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その常識は、誰の常識だろうか

「常識」というか、普段感じているバイアスというものについて、少し考えておきたくなったので、書いている。

世の中で言われている、常識、セオリー、当たり前、
それって、誰の常識?と思うことが多々あるようになった。

休日は、アクティブに出かけなければならない
人と関わらなければひとりは孤独で寂しい、世間の半端者

本当にそうかな?

そんなことはないと思う時、これはバイアスか?!と思うことにしている。
誰かは特定できないけど、”みんな”が言っていること。”みんな”がやっていることだから、それが正しくて常識だ、というバイアス。
そういう色眼鏡で見ていること。

紐解いていくと、、法律に触れない限りは、個人の自由。
人それぞれ、みんな違う。
多様性があり、どれが正しいかは、ひとによる。

それでも、自分と違う考えを持つ人を攻撃したり、押し付けてきたり、抑圧しようとする人がいる。。

いいじゃないか、ひとそれぞれで。
あなたに迷惑をかけたかな。

そんな感情を抱くと、人間関係が億劫になる。人との関わりの中の刺激や喜びを求めるよりも、自己防衛に走ってしまう。
先回りしては、これから起こるであろう展開に嫌気がさして、スッとひいてしまうような。

自分にとっては、引いた方がお得だから。きっと、幼い頃からそうやって生きてきたのだ。誰かの顔色を伺いながら、世間からずれていないかと周りばかり気にして。
そんな世の中や人生は、生きにくいに決まってるよね。いつも自分じゃない誰かに怯えて不安を抱えているのだもの。


バイアスは、商売やビジネスをする上でも、同じなんじゃないかと思っている。

このやり方で絶対売れる、こうすればいいよ

そんなやり方があったら、とっくの昔にみんな売れている。そう言われている界隈の常識的なやり方があったとしても、自分には当てはまらないことだってある。
売っているものも、商売の規模もマインドも全然違うのに、絶対なんてないのだと思う。

だとしたら、何を信じるか、どこへ向かうのか?

その答えは、自分の中にしかない。

誰かを頼りいわれた通り信じるのか、手探りでも試行錯誤の中やって行くのか。世間の常識が自分にも当てはまる、とは限らない。

そうじゃない時が多いからこそ、悩んで、凹んで、比べて、ネガティブになってしまうのだ。

みんなと同じがいい、普通でありたい。人間は協調性とか共感を求める本能もあるのだというから、そう願うのはごく自然なことであるとは思う。

けれども、
その常識は、必要か?

多様性の時代といわれる昨今、コロナ禍の世の中で、常識も変わっていってる。
そんな時代に、平均的な常識や普通を求めても、意味はないんじゃないかと。

誰かの常識は、私の非常識。

そう思ったら、他人と違うことへの恐れや、集団に馴染んでいたいとか、思わなくてもいいんじゃないかと。
陸の孤島で、誰にも知られないような隠者のような生活をしている人がいたっていいんじゃないかと。

多様性を認めるって、自分と違うことを受け入れることだと思うけど、その根底にあるのは、誰かと違う自分を認めること、ではないかと思う。

私の常識は、誰かの非常識。

そうであっていいと認めること、受け入れること、腹落ちすること。

そう思えたなら、目の前に広がるのは自分の道だ。
誰かの敷いたレールの上ではない、自分が切り拓くまだ未開拓の道。

そっちの方が楽しそうだ!笑
私はそう思う人間みたいだ。

考え方も捉え方も、賛否両論。いろいろある。
それを全部網羅した正しい答えを出すなんて不可能。
そもそも何が正しいのかだって、人によるし状況や環境によるもの。

どうしたらいいか迷った時、他の人はどうかと気になった時、バイアスという言葉を思い出そうと思う。

それは単なる思い込みかもしれない。
これまで植え付けれてきた、私ではない誰かの常識かもしれない。
私はわたしであって、他の誰でもないから、誰かになる必要にはない。

常識を疑い、バイアスを考える

きっとその先に見えてくるものもあるだろう。
そう思えたなら、歩んで行く価値はきっとある。



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