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2-07-11【意識高い系とダニング・クルーガー効果】

「これから営業行くからコミュ力を高めろ」申す上司と、「理解した!コミュ力100倍!ぬぉぉおお〜!!」とやる部下の2人に、コミュ力は無い。
本質を投げ合い理解を加速させると状況が茶番化する現象がある・・・

2-07-10のつづき
本著の概要と目次

■意識的に理解すると理解を止める■

人の意識は2つのアルゴリズムが動的平衡している間で発生する。
『客体空間:短期記憶⇄《意識現象》⇄主体空間:長期記憶』
である。時間的概念は意識現象に宿る。両者は意識・無意識を介して編集し合いながら、常に主客一致したがる。しかも人間の記憶はデタラメだから、アクセスしただけで記憶は再構築され、勝手に情報補完され、『今の認識』も『過去の認識』も自明として今そこに在る記憶なので、両方書き換えられる。この時に一方が強くなると奇妙な癖がつく。
理解したつもりでも、教える側にまわると途端に分からなくなることってよくある。もし「理解したつもり」で主体が閉じればどうなるか?・・・意識は社会で共有されるが、『本質』のみで『文脈』の繋がらない理解を共有していくと、社会秩序も偏っていく。

厄介なのが主体の長期記憶によって補完される認知バイアス。特に厄介なのは「無能な人間が自己を高く評価し、有能な人間が自己を低く評価する」という『ダニング・クルーガー効果』。理解したつもりでバカになる。アメリカ人の数学習得能力は先進国で最低レベルなのに、自己肯定により自信だけは最高レベルだというが、その現象がコレだ。日本の場合は、外国の優れた面を学びに行った者が、背景の文脈も読まずに「我が国もやるべき」とかぶれだす、それがコレだ。

なぜ理解すると思考停止するのか?・・・答えを先に申せば、INとOUTのバランスを持続化するのが肝要で、この作業の有無である。何度も申すが「教うるは学ぶの半ばなり!」の姿勢、情報入力『客体→主体』したら、即座に情報出力『客体←主体』へ長期記憶をチャンクアップし、具体化しながらカオスな情報の塊を自分なりに『抽象化』する作業が重要となる。そしてその作業を怠り「既に抽象化された本質を摂取するだけ」になった者が、文脈が繋がらず思考停止するのである。
「理解したつもり」とは後者で主体が閉じた状態。幸福感もそうだが、自己肯定が主体内のみで成されても意味無い。いわゆる『エフィカシー』という自信や自尊心も大事だが、『客体⇄主体』の編集をし続ける方が大事である。

これも姿勢の問題。他者に肯定されても主体を閉ざさず、「もっと具体的に!もっと考えよう!」となるか?どうか?が分岐となる。『守破離』の『守』で閉じるか?任意の空間があなたの主体を承認した後、思考を閉ざして本質を正当化するのが上手くない。理解してから思考が始まるか?閉じるか?そう考えれば批判されるのも大事だ。
とある空間の常識を異質な空間に移転すると非常識に化けるが、その辺で問題は表面化する。例えば美容師が覚えるコミュ力と、商社マンのコミュ力はある意味真逆。相手に合わせる為に自己を捨てる作業の重みが違う。美容師に認められた美容師が、コミュ力を理解したつもりになって、商社に「コミュ力は相手に合わせることだ」と本質を単純に投げると喧嘩になる。
誰よりもコミュ力無いじゃん・・・『客体:行為』と『主体:思想』が分断してる。意識的な理解力が『客体律:客観』を崩して『美意識の相殺』を起こした状態である。

■意識高い系の陥る罠■

「理解したつもり」で主観的に意気揚々となる心理状態は、
『情報出力←客体←《抽象化》←主体』の作業へ至らず、
『情報入力→客体→《理解》→主体』で
長期記憶に落とし込んだ意識が、そのまま『自己肯定』されて閉じた状態と言える。簡単に起こる。「いっぱい肯定した(された)から理解した」は「いっぱい具体的に噛み砕いたから理解した」と違うのに、同じに錯覚できる。

本質のみの理解は厄介だ。それで主体が理解を主張にして、客体をスルーして社会へ共有させようとしだす。特に『客体律:倫理行為』をすっ飛ばし『因果律:世界⇄主体律:精神』を直結したネット空間で起こる。
「手前の客体が手前の主体をあるがままに客観して自己承認する」
ではなく
「世間が主体を承認する」
という関係性で認識される。

この短絡的な主体性が、キチンと抽象化を模索する者に勝ち、社会秩序が崩れるわけである。点と点を線で繋ぐ作業より、視点提示の同意数が勝ち、そちらを「理解した」と錯覚する。無能な人間が声の大きさで有能な者に勝つ。同意は承認と違うのに、同じと錯覚されていく。極論すれば、カリスマ美容師が商社を乗っ取り自分を安く売って人気取りに走る感じか?早急に「君は傾聴力が優れてただけだ」と批判しないと会社が潰れる。

前に論じた通り、抽象化が向かう先は常に客体の側であり、『客体→《抽象化》→主体』のベクトルはあり得ず、「ただの抽象化された記号の摂取」つまり暗記や理解の類で、「抽象化する」という作業はしていない。意識にとって『具体化=抽象化』だから、理解したことを主体空間内で更に具体化しないと抽象化へ向かわないのだ。
ちなみにデカルトはその具体化を『懐疑』と呼んだ。「我思う故に我あり」つまり認識してる私以外を疑うことを具体化の作業とした。ルネサンスの『人間主義』は「人間に認識できないことはどうなん?」と批判が入るが、「理解したつもりで自己肯定する」はそれ以上に厄介なのである。この現象は進歩どころか、近代より時代を逆行する。

壁にボールを投げたとする。「ボールが返って来た」と捉えるか?「ボールと音が反響して来た」と捉えるか?ボールは言語記号で、音は文脈、投げる側が客体空間で、壁の側が主体空間とする。非言語的な文脈は反響して客体へ返って来てるか?その返って来た認識を、人間は社会へ投げるのである。
『外向←客観→内向』の認識解像度は同じになる。自己の主体文脈を観る解像度で、人は文脈を外へ表現する。記号的認識で閉じた者は、記号を単純に外へ投げる。「愛が大事だ」と「愛する為にどう具体的にするか?」は投げ方が違う。『客体律:倫理行為』の有無だ。
私は読書をする時、本を開いた時間より、圧倒的に閉じてる時間の方が長いが、抽象化するか?しないか?はその後の応用範囲が明らかに違う。まぁ私は頭の回転が遅いからそうなのだが、自分の主体でよく噛み砕いてみないと、知識はただ主張を投げるだけに反作用する。

■意識の共有には客観が必要■

つまり抽象化していない故に、その理解はそのまま現実の側を変えるベクトルへ偏っていく。『客体スルー』という状態。よく『意識高い系』と呼ばれる者も嵌りやすい。自己の理解力をそのまま表に出す。『本質論』になる。本質という視点、ボールを投げる。
「文脈の理解」が無いのに「本質の理解」だけで主体的になれるのは、それで主体が閉じているから。それはアプリオリな純粋理性が、現実の側を書き換えようとする姿勢でもある。『理想主義』もこの類。手前の脳内で理解した「私のセカイ」が「現実のリアル世界」より優位に立つ現象。プラトン哲学的『イデア(理想形)』で現実を否定する。
『外向←客観→内向』のスイッチが機能しない。理解した意識がそのまま表にアウトプットされる状態は、意識は1/100万bitしか情報処理できない故に、多くの情報を膨大に捨てている状態と同じになる。主張している時の人間は、その背景の文脈を観ることが不可能なのだ。理解や本質、主張や意識は最も大事じゃない。何度も申すように『意識現象』は扱う情報量を勝手に絞るからである。

いくらその理解が正しくとも『現実⇄理想』を繋ぎ整合せしめる客体の模索が不能になれば、正しいことを間違ったやり方で展開して致し方ない。本著の命題「人は望まぬ未来を願って突っ走る」である。主体性も大事だが、抽象化を経ぬ主客のバランス崩壊は上手くない。
毎度お馴染み、これが『PDCAサイクル』における『P:プラン=A:体系化』になる。結論ありきで「こうすりゃいい」と本質的主張を投げ、形而上で本質を合理化し、答えを共有したがるだけのプロセスになる。
イデア的な計画の本質的合理化、オーバープランニングに過剰分析、道徳主義、ロジカル思考、コンプライアンス主義・・・「設計図通りにやれ」だ。それらは社会で共有し難い。「思いついたら、やってみて、現実を客観して軌道修正していくうちに、体系化されていく」という行為主義プロセスとは違う。『リアル世界⇄脳内セカイ』が寄り添わないのである。何度も申すが姿勢の側が軸なのだ。

■本質をそのまま摂取しても意味が無い■

我々は『客体律:客観⇄主体律:主観』を寄り添わす理解を動的平衡させ、サステナブルに自分を変え続けなきゃ、現実と寄り添えなくなる。
『自己承認』と『自己正当化』は違う。手前の客体が、あるがままの手前の主体を客観的に肯定するのが『自己承認』であり、矛盾を内包して全体最適するのが『美意識』であり、客体スルーして社会が手前の主体を肯定するのは『自己正当化』へ偏る。
主体マップが分断してれば分断をそのまま表現しだす。この状態で『ロジカル思考』をすれば、むしろ害悪にすらなる。システム工学的に批判すれば「異質な秩序を並べ全体性を整合せしめる『システム思考』が先ずあるから、ロジカル思考も活きるのだ」って感じだろうか?本質を先に合理化すると現実の純粋否定が始まるので、矛盾の内包が必要な場面で美意識の相殺が発生するのだ。例えば人事はロジカル本質主義なお仕事なので、よくこの逆転に陥る。成果主義を合理化して非言語的な行為が殺されるアレとかだ。

水が高きから低きへ流れるように、人の意識も高いほど低きへ流れたがる。第三者がその意識を受容する低きを与えりゃそちらへ行く。不安定な心を安定させる為に、世界の側を変えようと反作用する。他人の『理解力』を使い他人を操縦する情報戦術もある。外部入力された欠損情報を概念として補完する際、事前に自分でつくった型で補完するのが『自由』である。その真逆が『洗脳』になる。
複雑な記憶を抽象化したがり、抽象化し過ぎて作用を止める。答えを摂取し模索を止める。そいつを承認してやりゃいいのだ。「地球はまるい」・・・人間はコレがある程度ないと社会性が欠損するが、それが『常識』だが、逆に社会性があり過ぎると社会性を失っていくものにもなる。理解力を介して「私の常識が正しい」と認識共有を主体的に出す時である。社会分析の観測装置で社会を叩く者もある。社会の側は、ただ本質を投げられても困るのだ。
ココも順番のお話。おさらい的に申せば、
①P『情報入力→客体律:短期記憶→《具体的理解》→主体律:長期記憶』
②D『情報出力←客体律:短期記憶←《自己抽象化》←主体律:長期記憶』
③C『情報出力←《位置づけ編集》←客体律:型や技術←《自己抽象化》』
④A『自ら体系化した表現の全体像』を『←客観』する
これが即ち『客観→《自己承認》→主体』と同じになる。自分でお掃除した部屋を客観すると自己承認されるだろう?
『外向←客観→内向』の解像度は、向きを変えただけで同じなのだ。
この作業を経て、解像度の高い自己認識がせしめられるわけ。主体内の矛盾も美意識で内包されていく。ココも既に論じた『縁起プロセス』と酷似する。『主客縁起』は『自己承認』と同じなのだ。

リンク→2-07-2【仏教の根幹『縁起』とは何か?を『PDCAサイクル』で説明し統合する】

縁起図2

■縁起プロセス=主客合一=自己承認■

主語を肥大化させて自己を消す。承認欲求を満たす空間のみに留まる。「シンプルな答えを外から摂取するだけ」になると「私を承認しろ」「あるがままの私の本質を受け容れろ」となる。又はそれを主張する者の下に居場所を見出す。
『社会律←《本質を投げる》←主体律』だけになる。何の編集もしてない本質を社会は共有し難い。「お前ら上手く編集しろ」と投げてるだけだからだ。これで利権構造を構築するスキームもある。

何が違うか?・・・いくらでも挙がる。先ず具体的に認識したか?主体の記憶を抽象化したか?『背景の文脈』を観たか?。『外向←客観→内向』の姿勢が小まめにスイッチされてるか?本質を位置づけ編集してるか?型や技術を使ってるか?型を社会に位置づけしようとしてるか?・・・
「私はすぐ散らかすけど、上手にお掃除できるからいいんだもん」が『自己承認』である。
「私は散らかすけど、社会はそういう人に寛容である必要がある」が『承認要求』である。
社会が寛容になるのは前者を経た者だ。その努力を助け合うから社会秩序なのだ。ガイドラインや行動規範などを決めて『客体』が機能するから人間関係は構築される
『理解→主体』をそのまま意識的に『主張←主体』に出せば、理解した本質をそのまま投げりゃ、そりゃ「意識が勝手に膨大な情報量を棄て続けている」と同じになる。「私を認めろ」は『PDCAサイクル』における『P:プラン=A:体系化』で「お前ら上手くやれ」とひたすら投げ続けるのと同じになる。矛盾を内包するのは自分自身でしか出来ないのである。

故に自らを『A:体系化』もせずに、それを客観もせずに、市場で『PDCサイクル』を繰り返すだけの、最近流行りのアレもこちらに偏るのだ。『バージョンアップ』と錯覚して自己の優れた本質も手前で殺しだす『改悪』という皮肉が起こる。「本質を投げる=全体最適しない」である。これまで論じた諸々、すべて通じている。人は否応なしに見たいものを見るのであり、そいつが純粋理性を構築しだす。
鏡に写った自分を観る時、部分ではなくトータルな体型を観て自己を認識するだろう?美意識を磨こうとするだろう?上手い型を欲っし求めるだろう?その作業をするか?しないか?である。

■無能な人間が有能な人間に勝つのはなぜ?■

『理解』は時に抽象化された『本質』の摂取のみになる。早合点である。点を摂取して線を刻まない。抽象化という行為を自分でしていないのに、したと錯覚できてしまう。『→理解→主体』が『←抽象化←主体』を錯覚しだすと自己の主体空間を客観できなくなる。客体が機能停止する。一夜漬けしたテスト前の、奇妙な自信に似たアレの持続化状態である。
例えば「人間はアミノ酸でできている」と既に抽象化された概念を理解して、そのまま主体的になると「アミノ酸が大事だ」しか言わない人になる。たしかに常識だけど共有し難い認識だ。当たり前だけど何かが違う。認識の位置づけ作業が為されていない。
自分自身で抽象化していないから「理解したつもり」になって、本質を投げることしかできないのだ。それで主体が「よし」となる。それが社会正義と評価する本質の摂取なら尚のことだ。つまりコレが「無能な者ほど自己を高く評価する」『ダニング・クルーガー効果』になる。

人間の『理解力』こそが起こすエラーである。「主体の長期記憶が勝手に外部入力した情報を補完する」という心理効果は、私が知るだけで『プライミング効果』『アモーダル補完』『クレショフ効果』『ツァイガルニク効果』・・・と、まぁわんさとある。ちなみにメンタリストはこの反作用を自在に扱う。実に難儀な人間の性質である。
自然なプロセスは「実存に行為を与え、その型の量が質となって本質を宿す」である。
これが逆になると「本質の摂取で意識を占有され、意識は文脈を勝手に捨てるので、本質の有無で状況を判断しだす」になる。
本質の位置づけ、量、順序の概念が認識し難くて「その性質の量は全体の○○%程度だから大丈夫?ダメ?」等々のバランスが理解できなくなる。この解像度が自己認識に向くと「私は不幸だけど幸せもある」とか「これが私のやりたいことだから、この程度の本質は捨てられる。他者に任せられる」とかの判断が出来なくなる。
即ち本質に意識を奪われると自分自身の才能も殺す破目に遭う。本当にその辺に気づいてほしい!例えば「君のコミュ力は錯覚だ」と批判され、「私にコミュ力は無かったけど、傾聴力はあるんだな?」と気づけたら、その者は批判されたことで新たな人生が見えたのと同じなのだ。「私は人格を批判された」となると下手な人生になるのだ。極めて重要なことだ。

■点と点が線で繋がらない■

ではその社会的問題は何なのか?文脈を表現できないのに主張はしたい・・・こうなるとその者は『本質主義』に偏る。当たり前のことを連呼するだけ、正しいことをを連呼するだけで、点を表に出すだけで、線を繋ぐ作業が出来ない。意識が本質論に占拠され、文脈の客観を捨てている。
意識にとって『具体化=抽象化』だから、抽象化の作業を投げた故に具体化も出来ない。その時、社会的に本質を主張するだけの者は、「お前ら上手く文脈を繋げろ」と勝手なことを命じているのと同じになる。こいつが組織論的な上下関係にセットされるのだ。現実と主張を寄り添わす模索が出来ない者こそが出世するのである。「何か言っているようで、何も言っていない」という現象がある。

例えば計画会議で「ここは目標を明確にする必要があります」と連呼する者。何も計画してない。戦略会議で「ココは戦略的に展開しましょう」と連呼する者。一切戦略を組んでいない。「意識改革が必要だ」と連呼する者、「経営的判断を要する」と連呼する者、「自由が大切です」「危機感を持つべき」「透明性を確保して」「自ら動くべき」「○○力を高めろ」・・・何か言ってるようで、何も言っていない。どう展開すべきか?と考える場面で「思考力が大事だ」と演説を始める。
意味深な言い回しだけで内容が皆無な会議。既に抽象化された本質をそのまま摂取して投げるだけで、眠たい空気の渦中を、茶を注ぐ音が轟く。先に論じたように、意識が主体を支配すると膨大な背景の文脈情報が棄てられ、こいつを無理に共有することで、人々の主客不一致が続き、意識が可処分情報の行き場を探して「時間を長く感じる現象」を起こすわけである。

『集団思考停止』である。こいつがいわゆる『リスキーシフト』『公正世界信念』『同調圧力』『事大主義』『正常性バイアス』『平等原理主義』『性善説』『エコーチェンバー現象』『リンゲルマン効果』『メラビアンの法則』・・・と、組織論的な問題と化す。すべて『意識現象』が起こす皮肉が起点である。

本質を全員に平等に課して誰も全体最適しなくなる集団心理。組織に人が多いと「誰かがやる」と思い込み「後は上手くやれ」と仕事を投げる者が増える。仕組みづくりやマネジメントしない管理職や『大企業病』もコレ。「何の為に?何をしたいか?」を忘れ、ロジカル思考し、分析の道具で演繹的に本質を合理化し『P:プラン=A:体系化』する。そしてアプリオリな観念を投げ合うだけの茶番と化す。利権だけが拡張する。現実の純粋否定だ。この現象は社会構造クラスでも存在する。

『本質』に注目すると人は思考停止する。だから有能なファシリテーターはその時『問題の定義』を変える。宝くじに当選しなかった原因(本質)を追求する会議より、当たる確率を高める会議をした方が有意義な筈だ。「○○力(本質)を高めろ」と言うより「能力が活きる環境を仕組む」だ。文脈を繋いでナンボ。我々は『客体』を使い、身につけた『型』で線を結んで、『行為主義』で意識を共有するのである。社会性とは、線を繋ぐ作業の共有なのだ。
本質の連呼は、言い方替えれば『多様な本質を混ぜるだけ=主体の長期記憶を散らかすだけ』になって、思考停止したまま表現が為されてるとも言える。「外から本質拾ってきたから、お後は前ら上手く編集しろ」と投げ続けてるのと同じ
この現象は【情報戦でエリートがバカに走る時】の章と、次の章【リゾーム型組織論】の章でも批判するが、これが持続化するなら、何も言わない方がマシなのだ。

■意識作用を利用した情報戦■

抽象化された本質を摂取して、そのまま表に出しているだけの状態を許すと、社会秩序は崩れる。大衆は時たま、模索する人間よりこちら側の人間を高く評価する。この空気づくりだけで『ダニング・クルーガー効果』的に他者の発言を引き出し、権力者が権限委譲もせずに「君が言い出したから君がやれ」にして責任の分散を成す情報戦スキームもある。無能な人間が有能な人間を使い捨てるスキームである。
次の章では更に詳しく論ずるが「ボトムアップに見せかけて責任回避するトップダウンの命令」である。失敗したら「私はそんな命令してない」と言えて、成功したら「私の言った通りだ」となる。本質主義者が本質を投げるだけで行為主義者を支配する。ズルい。誰か『会議を茶番化するメソッド』という本を出版してくれないか?

いくらでも批判できる。情報戦でも使われるメソッドだ。道にバナナ投げて「転べ」と罠を仕掛け、待ち構える者ほど逆に罠に嵌めやすい。「バナナを踏めば転ぶ」を本質と比喩し、そいつに意識を集中させ、やがて意識が崩れて向かう先にバナナを仕掛け、その道を選ばざるを得ない状況へ陥れることで転ばしめる戦略を組み、確率をより確かなものへと高める為に、道中に戦術的フラグを文脈に位置づけるのだ。
本質から思考を始めると論理を組むだけになる。『ロジカル思考』する者は『システム思考』する者にとって、菩薩の手中の孫悟空である。意識の高い者は兎に角情報戦に嵌めやすい。正しい本質を間違ったやり方で展開させるスキームを正当化して与えれば、理解力の高い者ほど、本質の丸投げを介して、勝手に破壊活動もしてくれる。
何度も申すが『意識現象』は1/100万bitしか情報処理できず「勝手に膨大な情報を捨て、勝手に長期記憶で情報補完する」ので、意識の出しっ放しの者を利用し、姿勢の崩させ、隙を創出して破壊工作するわけである。『本質の摂取→理解→肯定→思考停止』の性質を最大に利用する。
なぜこのお話にするのか?情報文明はこの「人間の姿勢を崩す情報戦」を、AIを使って仕掛けられる時代だからだ。人工知能の思考回路は『システム思考』である。そこで次に『文脈に視点を位置づける者vs本質的視点を混ぜる者』というお話が出来てくる・・・

・・・・つづく
次→2-07-12【[文脈を繋げる者]vs[本質を混ぜる者]は世界の観え方が違う】

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