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2-07-10【意識とは何か?の解説】

2-07-9のつづき
本著の概要と目次

■意識現象とは何か?■

『客体律:短期記憶⇄《意識現象》⇄主体律:長期記憶』
本著の提唱する四律モデルでシステム思考的に「意識とは何か?」を論ずると、この一行のシンプルな構図になる。異質な秩序空間が並び、情報を補完し合い、常に動的平衡しながら両者は一致したがっている。行為と心理、短期記憶と長期記憶、この両空間が整合したがり、時間的刹那に『意識現象』が発生する。
無意識も同じ。意識は『客体⇄主体』を一致させる為に意味論的な作業を為し、無意識は言語的な作業をせずに、非言語的な文脈をそのまま強引に繋いで主客一致を為す。無意識は意識に引っ張られてゆらぐ。だが支配的なのは圧倒的に無意識、非言語的な認識となる。

意識せずとも、聴覚は常に周囲の環境音すべてを拾っている。人間にはインターフェースが実装されている。その代表的なのが
『五感(視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚)』
だ。例えば身体の様々な機関から、脳内へ1秒間に1000万bitの情報が入力されたとする。しかし意識に上がる情報量は10bit程度なわけで、事前に思考パターンを習得してなきゃ、複雑な概念を適切にデフォルメして記号化もできない。意識なんて大した情報処理などできないし、人間は圧倒的に情報に対して受動的だ。『理性』も大したものじゃない。
長期記憶は抽象化してやらないと散らかしっ放しになって致し方ない。雲みたいにぼわ〜んとした情報の塊をビシッと記号化し、記号化した点の集まりを背景の文脈で繋げ、抽象化する必要がある。このプロセスが『美意識』を形成する。主体空間のお掃除を為す意識だ。

美は矛盾も内包する。己の主体空間を客観し、美が調和を成せば、矛盾をあるがままに受け容れて『自己承認』も成されてくる。だから前に論じた通り、先ず行為によって情報入力『客体→主体』し、編集する記憶へアクセスしたら、即座に情報出力『客体←主体』へチャンクアップする作業が重要となる。
即ち主体空間内のカオスなイメージマップを『抽象化』する客体側の姿勢が極めて重要になるのだ。主体内で『AvsB』で衝突する概念を縁起させることが抽象化で、抽象化が向かう先は常に客体の側である。客体が主体を客観するから『A=B』へ編集が出来る。これが心の安定をも可能にする。
この姿勢が軸であり、それが阻まれるなら入出力の側を絞る必要がある。「記憶する」と「思い出す」は同時に起るから、一方が偏るとどちらかが崩れるわけである。『客体>主体』か?『客体<主体』か?安定を目指して意識が「情報を捨てる」「情報を補完する」を勝手にやらかす。客体空間と主体空間の情報は常に不一致しているからだ。

トール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン』によれば、意識のコントロール権は概ね「1/100万bit程度」らしい。相当情報を捨てている。膨大な客体と主体の情報を接続する割には、非常に狭いルートと言える。そして意識は経験から0.5秒遅れて去来すると申す。これは「何を行為するか?」によっては「意識してから反応してちゃ遅い」という意味にもなる。
記憶容量は問題ではなく、人間の記憶は、既に在る概念へ情報を一本背負いして落とし込む『線』こそが記憶を形成しているのである。意識は調整しているにすぎない。その調整の有無が歳を重ねる毎、習慣化する毎に顕著になる。頭カラッポの方が知識詰め込めるなんてウソ。むしろ逆だ。事前に知識を詰め込んでから、カラッポにする行為が重要となる。たっぷり意識を使い、その後なるべく意識を使わずに済む状態を大切にした方が、情報を処理出来るのである。

つまり経験に基づく学習も、厳密にはその者が持つ記憶の再生か上書きである。日常の癖が意識を支配する。『決断』や『選択』も事前に決まっているのだ。そして選択すべき時に頭をクリアに出来ないと、その選択肢すら狭い意識は絞りだすのである。

これは「意識が時間的な認識を可能に、無意識が空間的な認識を可能にしている」という意味で、逆を言えば「意識を使わないと時間的認識は難儀なので、人間は空間的な認識しかしなくなる」ということになる。
『現象学』的に申せば、客体から主体へ具体的に認識して、抽象化する時に意識は機能するのであり、それは「意識は情報を捨てる」という反作用を起こすので、決断の瞬間にやるべきことではなく、事前の選択の準備として意識は使った方が良いとなる。
主体記憶がカオスなら、客体へ情報は上がらない。客体の入力情報がカオスなら、主体は勝手に情報を補完する。本能的感情に支配されるか?妄想癖になるか?主客不一致が続くと時間が長く感じる。意識が可処分情報の行き場を探しているのだ。両者がバランスし整合してりゃ主客は安定する。楽しいと時間が短く感じる。意識しなくて済むからだ。この感覚が記憶の抽象化を成す余裕を与える。原則として、主客は常に一致したがっている。だから人間は、自分の記憶処理レベルに似合った環境を選びたがる。

■記憶する=思い出す■

もっと言えば、意識現象にとって
「記憶する(客→主)Input」と「思い出す(客←主)Output」は同じだ。
「認識する」と「情報補完する」も同じだ。『現象学』と『心理学』も同じだ。破壊と創造も同じだ。動的平衡しているのだ。常にミクロに変化し続ける。意識現象にしてみりゃ客体と主体は同じなのだ。雷にとって地も空も同じだ。
雲龍のドラゴン、意識さんは異質な空間と空間のエネルギー差を一致させたいだけだ。意識自体に意識は無い。意識を意識と悟るのは、常に空間が繋がった後になってからであり、意識を意識しようとした時点で、その作業は成されていないのである。

脳のエネルギー消費は全身の2割だそうだ。ただ異質な空間同士を繋ぎ安定せしめたいだけ。自分は外向くか?内向くか?指向性を決め得るだけで、脳は常に主客の記憶を書き換え続ける。見る準備のできたものを見たがる。雑音は聴こえない。外の環境が優位に作用し、よく通過する道が道になり、通る経験の無い道が捨てられる。人間は本当のリアルを認識していないのである。
リアルに支配されつつも、必ず多くの情報を経験的に棄てて、我々は認識を可能にしている。我々はイザという時考えずに済むように、事前に考えるのである。下手に意識に捨てられちゃ困る認識もあるからだ。経験があるから合理化が可能なのだ。実存は本質に先立つ。客体が心を形成するのだ。保守が革新を可能とするのだ。順番のお話だ。

外の環境に対し人間が何かを為せるのは、唯一『←客体←主体』のルートで間に『抽象化』が意識された場合のみである。主体空間の情報量が外へ上がる時、事前に抽象化が出来てなきゃ、意識は主体の情報量を勝手に絞りだす。主体記憶はこの狭い意識ルートを通れない。言語記号や非言語情報のふるまい、論理や背景の文脈、それらを事前にデフォルメやパターン化してなきゃ、情報は意識を通過し得ないのである。

だから何かを新規で学ぶ際、誰かに教えようと工夫しながら学習すれば、意外と記憶に定着したりする。それが事前の準備というやつだ。アウトプットする為にインプットして、記憶は定着する。「教うるは学ぶの半ばなり!」とも言える。ホワイトキャンパスな他者の脳内に、常に難しいを分かり易く表現し続ける訓練である。「思い描いたイメージを正確に相手に伝える能力」即ち『コミュニケーション能力』も結局コレだ。
実にシンプルすぎて拍子抜けしちゃう。『意識現象』にとって「記憶するInput」と「思い出すOutput」は同じだから、「能力を高める」の類のことは、お掃除でも何でもよくて、その作業に集中する時間の側を持続化させればいいだけになる。『行為主義』である。その習慣が「学ぶ能力」と「教える能力」を結果として同時に高める。『集中力』がコレだ。この上に優れた型を欲し求めて『学習能力』と『表現力』になるだ。
松下村塾がコレだった。主体の抽象化を習慣化した共同体だった。これで「頭カラッポにして突っ走れ!」と、陽明学的行為主義になるわけである。必要な瞬間に決断が成されるのではなく、事前の抽象化習慣ですべてが決まる。他にも様々な才能の伸ばし方がこのシステム構造から語れ得る。すべて客体の姿勢から始まるのである。人間の脳はインプットとアウトプットが同じだからだ。

■1/100万bitをどう使うか?■

そしてゼロを基準にものを観る姿勢も重要となる。イザという時に頭をカラッポにするから、僅かな意識が最大に機能を発揮する。武士道は姿勢の哲学である。イザという瞬間、即座に適切な行為が成せるように、事前に学び、抽象化し、身体に型を叩き込み、頭をカラッポにして姿勢を正す。外を八方睨みし即座に抜刀!即座に納刀!決断は0.5秒。
その瞬間、例えば地震発生時に棚のボトルが一回転して見事地面へ着地するのに見とれて、「すげぇ!」と意識をそちらに使われちゃ困るわけだ。1/100万bitの意識処理をどう使うか?の為に、日常の習慣を正すわけである。意識をゼロ状態にする訓練もするのである。

『客体⇄主体』が一致した状態を持続化するから、客体が外を客観出来てくる。客体が主体を客観した状態は事前の準備段階である。
『外向←客体→内向』どっち向く?
の差異と言える。この姿勢のスイッチングが、発生した不具合を即座にインターセプトせしめる。『決断力』の類もコレだろう。
先に「外を客観する解像度と、内を客観する解像度は、同じになる」と姿勢のスイッチングを論じたが、そのお話がココに嵌る。その上で心が安定するから、人間は環境を適切に変え得てくる。逆に心が『具体⇄抽象』の作業を覚えず不安定な時に、自分の心に合わせて世界の側を変えたがるのだ。主体が現実の側を否定する。

優れた店は事前に記憶のデフォルメをマネジメントしてナレッジ共有し、接客品質の向上を図る。そして権限委譲し、安定した環境をサステナブル化する。こいつが適切な対応を個々の従業員にせしめる。リッツカールトンなどがそれだろう。
イザという時こそ『禅』的なゼロ状態で、自然な姿勢を維持しているから、次の瞬間に出せる技の選択肢も無限になるわけだ。『柔軟性』である。姿勢が崩れてりゃその選択肢が絞られて致し方ない。
長期記憶が散らかり、姿勢が崩れてりゃ、その技は出ないのである。
『過去⇄現在⇄未来』
の今に『外向←客観』で集中するから技が出るのであり、未来の理想や過去の固定観念が今の脳内の側を否定していても技は出ない。1/100万bitの意識じゃ処理不能だからだ。現実は時事刻々と変化する。その時主体が機能すると客体が崩れる。これが即ち『隙』である。

何かを主体的に成そうと意識すれば、意識は現実の側を否定しだし、その主体的な身体の動きが、正に選択肢の絞りとなって隙を生むわけである。一方、頭カラッポに外を八方睨みする者は、その隙を観測し、事前に抽象化した型の選択肢に寄り添わせ、0.5秒で隙をインターセプトするわけである。徹頭徹尾に姿勢が軸なわけで、だから日本は袴を着て最も姿勢が崩れる足を隠す文化ともなるわけだ。

■意識は共有し得る■

あらゆる攻撃戦法の設計思想は、敵の姿勢を先ず崩して、その隙を突く戦術になっている。本著前後半で解明する様々な情報戦スキームも、正にこの隙の創出の為に機能する具合となる。故に姿勢を正す試行錯誤を軸に、事前に準備をすることが防衛であり、抑止力にもなっていく。実に意識現象のお話は、すべての秩序に通じていくことになる。故に、法律が厳しいだけで秩序を守る意識を育てぬ社会をよく「マナーの良い社会」と申すが、それも実態は隙だらけと呼べる。

四律『因果律:世間⇄社会律:法律⇄客体律:倫理⇄主体律:道徳』
のうち、倫理行為を厚くしなきゃ、一見秩序のある社会でも簡単に秩序を崩せるのである。『社会律:法理⇄主体律:道徳』を直結した洗脳社会は、意識現象が認識の抽象化を訓練させない為に、個人は柔軟な対応を成せなくなる。多様で不確実な時代ほど、こういう社会はジレンマを抱える。
「意識しなくていい状態を目指す」のは『社会律:体制』の所管にすると「大衆はバカであった方が扱いやすい」になる。そうではなく、人々の『客体律:行為』を自ら秩序立てせしめることが常に軸なのである。『自由』と『責任』である。人それぞれの『主体律:長期記憶』は、人それぞれが自身で秩序立てないと意味が無いからだ。

江戸時代の古典には、身体の重心移動を哲学した型だけでもわんさとある。それは武士に限らず多様な職業で各々哲学されてある。『○○道』が並び、各共同体で倫理を形成する。『共同体の倫理』は極めて重要だ。それらを社会律が横に並べて、文化が倫理を共有する。四律を並べて、倫理行為の形成からすべてが整合していくのがサステナブルな社会だろう。
つまり主体記憶の抽象化は、時空を越えて共有されるものでもある。それは『文明』の根幹でもある。人類の文明そのものが、先ず抽象化した型の共有で成立しているのであり、人々が社会へ奉納した型が普遍化されることで、我々は文明を開拓しているのである。文明とは「誰かが抽象化した認識を共有すること」である。その最もポピュラーなのが『言語』である。

一見『記憶する=思い出す』の構造は進歩など不可能に想える。『個人』で閉じればそうなる。しかし人間は動的平衡する『客体⇄主体』の間で抽象化を挟み、そいつを因果律や社会律の渦中で共有している。抽象化した型は『共有』されるのである。我々は先人がデフォルメした優れた経験を記憶し、出力しながら確かめて生きている。私の意識は、先人の意識があってこそ、今この瞬間に去来しているのだ。
先に論じた『縁起プロセス』で申すところ『示し合う』と『共感』である。だから主客合一の向こうには四律『因果律⇄社会律⇄客体律⇄主体律』の秩序空間が動的平衡して並び、繋がっているのだ。必ずこちら側もあって『意識現象』は発生する。人間は『客体律⇄主体律』のみで外部情報の入出力を遮断すると発狂するんだそうだ。

こうして本著の命題、四律整合が崩れる状態が問題の定義になるのである。『因果律⇄社会律⇄』の整合作用は次の章で論ずるとして、概ね『因果律:文化』には「毒と薬を調和する型」が共有され、『社会律:ルール』には「毒を薬で制す型」が共有されるのが、人類文明の傾向と言えよう。

・・・・つづく
次→2-07-11【意識高い系とダニング・クルーガー効果】

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