人生を歩んできたのかを書きつづってます。
※長いです(約15000字)。
※以下からは自分語り調で書いてます。
【想い】
私は、世の中を明るく照らす、本音で生きる仲間を増やしたいと思っている。そして、現役世代はもちろん、次世代の子どもたちにとって、より良い社会を創りたい。
この想いの下、自身のゴールに向かうために認知科学プロコーチとして、また、クラウドファンディングのキュレーターとして仕事をしている。
【①幼少期:0~6歳】
【スクリーンショットを切り取り。決して心霊写真ではない】
【地元の現代美術館にて】
東北最北端、馬で有名な街「十和田市」で誕生。
4人家族で高校時代まで地元で生活を送る。
十和田市は2021年時点で
人口が6万人レベルの自治体。
町や村に比べたら栄えているほうだと思うが、幼少期の頃は家の周りは田んぼが多く、周りにコンビニやマクドナルドはもちろんなかった。
父親はかつて東京で営業マンとして働いていたが、勤務先が自分が上げた実績に見合う対価を支払ってくれなかったことに納得がいかず、会社を辞めて青森県にUターンしたそうだ。
最初はレンタルビデオ屋でアルバイトをしていたが、35歳のタイミングで独立。工事現場の機材を取り扱う小さな商社として商売を始める。
商才のある人で、子どもの私からみてもやり手だったと思う。素直に尊敬している。
母親との出会いはお見合いだったらしい。
あまり詳細を聞いたことがない。
会社が軌道に乗るまでの父親は、毎晩帰りが遅かった。
私が2~3歳くらいまでは母親も看護師を続けており、夜間勤務もあった。兄と一緒に知人に預けられていたようである(小さい頃なので記憶がほぼない)。
母親の中で、父が不在の中、看護師を続けながら2人の子育ては無理だと判断し、看護師を辞めて途中から専業主婦に切り替わった。
小さい頃の母親の印象は「鬼」。
【母は本当に怖かった】
優しい面もあったと思うが、圧倒的に厳しい人だった。保育園の先生にも、自分の母親は「鬼」だと吹聴していた。
兄弟喧嘩はたくさんしたし、小さい頃は感情の起伏も激しいほうだったので、母の雷が落ちることは日常茶飯事だった。よく泣き喚き散らかした。
それでも外に出ると割とおとなしい性格で、人前に積極的に出るタイプではなかったし、人の後ろについていくような子どもだった。
4歳頃からは、みんな大好きくもん式に入塾。
目的は「左利き」を「右利き」に修正するため。
兄と一緒に母に入れさせられた。
塾に行くのが嫌すぎて、
最初は毎日のように塾で泣き叫んでいた。
それでも徐々に右で書けるようになり、勉強もやり続けることで成果が出るようになると段々と苦にならなくなった。
【②小学生:6~12歳】
【小学校入学時。白タイツというハイセンス】
小学校に入学してからも自分の性格は特に変わらず。特にクラスの中で目立つことなく、ひっそりといるような存在だった。
くもん式を続けていたこと、小学校入学から卒業までの6年間そろばん塾に通ったこともあってか、勉強自体は割とできた。俗にいうガリ勉だ。
勉強もそれほど苦ではなかった。
勉強が好きというよりは、勉強という作業が好きという感覚のほうが近いかもしれない。
知識が脳内に定着していくこと、自分がやればやった分だけシンプルに結果が出るというプロセスは、自分の性格にも合っていた。
また、友達と遊ぶことも好きだったが、自分の時間をいかに楽しく過ごすかとか、兄貴と一緒に何かするほうが、正直、楽しかった。
友達と遊ぶときは自分の遊びたいことというよりも、その他の友達がやりたいことに自分が合わせていた。
身長も比較的小さかった。
整列順はいつも1番目か2番目。
同時に肥満体質でもあった。
当時はコンプレックスだった。
ただ、幸いにもいじめられるといったことはなく、1日1日を穏やかに過ごしていた。
【③中学生:13歳~15歳】
【写真(左側が私)が不鮮明すぎて昭和感】
中学校に進学。
自宅から自転車で3分もあれば着く好立地。
ここでもガリ勉は発揮される。
中間テストや期末テストの順位は基本上位。
中学生に入ってからくもん式を離れ、
個人経営の塾に通い出す。
当時の塾の先生がハキハキした先生で、物事をはっきりしている性格もあって母とも意気投合。
高校受験までしっかりお世話になる。
高校生への学習指導はやっていないが、場所はただで貸してくれるということで高校生の時も、学習スペースとして通わせてもらった。
勉強の一方で、入った部活は卓球部。
【絶対に負けられない戦いがここにもあるが、弱小なので負けていた】
弱小の卓球部。
体育館も月曜日から土曜日までの
6日間のうち4日間のみ使用可能。
使える面積は体育館を4分の1にした時の
面積の更に3分の2スペースのみ。
同じ体育館で時を共にするのは安心の実績と圧倒的な結果を出しているバスケットボール部、新体操部、その他、バドミントン部である。
弱小ではあったが、真剣に取り組んだ。
ちなみに兄も同じ卓球部で、部長を務めた。
おそらくその流れ球を食らったんだと思う。
顧問からの指名を受けて部長を務めた。
他にもクラスの学級委員。
中学2~3年生の間、学級委員長を務めた。
当時の中学校は確か、全部で6クラス。
他クラスの学級委員長はいわゆるイケてるグループの人物か、クラスの中でもお笑い担当的な存在感があるような人物。
その中に私。
「何故、私が?」という思いでいっぱいだったが、ここで出てくる「真面目な奴」学級委員長に向いている説。
担任の先生からの切望もあり、2年間人気を全うした。
【④高校生:16歳~18歳】
【写真(左側が私)卒業前、イキり倒している】
地元の県立高校に進学。
こちらも自転車で5分くらいの距離にある。
電車賃、バス代のかからない。
そういった意味では親孝行な息子だ。
高校進学後も変わらず学校の勉強は頑張った。
成績も割と上位のほうを取っていた。
塾には通わず基本的には自学自習スタイル。
暗記系科目が得意で英語は好きだった。
覚えたら覚えた分だけ結果が出るのと、外国語扱っている俺すごくね感。今思うとダサい。
化学、生物、物理への興味関心が皆無だったため、文系コースを選択。
そつなく学生生活を過ごしていた。
部活動については、いろんな回り道をした。
中学生の時の同期が入部したから空手部に入部。
⇒空気感が全く合わずに数ヶ月で退部。
クラスの友人が入部してたからテニス部に入部。
⇒上記同様空気感が全く合わずに数ヶ月で退部。
こうなればもはや帰宅部か、と思っていた矢先、
最後に入部したのが陸上部。
【スリム体型に変えてもらった陸上競技】
ここで意外にも「走ること」にはまった。
私は中長距離選手だった。
陸上競技は基本、個人が頑張れば頑張った分だけ結果が出る競技である。
成果がどれだけ出るかは自己責任。
これが自分の性格にも合っていたんだと思う。
陸上をやったおかげでかなりのスリム体型になった。(絞りに絞って163cmで47kgまで絞り身体を軽くしたこともあった)
加えて1つ上の先輩たちの雰囲気が好きだった。
可愛がってもらえたことが大きかった。
正直強豪校だったわけでもないし、特別足が速かったわけでなない。ただそれでも、走れば走り込んだ分だけ成果が出るというシンプルな図式が自分の性格と相性がよかった。
しかし、学年が上がって仲良くしていた先輩が引退。自分たちが引っ張っていく立場になった頃から、暗雲が立ち込みはじめた。
入部当初から同期3人とはどうも馬が合わなかった。いつもよそよそしい感じで接していた。
そんな中で、先代部長からの指名により、
部長を務めることになった。
部長に任命されてからは1対3の構造がより深くなってしまった。(思い返せば自分の解釈の問題だったとも思う)
土曜日の昼飯なんかは部活動の仲間とは食べずいつも1人で食べていた。結構、虚しい時間というか、何も考えないようにしていた。
諸行無常。
いつかは終わる。
当時の後輩には僕ら世代の空気感によって特に迷惑をかけてしまったと思う。本当に申し訳ない。
部活動の人間関係が上手く行かないストレスと、高校2年生の秋に慢性的に膝関節が炎症してしまう状態となり、思うように走れなくなった。
部員とは別メニューを用意し、
いつも1人で筋トレをしていた。
その日の部活動の最初と最後の挨拶のみをし、それ以外は体育館2階のトレーニングスペースで他の部活動の様子を見ながら、何も発語することなく1人黙々とトレーニングを続けた。
精神的なストレスと走れないストレスが重なり、毎日の学校生活も楽しめずに、家庭内でいわゆる「キレる」ということが多くなった。
数ヶ月ほど経ったある時に、
溜まりに溜まったものが限界突破した。
父さんと母さんに打ち明けた。
嗚咽をもらして泣いた。
翌日中に顧問に退部の意向を伝えた。
人間関係で初めて挫折した。
そんな部活動のゴタゴタがある一方で、今後の人生を大きく左右する出会いがあった。人ではなく書籍だが。
人生で初めて、「日本の外」を強く意識した。
世間のことをまるで知らない少年は、
衝撃を受けた。
発展途上国にいるストリートチルドレンの存在を知り、世界の貧困問題や社会問題に取り組むために「国際公務員」になることを決めた。
第一志望を早稲田大学と決めた。
高校2年生の夏の頃だったと思う。
理由は分からないが「自分ならいける」と思った。
高校3年生の頃、幸運にも志望している早稲田大学の学部学科の指定校推薦枠が出ていた。担任教師との三者面談の際も自分の将来について話していたため、担任から指定校推薦の話をいただき、校内推薦、推薦入試とトントンと進んでいった。
両親はどちらも大学(父親は商業高校卒業、母親は中学校卒業後、夜間の専門学校へ)に行ってないため、本当に喜んでくれた。
高校生活はほろ苦い想い出のほうが多いが、人生の転換期となったチャンスを掴めたことは本当に良かったと思っている。
【⑤大学生:19歳~22歳】
【田舎生まれの芋少年が、イキり倒して歌う様】
青森県の田舎で生まれた少年が、上京。
浮かれに浮かれていた。
アカペラサークルに入った。
大学1年から大学2年の間はアカペラサークルにどっぷりハマっていた。グループも6個掛け持ちして、週6日活動していた時もあった。
それくらい夢中になった。
自分で言うのもなんだが、
人並み以上に歌唱力には自信がある。
大学の講義を受けて、アカペラをして、アルバイトをして、世間がイメージする通りの大学生生活を送っていた。ありがたいことに、先輩・同期・後輩など人間関係にも大変恵まれた。
一方、学業はどうだろうか。
自分では割とできると思っていた勉強で初めて「挫折」をした。
周りの同級生の頭の良さと比較してしまい、いつも劣等感を感じた。東京に出てきてから、天才・秀才と言われるような同世代が山ほどいるのかと圧倒された。
こんな自分では国際公務員なんて無理だと、
大学1年生の時点で早々と諦めてしまった。
くだらない思い込みである。そして結局のところは、その程度で諦めるくらいの気持ちでしかなかったと思う。要は「本気でやりたい」と思っていなかった。上辺だけで語っていただけ。
ただ、そんな中で「社会の役に立つ」という想いだけはずっと残っていた。
「やりたいこと=社会貢献」という短絡思考で出した方程式だけは変わらなかった(言葉自体の解像度が恐ろしく低いのは笑い話)。
そんなことを考えていた矢先、地元青森県に東北新幹線が延伸・開通するタイミングとなり、観光産業による地域活性化が重要施策の一つになることを知った。
青森県庁の職員となって
地域活性化に一役買おうと決めた。
決めたのが大学2年生の時だった。
受験に失敗した時に後悔しないよう、アカペラも、精一杯楽しむのは大学2年生までと決めた。
大学3年生からサークル活動は土曜日のみにし、代わりに公務員試験の専門学校に通学して、公務員試験対策に時間を割いた。選択と集中である。
要領の良い人はこんなに時間をかけずともやれてしまうと思うが、準備不足で失敗することがないように、これだけやってだめなら仕方がないと思えるくらいのレベルまでやりきりたかった。
地元の県庁と東京都23特別区のある自治体から内定をもらった。
結局、青森県庁は辞退して、特別区に入庁した。
合理的な判断というよりも面接の時に感じた違和感と、改めて自分の将来を見据えた結果、東京に残ったほうがいいと直感的に判断した。
大学卒業後、東京都特別区職員として
公務員生活をスタートした。
【⑥地方公務員(子育て支援):23歳~25歳】
【顔がひどい】
迎えた2011年4月1日、入庁式。
入社前研修のタイミングで、何故か、研修担当職員から声をかけられ、新人職員代表として区長の前で答辞を務めた。本当にこういう役回りがくるタイプだった。
目の前には区長。
セリフを少し噛んだのを覚えている。
肝心の配属先は子育て支援課。
シングルマザーの生活支援業務に3年間従事した。
常勤が私を含めて5名、非常勤が2名の合計7名。私以外は全員お姉様職員だった。男性の新人職員ということで生意気な面が多くあったと思うが、よく面倒を見てもらえた。
担当業務はシングルマザー世帯の経済的自立を目的とした、福祉資金の貸付と督促業務。貸付のほうはまだよかったが、督促業務のほうは正直嫌々やっていた。
とはいえ、担当は担当なので、督促業務の内容を工夫し、対人折衝のやり方を試行錯誤しながら進めた結果、2年目に対前年度比償還率で特別区内トップになった。
公務員3年目の冬。
課長面談の時に異動希望を話した。
新人職員は4年で2箇所を経験するのが原則ルールとなっている。つまりは4年目は別の部署に異動する決まりだ。
第一希望は経営支援課。
福祉とは全く違う畑で働いてみたかった。
こう伝えて面談を終了した。
肩を落とした。
年明けの1月下旬頃、
子育て支援部長から呼び出しを受けた。
何事かと思いつつ、部長室に入ると課長も同席していた。
鳥肌が立った。
即答した。
国の仕事のことはさっぱりわからないし、きつい2年間になるぞ(中にはつらすぎて途中で出向元に戻る人もいる)と若干の脅しを受けたが、なんの躊躇もなく「行きます」と言った。
またとないチャンスだと思ったし、
自分なら絶対やりきれると思った。
当日庁舎から帰り道、
1人そう思いながら帰った。
【⑦国家公務員(創業支援):26歳~27歳】
【業務中の様子、それっぽく映る】
中小企業支援がメインの組織で、全国1741市区町村の地域の創業支援の取り組みをどんどん広めていく部署に配属となった。
所属チームは6~7人(途中人数増減有り)。
プロパー職員(採用枠が国家公務員の方)1人以外は、私と同じく地方自治体や金融機関から出向してきた方々で編成されていた。
中小企業の経営支援に携わっていたり、商工関係の仕事をしていたりと、経済・産業に関連するキャリアを積まれてきた方々で、皆さん私よりも年上の先輩や上司に囲まれる中、自分は一番下っ端で経営の「け」の字も知らない状態だった。
初日に思ったのを今でも覚えている。
担当事業は、その年の1月に法律が施行されたばかりの新規事業だった。
法律施行や立ち上げフェーズを作ってくださった前任者の皆さんのおかげで、本当のゼロからスタートというわけではなかったが、これからどのように運用を安定させていくか、また一つ一つの課題をどうクリアしていくか、試行錯誤する日が続いた。
チームの中でも最年少だった私は、各関係機関の連絡窓口を主に担当した。その他にもあらゆる方面からかかってくる電話は基本全て対応していた。
経済産業省には地方局という関連機関が全部で10局ほどある。その地方局を通じて、局内の地方自治体へ事業を展開し、広めていく。
地方自治体からの疑問や質問は地方局に行くが、不明点についての最終的な判断を要する局面では本省、つまり私達のチームが請け負うことになる。その窓口が自分。あらゆる連絡・質問・意見の対応をしていた。
世の中にはもっと上には上がいると思う。それを承知の上でも、1年目の頃は特に激務で結構なプレッシャーの中で仕事をしていた。
担当事業の内容も細部まで把握する必要があるし、法律に書かれている言葉の定義やその意図・意味、その言葉が包摂する範囲など、解釈を一番知っていなければならない立場なので、覚えることも多かった。
通常業務に加えて電話対応。
電話は基本的に鳴りっぱなし。電話対応で1日が終わって就業後からメイン業務を始めるなんてこともざらにあったし、昼飯食べながら仕事することも当たり前にあった(強制されていたというよりも、やらないと終わらなかった)。
残業100時間以上働いた時期が普通にあった。
上司から、激励の言葉をいただくこともよくあった。
仕事以外でも、最初の飲み会の時も、一番若手のくせに作法がなってないと先輩から叱咤いただいたこともあった。若手で生意気なところもあったので、良い意味で面倒みていただいたと思う。生意気なところも含めて、よく匙を投げずにみんな私のことをしっかりサポートしてくれた。
仕事を進める中で「なにくそっ」と思った場面が幾度となくあったが、当時ご指導ご鞭撻いただいた上司や先輩方には感謝の念しかない。
何よりも、本気で世の中をよくしようと思って働いてる姿勢が、ひしひしと伝わってきたから、「この人達と一緒に最後まで任期を全うして、世の中を少しでも良くしたい」と思った。
よくこういった言葉をかけられた。表面的な目標とか、数値でしか捉えていない場面などで、自分の心を見透かされているかのように、声をかけられた。
胸に刺さった。
業務のツメが甘く、先輩に尻拭いをしてもらった時も沢山あった。
ある企業に取材に行った時に自分の準備不足により、取材先の方からきつく叱咤いただいた時もあった。
自分より後に入ってきた職員の人材育成が上手くいかなくて、大変な迷惑をかけた時もあった(本当に申し訳ない)。
あまりにも仕事が上手くいかず、
悔しすぎて泣きながら先輩と飲んだ時もあった。
正直、上手くいったことよりも、
上手くいかなかったことのほうが断然多かった。
それでも2年間を乗り切りった。
最後は意地もあったと思う。
チーム目標となるが最終的に、
入庁当初の目標数の約5倍以上の結果を出した。
地域で創業したいという人を支援するネットワークを全国各地に構築する、その後押しに微力ながら貢献できたことは、今でも誇りに思っている。
それまでの人生で最も濃い2年間を過ごした。
この2年間こそが、私の仕事の価値観の土台を形成した。
【⑧地方公務員(経済支援):28歳~30歳】
【町工場をよくかけ回っていた】
経済産業省の出向から戻り、地方公務員として自分の勤務する地域の創業支援担当をする予定だった。やる気満々でいた。
ところが組織内部の人事事情があり、
押し出し方式で隣の経営支援係への配属となった。
そう思って業務に従事した。
区内の中小企業のための各種補助金業務、職人支援、セミナー企画・運営・産業イベント企画・運営など割と幅広く携わった。
製造業の多いエリアで、事業の関係で現場にもよく行った。経営者の話もよく聞いた。経営者といっても親族内企業や10数名規模の会社さんも多かったので、職人気質な方が比較的多かった。
癖のある方も多かったが、前向きに経営されている社長の話を聞くのはとても有意義な時間でもあり、現場が好きだった。
担当したセミナー事業ではご協力いただく関係機関、講師陣の皆さんのおかげで担当2年目にして、過去10数年続く中で、最も参加者満足度の高い年にすることができた。
出向から戻ってきたタイミングで、
当時お付き合いしていた奥さんと結婚した。
出向時代の精神面を大いに支えてくれた、1歳年上の肝の座っている女性である。プライベートはとても順調だった。
正直、経済産業省への出向から戻ってきてずっとモヤモヤしていた。このまま数十年をこのまま過ごして良いのか、どう生きたいかを考えるようになった。
モヤモヤしている中で、もっと大きな自治体、政令指定都市で仕事がしてみたいと思い、公務員から公務員への転職を決断した。
仕事をしながら、終業後の夜に毎日勉強して、公務員試験を再度受け直した。筆記試験と2次面接まではトントン拍子で進んだが、最終面接であえなく採用見送りとなった。
試験が不合格に終わり、本格的にこの先をどうしようかと思い、人生で初めてコーチング(認知科学ではない)を受けて、民間企業に行くことを決めた。
この転職を決めた当時、妻は妊娠していた。
ベンチャー企業を中心に転職活動を進めた。業務終了後に、数十社ほど企業訪問をしていた。そんな中、急に大学の先輩から声がかった。
私の転職活動の話を風の噂で聞いたようだった。
大学卒業してから数年ぶりに会って話をした。
その当時の状況や心境、先輩のやっていることなど話した。
その先輩は、創業して間もない会社の幹部役員だった。その先輩以外でも知っている面々が社内にいることを知った。
数回面会を重ねて、
その会社にジョインすることにした。
知っている人達も複数人いるし、
提示されたポジションや給与条件もいい。
自分自身が成長できて、公務員とは違う視点で広く社会に貢献できる、と思った。業界としてもこれから流れに乗るIT業界、ここで知見を詰めることは今後のプラスになるだろう、と考えた。
心気一転新たな気持ちで臨んだ。
息子が1歳になるタイミングで公務員を辞めた。
【⑨会社員(迷走期):31歳~32歳】
【仕事中】
入社前に提示されたポジションの話は数週間後になくなった。
加えて、仕事の進め方に関してのズレがあり、僕を誘ってくれた先輩との関係が悪化し、その先輩とは会社の中でのやりとりも4月中にぱったりとなくなった(自分自身の考え方の甘さ、圧倒的な力不足など、色んな面で足りない部分があったんだと思う)。
その後も明確なポジションにつくことなく2ヶ月ほどがすぎ、自分自身でも何をやっているのかよく分からない状況になった。
3ヶ月目からはテスター作業と部門の立ち上げをメインに、システムデバック業務に従事した。
1日1日と過ごす中で、自分は何のために転職したのか、何の役にも立ってないじゃないか、この先の人生が全く見えてこないと考え込んでしまい、どんどんふさぎ込んだ。
仕事から家に帰っても、
奥さんと話をする気力もおきなくなった。
息子と一緒にいる時間も楽しめなかった。
顔から笑顔が消えて、常に自分の心がどこかに浮遊しているような状況で毎日を過ごした。
余裕がないにも関わらず業務知識に乏しいのこともあり、休日や空き時間は勉強時間に当てていた。完全に余裕がなくなった。ストレスが急激に溜まっていった。
貯まりに貯まったストレスは爆発寸前だった。
というか爆発していた。
入社4ヶ月目、第一週月曜日の朝。
泣きながら出勤した。
情けない話だ。
父親としても夫としても。
その日に社長に伝えた。
社長は色々配慮してくれた。5ヶ月目の終わりまで雇用関係は継続するから、その間、転職活動に注力してくれて構わない。仕事も基本的に在宅で時短勤務でいいから。と言ってくれた。感謝しかない。
退職までの期間以内に転職活動を終わらせると決めて行動し、計画通りに進めて、最終的には官公庁領域をメインのクライアント様にしているシステム会社から内定をもらった。
無職期間を作りたくなかったので、何が何でも転職すると決めた。
次の転職先は公務員だった時の知見を活かすことができること、また通勤距離など家族とのバランスを考えた上で、決めた。
2社目の入社後に配属されたグループで担当した仕事は、求人内容で確認していた職務とは大分異なった。
営業職として入社したが、入社後10ヶ月程はハード製品の技術者・保守要員としての業務が大半を占めており、営業としての知見が深まるという機会は正直あまりなかった。
前職での失敗もあり、今後同じ過ちは2度と犯すまいと、どんな業務がきたとしてもしっかり向き合う覚悟で臨んだ。
今はこれが自分の担当業務なのだから、
与えられた職務を全うしなければいけない。
IT企業だったが創業後40年ほどの歴史のある企業で、若手社員よりも中堅以上の社員が多い職場だった。
私はチームリーダー級の30代半ばの先輩の下、仕事をした。その方の営業成績は社内の中でも常にトップ、性格もまさに営業マンという人だった。
業界知識、IT知識、会社システム、担当業務のシステムの内容、商品の内容におけるキャッチアップ、社内の人間関係構築など必死だった。
自分自身に至らぬ点が多かっただけだと思うが、
精神的に辛くなること場面が多くあった。
一時期、一週間の出張続きと夜通し作業なども重なったことがあり、心身共に疲れ果ててしまって、数日間の休みをとったことがあった。
その後、気にかけてくれたマネージャーが個別に面談を重ねてくれて、営業マンとして今後どう仕事を進めていけばいいのか等、方向性について話をしてくれたおかげで、その先の道筋が見えてきた。そんな矢先、社内的な事情があり、最終的には自身の判断により、私は別グループに異動した。
営業部はグループ毎に雰囲気が全く異なる。営業スタイルもグループ毎で全く異なる。色々なものがまたイチからのキャッチアップだった。
異動してから、また考え込む時期が増えるようになった。詳細は書かないが、営業マンとしても、組織内での立ち振る舞いにしても、上手く行かないことが積み重なり、またふさぎ込むようになった。
当時の僕は、ずっと「仕事がまるでできない人間」と周りから見られているような感覚だった。この思いこみはパフォーマンスをどんどん下げた。
こんな考えがずっと頭の中を巡った。
思考の沼にはまって抜け出せなくった。
【⑩2021年1月~現在】
悩みがより一層深まった状態で年末年始に入った。長い休暇の中でもずっと悩み、仕事始めとなった今年の1月、変わらぬ日々に、再び心理的ストレスが最高潮に達した。
1つ、静かに決断をした。
忘れもしない2021年1月25日の夜、子供の寝かしつけが終わった後の奥さんに話をした。思っていることを吐露した。奥さんは、僕の話をじっと聞いてくれた。
どういうことにお金を使うか、使い道についても話をした。
コーチングに興味をもった。
公務員から転職するタイミングで受けたコーチング、頭の中にあったのを思い出した。
仕事と平行して勉強をしつつ、2021年2月~3月の間に改めて自己理解のためのコーチングプログラムを3回受けた。
自分自身を改めて内省すると同時に、その当時のコーチにコーチングを学びたい旨を話したところ、マインドセットスクールの紹介を受けた。
すぐに説明会の予約をし参加した。他にも複数コーチングスクールの個別相談会などをしていたが、「これだ」と思って説明会当日に入ることを決めた。
2021年4月から第4期生として入学した。
クライアントにコーチングを提供する前に、まずは自己適用。
コーチング理論を自分自身に適用し、自分は何者なのか、潜在的に持っている才能と生来あるwant to(欲求)、この先やりたいことは何か、最初の3ヶ月は特に、徹底的に自分に向き合った。
元々内省気質な性格で、自分のことは分かっているつもりだったが、まるで分かっていなかった。輪郭を捉えているだけで芯を捉えられていなかった。
そこでスクールの先輩プロコーチと契約してセッションをお願いした。コーチングを受ける中で自分は何たる存在かを掴むことができた。その上で自分の未来がどうありたいかゴール設定をすることで、自分が今後人生をかけて歩みたい領域が明確になった。
ゴール設定ができたことで、その当時の会社に勤めていることに認知不協和を感じ、その1ヶ月後の2021年6月末には会社を退職して7月1日から個人事業主として活動することにした。
ゴールに向かって進んでいく中で、見知らぬ人や会社、イベントなど、直感で良いと思った時には連絡をとり、実際に会ってみたり、飛び込んでみたりした。それまでの自分からは考えられないような行動をとり続けた。
また、良いと思ったものや学びには追加でどんどん自己投資をした。数ヶ月間、たくさんのトライアンドエラーを繰り返した。それによって自分のゴールの方向性もより明確になっていった。
その最中、現在勤めているクラウドファンディング企業の存在をたまたま知った。独立後、最初から転職を視野に入れていたわけでもなかったが、会社のミッション・ビジョン、そして仕事内容を見た時に思った。
自分のゴールの方向性とやりたいことが驚くほど整合した。
自分の持ち味も活かせる仕事だと思った。
エフィカシー(根拠はないがやれる気がする)が高い状態だった。
面接をする前から根拠のない自信があった。
すぐに連絡をとった。面接時には指定されてもいなかったが、プレゼン資料を用意し、自分は使える人材だから一緒に仕事をさせてくれと、自らを売り込んだ。
1年前の自分からは想像もできない行為だ。
その結果、冒頭にあるとおり、今はクラウドファンディング企業のキュレーターとして、クラウドファンディングに挑戦する人の伴走支援をしている。
プロコーチも、キュレーターも抽象度を上げて考えた時に、「挑戦者にとっての私(自分)であること」は、間違いないと確信している。
本気で挑戦している、挑戦しようとしている人、組織、団体が抱えるボトルネックを外すことに自分の生命時間を使いたい。それが自分にとって最適な仕事であるということが腑に落ちている。
自らもゴールに向かって思ったままに行動し、その時々で自分自身にどのような化学反応が起こるのかを検証しながら、やりたいことに素直に生きたい。
そう思う人達のために今後、自分の生命時間を使いたい。
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ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
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