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2-07-9【キャラチェンジの美学】

人間は、内に2つの異なる秩序空間を宿している。
『客体律⇄主体律』
「身体と精神」「短期記憶と長期記憶」「実存と本質」「行為と観念」「経験と理性」「ふるまいと感情」「倫理と道徳」・・・両者を並べ、整合せしめて「自分らしく生きる」が可能になる。時間的に申せば『動的平衡』である。そこには上手い?下手?がある・・・

2-07-8のつづき
本著の概要と目次

■行為が心を形成する■

「実存は本質に先立つ」と申したのはサルトル『実存主義』。「私は○○主義」という本質も『客体律:行為→主体律:主義』の過程で宿っていく。人は概ね「君は○○だ」と言われりゃそれを気にして行動し、カタチから自分のキャラをつくる。自己の主体を客観する視点が先ず置かれるから、人は主体的『客体←主体』に動く。『客体:行為』が『主体:心』を育てるという順番のお話。
ここでも狭義にPDCAサイクル
『P:情報入力→D:客体律:短期記憶→C:意識現象→A:主体律:長期記憶』
と小さな流れがある。これが「出力する為に学ぶ」になると意識が『抽象化』という編集を挟み
『出力←客体律:短期記憶←抽象化←主体律:長期記憶』
に転ずる。主体からの上昇気流を発するこの抽象化が、己の主体内のイメージマップを編集する唯一の手になる。「自己を引き出す」という意味で『P:思いついたら』→『D:やってみて』→『C:軌道修正していくうちに』→『A:上手くなっていく』の円環がまわり始める。
この場合「君は○○に似てる」と言われることがそれで、しかし可能な限り、自分自身でそのキャラづくりは成された方が好ましい。他者に言われると長期記憶の『抽象化』が機能しないことがある。なぜなら『抽象化=技術=型=習慣=経験』で、何かになろうとする行為は、先ずコレを身につけてナンボだからだ。そして他者に評価される自分は、客体をスルーして主体に落とし込むと「周囲が求める自分になろう」と主観的になり、観念的になり、受動的に自分らしさも否定しだして致し方なくなる。

周りに言われた自分になろうとして、自己の他の可能性が観えなくなる。この辺、上手い?下手?がある。受動が下手の分かれ目となる。故に能動的に、優れた型を欲っし学ぶ行為が先に置かれる必要がある。もしその逆、自己主体の客観をすっ飛ばし、周囲に合わせ、半端に学び、半端に出力に偏って転じると『P:プラン=A:体系化』や、ただの自己主張に陥る。「君は○○だ」と言われると、人はそいつを『主体律:本質』と覚えてしまうのだ。本質はただの点であり、線を結ぶ型を覚えてなきゃ「この本質を身につけよ」と命じることしか出来なくなる。客体が主体の奴隷になる。

すると自分づくりは二者択一になる。
①他人に言われた本質に「私はならねばならぬ」と覚えるか?
②「私はそうではない」と拒絶を覚えるか?
・・・その主観性が抽象化の作業を阻みだす。主体の中身を客観できなくて、コーチング的に申せば、自己の主体をチャンクアップ出来ない。『主観』しかない。出すか?出さぬか?の二者択一は、行為の模索を阻みだす。

あなたが周囲に否定された時、客体フィルターが機能していないと、そのまま否定の言葉は自己の主体へ落雷する。ちょいとした不手際を批判され、自分の人格が否定されたと思い込む。『客観』が機能してない証拠。客体が自己の主体を客観できてりゃ「私はこの部分を改善すればいいだけ」と理解できる筈だ。「君は語彙力が無い」と否定されりゃ、語彙力を学べばいいだけになる。しかも主体を抽象化して引き出す為に語彙を学びだす。ココで「私はバカなんだ」と本質的に理解するのはただの主観である。
主体の中身を客観出来ているか?「私を出すか?出さぬか?」ではなく、「どう出すか?」が大事な場面で何も出来なくなってやいないか?

■自分で自分の心を抽象化できるか?■

人は自己の観念を抽象化する行為が出来ないと、感情に呑まれる。感情を出すこと自体は、刹那なら構わぬが、特に理屈で武装した感情は、感情を悪戯に増幅し続ける。これは苦しい。主体の出しっ放しは苦痛を伴うのだ。
観念に自己が呑まれた状態である。漠然と主体を正当化して開き直り、世界の側を否定しだしたりもする。『自己肯定』と『自己正当化』は似て異なる。『客体<主体』だと主体の固定観念化だ。そして無編集な自己主体を承認してくれる空間を探して居場所を探す・・・を繰り返す。

特に出力を意識せずに情報入力を大きくし続けると受身になる。それは己の主体の否定へと陥る。承認される場を探すからこそ、場に自分を合わせようとして、自己嫌悪も繰り返されるのだ。逆に主張を一方的に強くしても、人間社会はそれを許容出来ないので、やはり受動的にベクトルは自分へ突き刺さって返る。「能動的に主体を捨てる」ではなく「受動的に主体へ蓋をする」という意味の自己否定へ陥る。
自分で自分を承認する技を覚えないと、主体は他者にも承認されないのである。そもそも自分で自分を褒められないと行き詰まる。情報革命でネットは『因果律:世界⇄主体律:精神』を強引に直結したが、世間と主体は直結していない。本著の提唱する四律
『因果律:世間⇄社会律:ルール⇄客体律:行為⇄主体律:観念』
と、リアルは色々と秩序領域が間にフィルタリングされて在る。主体は上手く出さないと共有不能になってジレンマへ陥る。先ずは自分の客体が自己の主体を自己評価する技を覚えないと、生き方そのものが下手になるのだ。

「自分らしく生きる」とか「自分の意志を持つ」ということは、任意の環境でふるまう自分の行動の中から自己を見出すということである。先に論じた『縁起』のお話と整合させると、『自分』を「分かつ」から、主客が「分かち合う」ことが可能になり、縁が異なる秩序を繋いでオリジナルな創造が成されるのである。『主客縁起』と名づけてもいいだろう。
『私』という『個』は『客体⇄主体』の秩序を並べ、整合せしめる試行錯誤を繰り返して『個性』を引き出すのである。『体⇄技⇄心』である。『←行為←抽象化←長期記憶』を蔑ろにするのが下手な生き方になる。自分で自己を引き出す技を覚えて「上手い生き方」になる。すべて『客体律:行為』を磨くことが核心部なのである。

■自己の主体を客観する■

これは「自分の主体が壊れる行為は避けろ」や「自分の主体をつくる行為を蔑ろにするな」という話にもなる。昨今は「不確実な時代だから体系化をしなくていい」「成功するまで行為を変え続けりゃいい」という思想が流行っているが、行為を体系化しないと自分を客観できない。自分で表現したものを客観せずして「私を認めてくれ」と言いつづけるのは狂気の入り口だ。如何に行為を体系化するか?が自分をつくる道である。

「あるがままでいい」というのも、己の客体が己の主体に申すことであり、それが『自己承認』であり、主体が社会へ要求するものではない。承認してくれる他者を選ぶことを目的化するのも自己承認ではない。似た者同士で群れると、それは自分の他の可能性、主体に蓋をする状態に偏り、あるがままではない。「あるがままの私を承認する為に、世界の側を変える必要がある」となるのは『客体律』を無視している。それは延々と自分で自分を承認できなくするジレンマと言える。

客体による主体の抽象化は『自己承認』にも関わるわけだ。自分で自己主体を承認しない無自覚な天才は、老害的に普通の人をバカにする。「これくらい出来て当たり前」と申す。自分をキャラ立てせずにそのまま出して成功できるのは、最初から主体のレベルが高い者だけだろう。主体性がそのまま表に出ても構わぬ者より、客体フィルターを有する者の方が賢い。
「私は天才だ」とちゃんと自覚できる者の方が、自分も他人も客観できるのである。それが共同体において『倫理行為』になるのだ。例えば「私は天才だから、そうじゃない人に寄り添おう」とか「私はこの分野での天才だから、他の分野の天才から学ぼう」ができる。手前の主体を客観できて倫理になる。

人間関係における「自分を捨てる」も「ポーカーフェイス」も、客体フィルターを鍛えてこそ成される。客体を鍛えないと、優れた型を身につけないと、己を制御するどころか、己の主体にも気づけないのだ。客体が主体を眺めることこそが『客観』だからだ。承認も評価、即ち差異の客観に依拠する。
難しいことじゃない筈だ。散らかった部屋を掃除して「私はすぐ散らかすけど、上手にお掃除出来るからいいんだもん!」と自己評価するとかでも構わないのだ。これが自己の客観である。『客体律:責任能力』でもある。
逆を申せば「散らかすのは良い事?悪い事?」の道徳論や、「片付け力が大事だ!」の本質論などはどうでもいい。それは『主体律:責任感』の先行で、むしろ行為の模索を阻む邪魔な観念だ。コンサルがよく啓蒙する本質論も、先ず行為のマネジメントをせしめていないと無駄だろう。

■矛盾の内包と美意識■

SNSで主張を発信し続けると自分の矛盾に気づき難いが、優れた型を身につけ、自分で体系化した情報を異質な空間に置けば、自分の矛盾に気づけるわけだ。矛盾がダメなわけじゃなく、あるがままの自己の矛盾に自覚的でいられることが『客観』で、『倫理』なのである。
毒でも同様。「私にはこんな毒がある」と客観する者が倫理を覚える。抽象化が上手い者は主体の毒を薬に変換して表に出す。例えば文学がそれだろう。「この散らかりぶりは、実は機能美が宿っているのだ」である。これが出来ぬ者が主体の毒に蓋して、結局毒が滲み出る行為を表に出す。
『←抽象化←長期記憶』が出来ないと、客体フィルターが機能しない。如何に出力する為に入力するのが大切か?・・・

そいつはやがて『美意識』になる。「私ならこうする」と抽象化しながら具体的に情報入力する者は、『客体律⇄主体律』をバランスさせていく。美は矛盾を内包する。行為しながら自分の本質を拾って客観的に編集し、なりたい自分になればいいのだ。
私も「君は学者っぽいな」と言われるが、それに半端に合わせて右往左往してきたが、私は本質的に学者タイプではない。研究など道具にすぎず、「チームづくりしたい」「多様な人々が調和する刹那を観たい」「組織論を構築したい」で学んでいるだけ。想えば子供の頃からそうだった。そして私は航空整備士を経験したが、そこで学んだシステム工学の設計思想も、組織論づくりにガッツリ活きている。両者は異なる円環だが、点と点が繋がって縁起していくのを実感している。

周囲がキャラ立てする自分と、自分で『客体→主体』を観て理解していくキャラは違うのである。『初心』を想えば観えてくる自己がある。初心に戻って主体性を再発見し、新たな円環を始めてもいい。周囲に言われて構築した自分を破壊し、新たに創造する道を始めても、身につけた技術や型、経験だけは残っているからだ。客体のキャラと主体のキャラは違うのである。
ココも「出力する為に学ぶ」で心が形成されるのである。行為が主体の抽象化を経ることで、自分が引き出されるのである。
さてこうなると、周囲に合わせた自己のキャラ変更が発生する。狭義に機能してきた主体を捨て、広義に自分のキャラが変わる瞬間が発生する。キャラチェンジの美学というのがある・・・

■自他を比較してヘコむ者とアゲる者■

職場にIQ億越えのルーキーが就職して来たとする。誰もがそうだが、『主観』で他者のキャラと自分を比較すると、その道で優れた天才と比較して自己嫌悪に陥る。本質に注目し「絶対勝てない」と想う。
しかしリスペクトし得る天才を能動的に選び、一旦主観を脇に置いて『客観』でその行為と自分の行為との差異を観ると、意外と大丈夫だったりする。他者と比較してヘコむ者、逆にアゲる者、両者の差異は自己の客観である。本質に注目するか?行為に注目するか?である。

他者との主体を比較せず、客体を比較し、出会ったすべての人からふるまいを学ぶのが上手い道だ。客体のみを寄り添わせ、主体の比較は「何をする人ぞ?」で距離を置いときゃいいのだ。
何度も申すように、個性とは『客体→主体』へ入力した情報を、即座に自分なりに抽象化して『客体←主体』へ出力する姿勢の有無で育つ。行為・技・型・経験・ふるまい・・・それらが先立つから、自己に本質が宿るのであり、本質を先ず見ても意味が無いだ。『実存主義』の「実存は本質に先立つ」である。

優れた行為を欲し求め、技を盗み真似し続ける。すると圧倒的天才を前にしても「おらワクワクすっぞ」となる。客体のふるまいの比較である。他者と自己を比較するならこちらが先。理解を保留にして習慣をつくる。とりあえずやってみる。自分に似合う習慣を探す。そもそも、この世のすべての才能に貫かれる共通点は「今のこの瞬間の行為に集中する」である。誰もが行為に集中して才能を磨く。才能を磨いて自己を承認する。

『過去⇄現在⇄未来』の今に『客体律:短期記憶』を置き、『主体律:長期記憶』の過去や未来の記憶の側を道具にする。『プラグマティズム(行為・道具主義)』である。こいつをサステナブルにして、結果として天才に化けてく。故に「天才の本質はコレだ」と天才を理想化して目指させる啓蒙も不要である。未来の理想が今の自分を使うと自己否定に偏る。すべての感情は使うべき道具である。感情を抽象化して表現する技を覚えて『倫理』にもなる。
分かるだろうか?外部認識する解像度を上げるから、自己認識する解像度も上がるのだ。この解像度が自己の感性を引き上げる。自己主張に偏ると「私を守り、世界を変える」に化け、刹那なら構わぬが、こいつが恒常化すると「お前が私に合わせろ」になりだす。見たいものを見に行くだけで、一時的な自己肯定感は得られるが、自己承認は逆に困難になるのだ。

去来する観念を次々とお手玉にして遊ぶ。もし不安が去来したら、不安を高く空に投げ、ジャンプサーブをぶちかます。優れた客体が覚えるのは『克己心』である。「己の心に克つ」と申す。『客体>主体』である。その観念の道具化は「意欲を高める動機づけ」即ち『モチベーション』でもある。観念を使って遊ぶのもアリ。不安を抽象化して別のカタチに表現する。これも技を身につけてナンボなのだ。
先に論じた『陽明学』は「バカになって突っ走れ」である。バカを未来に置いて目指すのではない。今すぐバカになり、ゼロ状態を覚え、常にホワイトキャンパスに描くことを軸に置く行為主義である。不安を解消する為に行為するのではない。不安を動機づけにするのである。人にはどうしようもない観念の囚われがある。こういう者は「ならばようこそ」と、走って去来する観念を迎えに行く。それがココで論ずるキャラチェンジの美学『初心』である。

■初心と守破離■

まるですべての経験は自分との対話と言える。主体の潜在意識は、PDCAなど成長段階を踏む毎に、一度客体に抽象化して引き出して、昇華させ続けてやらないと編集もできない。客体スルーが上手くないのだ。その入出力ルートに倫理や型が嵌る。勉強するという行為でも同様。様々な客体をセットしないと、本当のマインドに気づけない。

この辺は世阿弥の芸能哲学がドンピシャに嵌るだろう。世阿弥はその時々の自己の主体に似合った抽象化することを『1402風姿花伝』において『花』と申し、花を咲かす為に過去の体系を捨て、初心に還り、得た技を使い新しい花を再び咲かす姿勢を説く。
前章で主体律の秩序を論じたが、単位空間で時間的にまわる広義のPDCAサイクルは、マインドセットのチェンジを演じる必要がある。
経営に喩えるなら『創業→成長→発展→成熟』、
人生に喩えるなら『幼年期→青年期→中年期→老年期』である。
場面に応じて表に出る性格が違う。これが『花』である。何度も申すが『現在』に宿る刹那の行為主義の連続性で可能になる。四季折々の花が咲く円環が美なのだ。

世阿弥は客体における主体律の乗り換え術を説く。型に嵌り、型を破るということだ。茶道や剣道の『守破離』とも重なる。『守:本流→破:他流→離:我流』で型を習い、自らの意志で殻を破る姿勢である。今に集中して行為を模索することで、主体を『脱構築主義』的に文脈へ解体し、主体の文脈を『構造主義』的に再構築して、自分の個性を引き出すわけ。それは生と死、創造と破壊の哲学である。言い換えれば『セルフイノベーション(個人の創造的破壊)』だろう。ひとつの生命で何度でも生まれ変わる・・・

『初心』の教えは「多様な円環を並べる」でもある。原理主義と修正主義を常に並べるわけ。子供の頃の円環と、老年期の円環を並べる。古典と前衛の同居と申してもいい。保守と革新も同様。混ぜたり二者択一にしたりせず、文脈に解体して「並べる」にする重要性がココにある。初心とは、過去のスタート地点の自分と、成長した今の自分を並べて、同時に客観することである。
『客体律:短期記憶⇄主体律:長期記憶』の俯瞰である。0点だった過去の自分と、70点の今の自分を並べ、現在地点から過去を眺め、PDCAで体系化された自分を再びゼロに戻し、新たな自分を始めるということである。0点と70点を並べて何が観える?・・・両者を繋ぐ文脈、経験、そして身につけた型や技である。こいつが大事なのだ。

文化とは、古代壁画と現代アートを並べ、文脈の変遷を俯瞰した時に『文化』になるのだ。円環なのだ。一方を主観的に否定することで一方を肯定するのはナンセンスなのだ。過去の自分が居るから、今の自分が成立する。人生においても同様である。この感覚が『初心』。常に「そもそもゼロから始まった」と想えると、不条理な再スタートに遭っても出足が鈍らない。
これはすごろくみたいに何周もリセットプレイできるRPGゲームに似ている。何度でも新しく始まる。すごろくの優れた設計思想は「ふりだしに戻ると誰もがゼロ状態になる」と「どんなに進んでも初心が隣に観える」である。実際人は色々恵まれて生まれるが、「もしそれが無かったら」と想定するのも初心だろう。それは「無いものを欲するな!在るものを観よ!」でもある。

■キャラチェンジの美学■

『合理主義』「必要な食材を買って来る」
『構造主義』「冷蔵庫の食材から料理する」

この差異で『PDCAサイクル』の『P:プラン』は
『合理主義』「外を調査して練った確実性を求めた計画」
『構造主義』「内を調査して練った不確実な思いつき」

・・・になる。マインドセットでPDCAも変わる。合理主義は主観的な純粋理性で、描いた理想が己の主体に足りないものを欲っさせる。だが行為主義、経験主義、己の主体を引き出すのは後者である。何度も申すが「実存は本質に先立つ」である。実存とは「今そこにあるもの」である。こいつを構造主義的に引き出せて、合理化が後から『C:軌道修正ドリブン』で可能になっていく。順番のお話だ。

「私らしく生きよう」と思うなら、周囲を気にする前に、型を身に着け自己を引き出す模索を先ずしてナンボである。
『過去⇄現在⇄未来』において、未来の理想が今の自分を否定しだすのが下手なのだ。古い技術をぶっ飛ばしてパラダイムシフトしようとする姿勢がナンセンスなのである。主体に偏ると『客体⇄主体』は動的平衡しないのだ。古い経験は文脈に解体して、別の円環に乗せるだけでいいのだ。『P:プラン』の定義は「思い付き」でいいのだ。

そしてあらゆる型を眺めて、さっさとキャラチェンジをして再スタートを決める。すると同じルートを歩んでも、前とは違う歩み方をする。それが楽しい。なぜなら、前回の記憶と比較して、同じ風景が別の景色に観えてくるからだ。リセットしても、『主体律:長期記憶』だけは常にコンティニューだからだ。消しても消えぬ、捨てても残る、浮き掘られ、確かめられるその本質があるがままの自己である。

そして前回の経験が別のカタチに活かされてくる。前回あきらめたことが、今回できるようになっている。周囲に合わせてキャラづくりした自己が、あるがままの自己に生まれ変わる。点の塊を解体することで、点と点が長期記憶に刻まれた線で繋がっていく。前回の失敗が、今回の成功の糧になっていたりする。そして客体が主体を編集するのである。小さな円環を何周もまわすと、より高次の円環が次のドリブンへ移行するわけである。『自我の拡張』である。主体の曼荼羅の中には小さな曼荼羅がいくつもあるわけ。

型を身に着け、パターンを学習したからシフトするのだ。お料理することに集中したからだ。だから客体を乗り換えて、自分に合ったキャラを見つけるまで再スタートするのは楽しいのである。苦手な行為を克服する快感とも呼べる。これは商品に宿ることもあり、ガリガリ君みたいに常に初心と並べて展開したり、『バージョンアップ』としてやればiPhoneみたいになる。バージョンアップはその者の美意識を如実に出す。その文脈をリスペクトするのも客観である。
そしてそいつを客観できる自分が居て、キャラチェンジも容易になる。子供の頃の夢が、今叶え得るようになっていないか?ワイプを楽しむゲーマーは、円環のスタート地点にリセットされつつも、前の円環で身につけた技術を再確認して再び成長を楽しむ。『道教』的に申せば『TAO(道)』である。そして「今度はこのキャラで行こう」と新たな円環を刻み始める。

■キャラチェンジと文化■

そいつが他者とも共有されれば、文化そのものにもなる。社会に『TAO(道)』を多様に並べて、自分らしく生きれる道を自由に選べて、文化的な社会になる。それは様々な人間を救っていく。時代がパラダイムシフトしようと、体系化した商品が消えようと、人々が社会へ奉納してきた文脈だけは残るのだ。
文脈を拾い、型を身につけるから、概念の解体が出来て、点を繋げ得るから異なる概念同士の縁起も可能になる・・・という順番のお話だ。経験を活かして異業種へ転職する者もコレが基本姿勢になり得る。応用範囲は無限にある。すべての創造は「縁に依って起る」からだ。

リンク→2-07-2【仏教の根幹『縁起』とは何か?を『PDCAサイクル』で説明し統合する】で論じた『縁起プロセス』がココにも嵌る。この円環を何度も何度も繰り返す。

縁起図2

ちなみにプロのクリエイターはコレをやり続ける。完成が無い。過去の自分を越え続ける者は、新たな円環で自己主体を引き出す姿勢をサステナブル化しているからだ。ただの『破壊』ではなく、体系の『創造的破壊』だ。創造的なら破壊を為しても主体に刻まれた文脈が残る。型が再び自分を導く。周囲に合わせて蓋をしてきた自己が、蓋をひらいて縁起していく。主体が抽象化され生まれ変わる。前回使えなかった自分の本質が縁起していく。救われていく。引き出されていく。一度体系化した円環を文脈へ脱構築して、文脈の再構築を何度も繰り返す。
型を身につけ型を破る。主体を破壊したのに、能動的に破壊したからこそ、主体が客観的に抽象化され活きていくのだ。主体空間内で縁起が発生し、個性が洗練されるのだ。いくら解体しても行為や技術だけは身についているのでコレが可能となる。
その時に毒を薬に変換する技を覚える。『因果律』は毒も薬も混ざる。そこに薬を奉納して、何度も申すように『文化』になるのである。
四律『因果律⇄社会律⇄客体律⇄主体律』
これも客体の姿勢を正すだけで、すべてが繋がっていくのである。異なる秩序を並べ、整合せしめる模索が続いて、世界はまわるのである。

・・・・つづく
次→2-07-10【意識とは何か?の解説】

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