見出し画像

2-07-2【仏教の根幹『縁起』とは何か?を『PDCAサイクル』で説明し統合する】

2-07章①のつづき
本著の概要と目次

■縁起とは何か?■

異なる者同士、異なる概念同士が、共に何かを創造していくとはどういうことか?この章は前章【①主体律の秩序】で論じた理論を創造的に破壊する。「異質な概念同士を結び、背景の文脈を編集する為に、我々はどう具体的にしていけばいいか?」を論ずる為だ。

ひとりの人間の『主体律:長期記憶』の中でぐるぐるまわる円環が、2人以上になって『客体律:行為』となってぶつかる。個人の『心』の問題が『人間関係』になる。秩序の次元がシフトする。2つの異なる円環の衝突。2つの銀河と銀河の衝突。この円環衝突を仏教の『縁起』の思想に嵌める。「縁に依ることで何かが起こる」である。大乗仏教の根幹の思想である。人間関係論でもある。異質な実存同士の繋がり論でもある。
そもそも『縁起』の思想も、元を辿れば「二元論を突破しよう」で始まっている。古代インド哲学には『ブラフマン(宇宙の全体性)⇄アートマン(我の個体性)』の二元論が先ずあり、それが『梵我一如』と申して「ひとつの概念として観ること」が是となり、やがて『仏教』が生じて「二元論を突破していこう」となったのが原初的な『悟り』の解釈となる。これが『縁起』「森羅万象は縁に依拠して起こるのだ」という真理の教えとなり、龍樹『中論』で方法論的に『否定の否定』の考え方になり、大乗仏教となって『空』の思想が前面に出て、『般若心経』の『色即是空・空即是色』となっていく。
否定の否定とは「有るようで無く、無いようで有る」である。認識論・意味論的に「確かな世界が在るという認識を否定し、そうやって世界を否定している自己の心をも否定し続けることで、真理の法則が観えてくる」って感じの姿勢の哲学である。
ちなみに情報革命真っ最中の今風に申せば、ネットの普及で
『因果律:世界⇄主体:精神』
を強引に直結したのが『梵⇄我』なわけで、今社会で起きてるのが物質文明の第一否定の段であり、その否定を理性的に正当化して『否定の肯定』となっているのが21世紀初頭の混乱となる。「何を変え?何を守る?」の命題において「世界を否定(変える)する私を自己肯定(守る)する」が強くなり『客体律:行為<主体律:主張』の時代となる。
産業革命の場合は本著前半で論じた通り、近代化の夜明け前がそれを呈した。ザックリおさらいするとこう・・・宗教改革で農耕文明の神秘主義の否定が始まり、西欧大陸が『カトリックvsプロテスタント』「どっちを肯定する?」で分断し、隣人同士で延々殺し合う史上最大の宗教戦争『1620‐48三十年戦争』が起き、その戦闘中にデカルトが「世界を変えたきゃ、自分を変えろ」と申して『1637方法序説』を書き『近代科学』が萌芽した。一方政治場は、疲弊の果てに『1648ウェストファリア体制』を制定し『国際法ver.1.0』が縁起した。
実に否定の否定で近代化が始まる。ところが今はそいつの更なる否定が発生しているわけ。「我想う、故に我あり」即ち「否定を重ねて浮き掘られるのが真理である」という方法はいいが、西洋哲学はそいつを肯定しだすわけで、『懐疑主義』の果てに肯定されてく物質的な肯定を、人間理性の肯定を、今更に否定しようと試みているのが21世紀初頭となる。否定の哲学の先は未だ定まらず。そんな西洋哲学は、今後仏教的な方面へ歩みだすのが私の予測である。
そうして『否定の否定』を介し、不確実な『空』へ向かって異質な概念が繋がっていくプロセスが次に起こる。空観の先、そこに『縁起』が嵌る。単純化すれば、点と点を結ぶ線が『縁』である。すべてのものは『縁(えん・ふち・へり・より・ゆかり・つながり・エッジ・タグ・リンク)』に拠って発生する。極めて重要である。理性主義的に「創造する為に繋げる」ではなく、行為主義的に「繋がるから創造される」というお話だ。
そこには物語がある。パターンがある。コツがある。上手い方法論がある。『P:思いついたら』→『D:やってみて』→『C:軌道修正していくうちに』→『A:体系化されていく』という行為主義の円環、即ち『PDCAサイクル』に嵌めて『縁起プロセス』を論じ、構造的に理論統合していこうと思う。単純な足し算や掛け算ではない。異なる者同士が衝突することで価値が創造されるプロセスとは何か?・・・

縁起図

■縁起プロセス×PDCAサイクル■

例えば互いに異なる『左派(L)』と『右派(R)』が出会ったとする・・・
①《Pドリブン》
先ず互いに異なる『左派(L)』の円環と『右派(R)』の円環が単純に衝突する。互いに目指す未来のプランを示し合い、又はビジョンを見て、又は抽象的なら「未来を信じよう」だけでも物語は始まる。ひとつを目指すことで衝突が発生する。Pドリブンで『PL→中空←PR』と対峙する。
異なるものを確かめ合う。「相手(敵でも)を知る」である。先ずは「何の為に?何をしたいか?」のみを抽象的に共有して、互いに相手との差異を観る段階である。距離を掴むことで間に『中空』の空間が生ずる。それは『現在の中空状態』と、上に『未来の中空状態』とに分かれている。要するに「中空空間を共に上昇しましょう」と意思疎通するドリブンである。この『三角構造△』の内が中空になる。接近しすぎると衝突する。離れすぎると空中分解する。『気体⇄流体⇄固体』の流体域を掴む感じ。
②《Dドリブン》
そして次の段は「互いに離れる」が必要となる。この段は「己を知る」だ。三角構造を空中分解しない程度にひろげる。Dドリブンは『DL→中空←DR』ではなく『DL←中空→DR』である。「衝突」ではなく互いに離れて「力を蓄える」。別の言い方なら「視野をひろげる」である。ちなみに衝突したまま局所的に協力し合えば『コラボ』となる。縁起は「男と女がコラボって子が生まれる」と言わないように、ファイル融合や足し算掛け算の概念ではない。
縁起は共産主義が申す『アウフヘーベン』とも意味が違う。「本質的な二元的衝突の構造をデフォルメし、両者を包む概念をアプリオリ(脳内)に創って、その理論を絶対化すればいい」といったお話ではない。答えを『絶対化』しない。『目標』にしない。中空はケムリのようなクラウドだ。『色即是空・空即是色』「あるようでない・ないようである」という『空(ゼロ)』の概念である。それは観念論ではない。逆に観念を捨てないと観えない。純粋理性は必要無い。中空は「未だ何に化けるか分からない」というただの枠、サークル、カラッポな領域、『場』である。
絶対的答えの下に、異なる者同士が服従する構図だと、「理解しろ」と主張し合う情報戦を激化させるだけになる。理解も団結も重要ではない。純粋理性が『現在』つまり「あるがままの今の状態」を否定することを肯定(正当化)しだすからだ。本質の二元対立は結局、一方を呑み、一方がキレて分断に至る勝ち負けの力学になる。縁起は『客体律』で「距離を置く」プロセスを必要とする。
愛する者がバカな時、論理が勝てばサイコパス、愛が勝てばただのバカへと傾倒する。例えばこれも異質な実存の二元的衝突。理に走れば「情を捨て理を取るか?」「バカを愛して理を捨てるか?」の選択肢が出る。人生の分岐だ。だがその問題の定義は本当に正しいのか?
もしココで二元的構造の上に「情を捨てて理を取れ!でもバカを愛せ!」などと絶対化しちゃうと無理難題な目標が設定される。肯定しかない『理想的未来』が『あるがままの現在』を純粋否定しだすのだ。あとは「私を理解しろ」の応酬だ。こうなれば概ね「無能な人間が自己を高く評価し、有能な人間が自己を低く評価する」という『ダニング・クルーガー効果』へ突入して主張の強いバカが勝つか?論理を力にして相手をねじ伏せる強権が勝つか?の『分断』になる。
縁起を知れば解消できる。『客体律:倫理行為』を出して距離を置けば、日常の中に「バカだけど愛する」「愛するけど理を通す」というグレーゾーンが刹那に観えてくる。そうすれば「繋がる部分から繋げていく」を日常で行為し続けることで、刹那に繋がる瞬間が『現在』に発生する。そして「これを大切にしていけばいい」と覚えていく。そうして互いに「私はバカを見下す悪い癖を改善しよう」「私はバカだから勉強しよう」という姿勢になる。「自分を変える」になる。想像してほしい。無理難題な目標を絶対化したら、この貴重な刹那の繋がりは機会を無くすのである。
だから「離れる」のだ。中空とは非言語の『不確実性』の塊なのである。矛盾を内包した答えありきの結論が『P:プラン=A:体系化』され、現実を否定しだすと内ゲバになるというのだ。縁起は理性の所管ではない。行為の所管だ。重要なのは一旦離れて己を知ること。「共に目指すものがある」が大切で、それが共有できてりゃ距離を離していいのである。こうして「今そこにある、あるがままの己自身をみつめる」へと誘って、「私には何が出来るか?」を探り、無ければ「力を蓄える」になって、次の段へ移行する。
③《Cドリブン》
離れて互いに力を蓄えるから、世界を眺めて視野をひろげるから、多様な選択肢から「何が大切か?」を選べるから、Cドリブンで『CL↓中空↓CR』「捨てる」に移行できる。縁起の『三角構造△』を目指しつつも、実際に行為するのは『逆三角構造▽』になる。衝突し、離れ、互いに「捨てる」で身を軽くし、一旦下へ下へと互いに自己を掘り下げる具合になる。これで本人の内心では信念がプリミティブになる。「私は何を願うか?」が見直される。
『否定の否定』である。否定を重ねて残るものが真である。仏教で申す『空』の思想、『色即是空・空即是色』がココに嵌る。簡単に申せば、主体律のエネルギーをゼロにて行為に集中すること、つまり「何かを否定している自分の心を否定する」である。執着を捨てる。固定観念を捨てる。理性を捨てる。拒絶感を捨てる・・・このゼロ地点から中空を眺める姿勢が『空観』である。
「色々抱え込んだ私(自我)に対する執着を断ち切る」と申してもいい。蓄積した概念や定義、言語記号を文脈へ脱構築し、その線とエッジ(縁)を取り出すわけである。必ずDを経てCがある。互いに余計なものを削ぎ落とす。Dドリブンで「己を知り力を蓄える」をやったから、Cドリブンで「削ぎ落とす」が可能になる。中空を向いて寄り添い合い、互いにペースを合わせて縁起へ向かい余計なものを削ぎ落とす。中空へ繋がる細い線を残して、ファイルではなくタグを取捨選択して、色々と捨てる行為に意味がある。捨てるものが無いのなら、ココでDドリブンに戻る必要があるほどだ。
④《Aドリブン》
だからAドリブンで「共有し得るもの」が抽出され、『AL 中空 AR』で冷静に相手と繋がれる。ポーカーでカードをきるが如くだ。互いにゼロエネルギー状態から一気に上昇気流を掴んで中空へ上昇していくのである。もしゼロ状態たるココで止めれば『共生』や『中庸』の状態になる。だがそれ以前に空中分解すればエンガチョだが、縁起の場合、更に中空へ向かい上昇しだす段階がある。
これがあるから、捨てたものも救われていく。ロケットがブースターをジェットソン(投棄)するから上昇するが如くだ。システム工学では、捨てる言うても「不要なものをパージする」ではなく「一部をセパレート(分離)する」と申す。捨てても捨てた行為や経験に価値が宿り、結果がそいつの存在を救うので「いらないものだった」「コストだ」とはならない。「無駄だけど必要だった」が違い。結果が全ての文脈を救うので聖書的でもある。
こうして『AL↑中空↑AR』と上昇気流に乗って、ようやく縁起することができる。Pドリブンの『衝突』も、この段に至れば『寄り添う』になっている。今この瞬間に発生する刹那の繋がりの連続性がサステナブルに繋がり続けて、『上昇気流』なのである。

それは「何が創造されるか分からないけど、創造されることは分かる!」という感覚に近く、『プラグマティズム(行為・道具主義)』になって、否定の否定で文脈へ『脱構築』した多様な食材を料理して、まるで遊ぶかのよう上昇気流に乗っていく。「冷蔵庫にあるもので最高の料理を創る!」が『構造主義』なので、「食材を買って来い」と申す『理性主義』の側は目的化されない。手持ちのカードをBetする。あるがままの自分を文脈へ解体して、相手の線と『縁』に依って繋げていくのである。その繋がった文脈が次々と束になって上昇していくのである。徹頭徹尾『客体律>主体律』である。
それが『般若心経』だと、「あれも無い!これも無い!」と散々ぱら『否定の否定』を重ねた後、心を精神に還し、願いと望みを一致させて、最後に「ぎゃ〜てぃ♪ぎゃ〜てぃ♪は〜ら〜ぎゃ〜てぃ♪」と太鼓ドンドン鳴らして、空へ飛んでいく具合となる。『音』の共鳴にノッて中空へ走り出す。不確実な『因果律』へ向かって『客体律:行為』を奉納し続ける。
理性も無い。固定観念も無い。言葉も無い。物質も無い。偏見も無い。観念も無い。意味も無い。解釈も無い。思い込みも感情も、怒りも悲しみも幸福も無い・・・「あるようでない・ないようである」・・・だから他者と繋がり上昇していける。縁に依ることで創造が起こる。捨てて捨てて捨てまくる。削いで削いで削ぎまくる。捨てるから上昇していく。削ぐから繋がれる。高く高く!もっと高く!飛龍上雲。
そうして、様々な型が結果として体系化されていく。『型』のみが残る。なぜなら創造したものも『空』だからだ。縁起それ自体もただの『体験』だ。完成が無いのである。故に『P:思いついたら』→『D:やってみて』→『C:軌道修正していくうちに』→『A:体系化されていく』という行為主義の円環を、何度も何度もサステナブルに繰り返して価値となっていくのである。
ちなみにこの『縁起×PDCAサイクル』の理論構造をベースに、更に拡張して『縁起場』という縁起の発生する『場』を構築していくマネジメント論、組織論を、次の章【社会律の秩序『リゾーム型組織論』】で論じていく。

■中道■

その上昇する道は『中道』でもある。それは儒教的『中庸』とは違う。政治哲学的な『プリンシプル』とも違う。なぜか?Dドリブンで「互いに離れて自己と世界を観に行った」からだ。ヤクザの中庸は社会の中道ではない。中庸が己の姿勢を決めるのではない。己の外。周囲を八方睨みする姿勢が中庸を決めるのだ。
色々と周囲を全部眺めて、それを分母に中の道が軌道修正されるのである。故にプリンシプルという己の軸も、周囲の因果律の渦中で軸自体をゆらし続ける。『客体律:インテグリティ(真摯な姿勢)>主体律:プリンシプル(理念主義)』である。軸に対する姿勢があれば、軸それ自体はゆらいでいいのである。単位空間内の中に座せば中庸だが、仏教的中庸は更に意味が深い。
しかも『過去⇄現在⇄未来』の「今この瞬間の現在」に中道は生ずる。不確実な因果の渦中で、殻に守られ外を八方睨みする雲龍が、即座に飛び出て縁を掴み、線を繋いで元の座に戻る。爆発と爆縮の中座、膨張と収縮の中座、落雷と昇雷の中座、最大にして最小の動き。その中座の刹那のゆらぎに優れた決断は宿る。縁起はその後「自己へ還る」のである。即座に抜刀して即座に納刀。そして残心。PDCAの次は更に別の円環のPDCAがある。完成が無い。なぜなら縁起して創造したそいつも『空』だからだ。『絶対化』できない。己に宿した『型』のみが体系化されていく。故に縁起は『個』を保つ性質もある。
だからこの決断の連続性が大事となる。何を出し?何を出さぬか?の選択肢が、持ちたる制約の内に最大の範囲となって留まり価値が宿るのである。故に己の姿勢がすべての要となっていく。いかに選択肢が多いか?が縁起の発生可能性の分母となる。多様な食材が並び、幅広い選択肢の型を宿す料理人は、即座に客に合わせて料理を創造する。そして縁を結んで刹那に繋がる。繋ぎ続ける。姿勢が大事。姿勢が崩れりゃその選択肢は範囲を狭める。自意識過剰に大きく振りかぶって姿勢を崩すと、その動きによって次の瞬間に出せる技の選択肢が狭まるからだ。
ちなみにこいつを『道TAO』と見出したのが江戸時代の文化。本著後半で日本文明論をするが、日本は『道教』の『主体律:道徳』思想をまったく別の内容に書き換えて、『禅』の『客体律:修行』に取り込んで『縁起』の構造へ誘った。それが『○○道』と呼ばれる数多の文化である。社会に多様な上昇気流を並べたわけである。縁起は道徳でも観念論でもなく、空間的、時間的な『構造』として理解する必要がある。
あと、なぜか神社の構造設計もコレじゃないか?左右非対称の異質な概念を、阿吽の呼吸で手を合わせていき、ビジョンに向かって、縁起である。神道の場合は『今中』の思想が縁起に近い。ちなみに"非対称"は重要なポイントだ。『縁』という漢字の成り立ちが表現する通り、両者を緩い糸で繋いで、溢れ出る価値を次々と汲み取っていくわけだ。
ボケとツッコミで笑いが起こる漫才も同じ。このプロセスを踏むことで巨大な上昇気流が発生する。ドカンとウケる。中空に繋いだタグを拠って、後から様々な文脈が引きずり出されて、刹那に融合し続けていく。互いに捨てた力が、必要に応じて活躍しだす。
西洋人はよくウィンクするが、それを表現する状況も縁起に近い。ちなみにここも"非対称"だ。神社の狛犬も"非対称"だ。『L:阿⇄R:吽』である。その構造が縁起の道をつくる。狛犬も麒麟もドラゴンも源は同じだ。洋の東西関係無く、これらはなぜか左右非対称の二元論をよく表現する。そしてこの二元構造を超越すると、ドラゴンの道ができ、縁起のプロセスへ突入するのである。飛龍乗雲である。
ちなみにこの行為主義が思想として乗って実際の世界史を動かしたのは、西洋文明なら本著前半で論じた『カルヴァニズム(聖書原理主義)』、東洋文明なら本著後半で論ずる『陽明学』となる。エヴァンジェリストと幕末志士の類似性は後半で論ずる。

まとめるとこう・・・
①Pドリブン『L→中空←R』
②Dドリブン『L←中空→R』
③Cドリブン『L↓中空↓R』
④Aドリブン『L 中空 R』
とプロセスを経て、縁起『L↑中空↑R』の上昇気流が発生する。これ以上でも、以下でもなく、このプロセスこそが『縁起』である。ベクトルは『願い』。そして線は『行為』。線を掴ますのは己の『姿勢』。中空のケムリは別名『理念』や『ビジョン』といったものである。これが心の中の曼荼羅で、本質を振動させながら躍動するのだ。故に心の中心は『中空(カラッポ)』を目指した方が良い。主体の情報量が分母として一定数備わっていれば、このプロセスを経て縁起は簡単に発生する。難しいことではない。これらのプロセスは『客体>主体』の状態によって発生しだすのである。

合掌(-人-)・・・

本著はこの『縁起×PDCAサイクル』の理論構造化をベースに、更に構造を拡張していく。・・・・つづく

次→2-07-3【信頼関係の構築プロセス=縁起×PDCAサイクル】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?