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「場づくり」を自分の人生にしてきたぼくがこの1ヶ月で考えていること。「場づくり」という概念の深化と、地域における仕事を取り巻くいくつかの論点について。

ここ数ヶ月、さまざまな場に参加した。主催もした。思考を繰り返した。今後、ぼくたちはどうしたらいいのか、どうしていきたいのか、みなさんと一緒に問いを抱きながら話がしたい。

少し羅列的にはなるかもしれないが、思考していたことを記載しておく。これまでやってきたことのまとめ、今後のチャレンジ。そして、いま抱いている問いや悩み。みなさんの活動や取り組みの参考になる部分もあるかもしれない。シェアなどは、もちろんご自由にどうぞ(全文無料でお読みいただけますが、投げ銭制にしています)。

空間と場所と場とコミュニティと居場所

「場づくり」をしてきた人間として、言葉の使い分けは重要なことだと思っている。見出しに書いている「空間」「場所」「場」「コミュニティ」も多用される言葉だとは思うが、意外と使い方が定まっていない場合も多い。多くの人が自分なりの使い分けをしていることはいいことだとは思うが、一旦、自分なりの解釈と分類を下記に記載しておく。

空間:ハコのこと。ハード。スペース。人の営みの有無は関係なく空間は空間。開けているイメージ。オープン性。ひろがり。公共空間。コワーキングスペース・イベントスペースなど。

場所:空間(無生物)に対して、人の関与が生まれると場所になる。あるいは、空間に機能を加える(機能が加わる)ことで場所になる(お店・商業施設・オフィス・ビーチなど)。プレイス。場所という言葉は、空間よりも点や指定的な(局所を指定する)意味合いが強い。また、場所を語る時には個人的なエピソードや物語が絡むこともある。

:機会(「場数」を踏むなど)と関係(「磁場」など)のこと。場をつくるために、リアルな場所は必ずしも必要ではない。イベントやワークショップ、会議や人の集まりなどがよく言われるところの場のメインフィールド。一方で、職場環境や家族との関わりも場である。「場づくり」は、それらの機会や関係をどのようにしてよりよいものにしていくかという哲学であり、実践。

コミュニティ(≠居場所):他者との関係を定期・不定期に繰り返していくことで生むもの。共同体。共通点・同質性をベースにしているという点において、常に排他性をはらんでいる。人や要素の流動性・可変性はそれぞれのコミュニティによって異なる(例:神社の氏子コミュニティ/人の入れ替わりが激しい会社など)。ただし、すべてのコミュニティが必ずしも居場所になるわけではない。

居場所:場所や場、コミュニティに対して関心を向ける個人が抱いている心理的安心感のこと。自分はどう感じているかが重要。つまり、客観的な居場所というものは存在しない(もちろん、多くの人にとって居場所になりうる可能性を秘めている場所やコミュニティというものは存在するし、場のつくり方によって居場所と感じてもらいやすいかどうかは変わる)。個人の主観性の中に居場所というものを見出すことができる。

場づくり図解①

上記の仕分けにおいて、場とコミュニティをつくることを狭義的に「場づくり」と呼ぶ。一般的な(藤本的な、かもしれないが)「場づくり」の概念の仕分けは以上だと思うが、上記の分類は、現時点でぼくが想定している「場づくり」とは少しズレる。

オンラインコミュニケーションの難しさ

「難しい」。そう、一様にみんな言っているような気がする。確かに受け取ることのできる情報は少ないし、難しい部分もあるけれど、場のつくり方や進め方は、ぼく個人としてはこれまでと大きく変わらない。みなさんの話をしっかり聞くというのが前提にあった上で、ゲストからの情報提供などを行う。場の運営を一方通行的にしない。個人同士の関わりを大切にする。

以下、オンラインコミュニケーションの難しさ、あるいは危惧していることについてまとめてみた。

・非言語の情報がほぼこぼれ落ちている。リアルな場だと非言語の情報(または、視覚・聴覚以外の情報)がとてもたくさんあるが、オンラインだと現状はそこがあまり捉えられない。
・偶然性に乏しい。いろんな人に会えているような気になるが、一定のリテラシーや興味関心が合う人としか出会わない。そして、それが「普通」になっていった先には、自分の興味関心のみで「アルゴリズム化」された世界がある。「社会から嫌われる人」が、どんどんと疎外されていくような気がしてならない。
・感情や気持ちをリアルな場以上にしっかりと表現する必要があるが、そのスキルを持ち合わせている人は多くない。結果的に深い対話をすることが難しい(場合が多い)。
・一方通行になっているイベントなどが散見される。悪くはないけれど、個人的にはあまりおもしろくないなと思う。

高齢者が置き去りにされている。あるいは、一定の生活水準以下の人が置き去りにされている。接続するための端末のない人や、オンライン空間にアクセスするための知識がない人がいる。これは、コロナ前後で変わったことではない(もともとそうだった部分がより露見した)のだが、そのリアリティは自分に伝わってきたように感じられた。

持つ者と持たざる者、関わっている者と傍観している者、この分断については、一定の当事者性をもって語れるのではないか、関わっていけるのではないか。そう思っている部分もある。

藤本が目指す次の「場づくり」のフェーズ

そうした背景もあって、ぼく個人としては、コミュニティとコミュニティのあいだ、あるいはコミュニティの周縁がとても気になっている。また、コミュニティの外に弾かれてしまった個人や要素への眼差しも忘れたくない。さらには、人以外のもの(自然物)との関係性の再構築という点にも関心が湧いてきた。それらをすべて含んだ意味合いで「場づくり」という概念を捉え直してもいきたい。

上記のことは、とりもなおさず「それぞれの本来の価値(本領)をいかしあう生態系と社会経済システム」のリデザイン・編み直しのことであると思っている(なんだかめちゃくちゃ大きな話になってしまった)。そのように、よりホリスティックな概念として「場づくり」を再考していきたいと考えているし、その実践をしていきたいと思っている。

場づくり図解②

場づくり図解③

当然、今までの活動を辞めてしまうわけではない。その上にオンする形で、あるいは、射程をより広げた形で、これまでとは別の実践を積んでいきたいと考えている。

いま、小さなところでは、リモートで障がいのある人がバーやゲストハウスを訪問できる機会をつくったり、大阪・西成に遠隔で関わったり(関わろうとしたり)している。「知っていたけれども、なにもできなかった」自分。そうしたある種の「うしろめたさ」のようなものとこの機会に向き合ってみたい。そう思っている。

自然との関わり直しとしての「場づくり」

およそ一ヶ月半ほど前に、以下の記事を読んだ。

コロナパンデミックの原因は「動物の軽視」 霊長類学者グドール氏
https://www.afpbb.com/articles/-/3278221

あまり、というか今までほとんど人間以外のなにかとの関係づくり、「場づくり」という視点を持ったことはなかったし、実践もしてこなかった。しかし、この記事を読んで、腹にスッと落ちてくる感じがあって、これが必要なことなんだろうと直観した(まだリアリティを持っては語れないけれど)。

田舎暮らしをしたいとか、資本主義経済から離れたい、ということでもあるかもしれないけれど、社会や地球においてどの部分の関係性が分断されていたり、歪んでいたりするのかというところを注視して、自分ができる「場づくり」を小さくはじめていきたい。

具体的には、自らの活動のフィールドを増やそうと思っている。これまで活動してきた兵庫・尼崎は大好きだし、もちろん、これからもいろいろと仕掛けていくつもりだ。しかし、近くの「地方部」にも拠点を構える動きをしていきたい。

「田舎暮らし」を一部することにもなるのだろうが、自分なりの視点を持ちながら、別のローカルに(一定の主体者として)関わるという選択をしたいと思っている。自然と人間(自分自身)の関わり直しへのチャレンジ。まったくはじめてのことなので、たくさんの失敗があるだろうなと思う。だから楽しみでもある。

自分はそもそも、なぜ場をつくっているのか

この質問は、講演の際などにもよく聞かれる。もっとも、自分は家庭環境の問題があったりで、自分の居場所を自分で見つける、あるいはつくるということが目下の課題であった。20歳を超えてからそのチャレンジをするわけだが、場をつくることになった最初の発端はその部分だ。まったくもって社会のためや他者のためではなく、自分自身のためであった(しかし、よく考えると自分も社会の構成員であるのだから、自分のためにすることは社会のためにすることと本質的にはシームレスでもある)。

また、新卒として入った会社でまちづくり・地域づくりのようなことをしていたのだが、それは、自分が暮らすまちとは別のところでの活動・仕事だった。仕事で「地域」には関わるけれども、自分が暮らしている「地域」には関わらない。そこに違和感を覚えて、自分が住んでいる尼崎で活動をはじめた。身近に遊び場がほしい、友達が増えたらいいな。最初はそういう感覚でしかなかった。

続けていくうちにいろんな人に出会った。知った。学んだ。気づいた。世界が広がった。おもしろいと感じた。そうしてぼくはどんどんと「場づくり」にのめり込んでいったのだと思う。

改めて、どんな目的で場をつくっていたのかを分類してみたい。

①学びや気づきのため(ラーニング)
②感情や気持ちをシェアするため(カウンセリング/コーチング/ケア)
③一体感を得るため
④楽しむため/発散するため
⑤新しい出会いを得るため(ネットワーキング)
⑥なにか新しいことを創出するため(コラボレーション/コクリエーション)
⑦貢献したいという気持ちをつなぐため
⑧生き延びるため(再生産/群れ/保護)

などがあったと思う。全てをカバーしながらやっていたわけではないし、ほとんどできていないこともあるかもしれないが、おおよそこのような形に自分自身が行ってきた「場づくり」の目的は分けられると思う。

コロナによって、改めて自分はなんのために場をつくっているのか、他の取り組みとはどのように差別化できるのか(思想や信念が違うのか)ということを考えた。ほかにも分類可能な要素があるかもしれない。みなさんにとって「場づくり」とはなんであろうか。

場の価値について

「場づくり」をこれまでやってきて思うのは、本質的な価値はやはりエピソードしてしか語りづらいということだ。そして多くの場合、その価値は意図の範疇外で生まれている。端的に言うと、想定外のエピソードこそが価値であるということだ。

場のおもしろさはここにあるし、その意図しなさ(セレンディピティや偶然性)による創造をおもしろがれないと「場づくり」に携わるのは難しいのでは、とさえ思う。

最近、バグという言葉を多用するようになったが、ビジョンに囚われず、計画に囚われず、目の前のことや人に向き合うことが、結果的にもっとも大きなインパクトを生むということがあると思う。

自分も最近少し「大きめの社会」をイメージして考えていたことがあったかもしれないと反省している。「目の前の個人」を見失った「社会」だ。とても抽象的な概念としての社会。しかし、いつもイノベーションは、辺境にいる具体的な人の近くから生まれていく。辺境にいる者同士で価値を生み出していこう、と改めて思えた。この話こそが抽象的ですみません。

ちなみに、寛容でないとバグをおもしろがることができない。想定外をおもしろがることはぼくたちの特権だ。そしてぼくたちが寛容になるためには、自分の想像の外側と出会っていく必要があると思う。ぼーっとしていると知らないうちに「アルゴリズム化」されてしまう。よく知ったものは安心だ。だが、ときには不安を感じることも重要なことである。

「ローカルのあり方」と「ローカルでのあり方」

だんだんと暮らしは戻ってきた。けれども、オンラインとオフラインに関するぼくたちの認識が元に戻るわけではない。そうした状況におけるローカルの問題について、ぼくの中での論点は三つある。

・場所を運営することのリスクと価値をどうバランスさせるのか。そもそも場所を持たないという選択がより加速していくのか。しかし一方で、地域のオリジナリティや固有性という価値は誰が担保するのかという問題がある。それらはすべて経済原理に回収されてしまうものなのか。ビジネスが回らなければ小さな営み(特に民間・市民の活動)は潰れてしまう運命にあるものなのか。

・地域に関与する(関係人口の)形がどうシフトしていくのか。ほとんど変わらないのか。リモートやオンラインという形で各地にコミットメントするというあり方が増えるのか。増えるのであれば、どのような形で増えていくのか。

・大きく、消費的遊び(≒都会的遊び)と創造的遊び(≒地方的遊び)があると思っているが、消費的でない遊びをするためには一定のスキルや経験が必要だ。ネットワークもいるかもしれない。今後、地方という意味でのローカルを考えた際に、都心部から地方に人が流れていく中で(人はますます分散していくのではとぼくは思っている)、どのようにして自分たちで暮らしや遊びをつくっていくためのリテラシーを獲得していくのか。消費から生産・創造へという矢印の転換をどう図っていくのか。

ローカルにおける問いはまだまだ他にもあろうかと思うが、このあたりは最近考えていることなので、また興味がある方がいれば教えてほしい。

「公共」における「私」の重要性

いろんな取り組みをしてきて、あるいは見てきて思うのは、いいなと思う公共的な取り組みには、ほぼ確実に「私」の問題意識や当事者性があるということだ。もちろん、ずっと「私」の範疇に留まっていては、取り組みとしては広がっていかない。だが、発端としては「私」自身、あるいは、目の前にいる「私」からスタートしていることが、うまくいっているプロジェクトでは圧倒的に多いように感じられる。

この、ある種の矛盾にも思えることは、たぶん本質であると思う。上でも触れているが「私」という存在は、社会の構成員の最小単位だ。数多の「私」が社会を構成している。そして、その「私」は、姿形は違うし、経験や体験も違うけれども、どこかしら同じであって、つながってもいる。そんな不思議な存在として、いろんな「私」がいる。

たぶん、この「私」から滲み出ていくものにしか、公共性の魂は宿らないのではないか、とぼくは思っている。「みんな」という言葉に含まれる怪しさや不確かさはここにある。「誰でも来やすい場所を」と言いながら想定されている誰でもの範疇が狭いということはよくあるし、誰でもと言ってしまうときには「私(個人)」の解像度が低いという場合が多い。

自分の「こうありたい」や「これをしたい」が、他者とも重なっていく。そこに公共性の芽がある。他者と重なっていくためには「多様な出会い」が重要で、その回数を重ねていくごとにいろいろな物事が「自分ごと化」しやすくなっていく。それは「私でもあり、あなたでもある私」という感覚を育てていくということだ(そこにおいては、もはや他者という感覚ですらないのかもしれない)。

公共性としては、取り組みやサービスとして「公開されていること」「オープンになっていること」が条件だ。しかし、公開はされているけれども誰もアクセスしないものは「公共的」だと言えるのだろうか。一方で、完全に趣味的で、個人的なものを「公共的」と言うことはできるのだろうか。その両者のはざまに位置しているのが、本来の意味の公共性なのではないか、と最近思っている。

お金をどう得ていくのか

「場づくり」を仕事にしていくというのは、まだまだ難しいかもしれない。下記では、主に「場づくり」におけるマネタイズについてまとめている(場所の運営という要素が多いかもしれない)。ちなみに、ぼくの会社は②と③の形でお金をいただいていることが多い。実際の場所を運営して収益を上げることはしていない(できていない)。

①スペースを貸すことによる利用料(レンタル料)/宿泊料
→個人に貸すこともあれば、一日というスパンで団体に貸す場合もあるし、一ヶ月という単位でポップアップのお店に貸すかもしれない。

②イベントやセミナーなどの参加費
→数百円のものから数十万円のものまで差が激しい。

③専門性の提供
→②と重なる部分もあるかもしれないが、専門性を提供することによる収入があり得る。コンサルティングや士業、美容室など。

④食べ物やクラフト・作品などの販売
→モノの販売で収入を得る。

⑤ドリンク(アルコール)や食事などの提供
→実際にその「モノ」を売っているという側面もあるが、つながりやコミュニティをお金に変えるためのいやらしくない仕組みでもある。

⑥月会費/年会費などの会費
→まず会員にならないと利用できないようなサービスもあるし、一方でそこに所属するという効果のために会費を支払う場合もある。ユーザーがなにに対して対価を払っているのかということを考える必要がある。

⑦運営委託
→規模の大きな組織や会社から委託費・運営費をもらって運営。運営のノウハウやネットワークがはじめてあって成り立つビジネスモデルであるので(しかもどこかからか必要とされるような「場所」でなければならない)、レベルは高い。

⑧指定管理
→さらに「公共性」の高い空間を運営することで行政から安定した資金提供を受ける。3年〜5年などの契約のため、短期の社会情勢の影響をほとんど受けないモデル。そういう意味においては優秀なモデルでもある。

場所を持つ際は、イニシャルコストをどれくらい下げるかということも視点として必要。また、ランニングコストをいかにして下げるかという視点もある。その点については、共同所有(シェア利用)や、地方部の家賃が大きく下がっているような物件を借りるということも手だと思う。

「場づくり」をする人間は、しかし、別の形のマネタイズについても考えていかないといけないと思う。「人が集まる」「人が来る」ということでお金を得ていくモデルだけではなく「集まった人でなにか別の価値を創出していく」ということでお金を得ていくモデルを模索したい。すでにその芽は各地である。これぞまさに「コミュニティ・ベースド・ビジネス」だと思う。

集まった人たちで専門性を持った集団を組成し、企業から案件を受けてこなしていくのもいい。クライアントワークではなく、自分たちでサービスやコンテンツの開発をしていくのもいい。そういった形のハブ的スペースの運営ということも視野に入れながら、「場づくり」をしていく必要があるのではないかと思う。

さいごに

ダラダラと長文を書き綴りましたが、なにか結論めいたことがあるわけではありません(すみません)。ここ一ヶ月ほどで考えていたことを書かせていただきました。

「場づくり」を取り巻く環境は、時事刻々とこれからも変化していくと思います(これまでも歴史的に変化を重ねてきた概念だと思います。最初は「対話」や「ワークショップ」的な意味合いでの「場づくり」が多かった)。しかし、場が不要になることはこれまでもなかったし、これからもないのではないかと思います。それくらい「場づくり」という営みは「わたしたちが生きていくこと」の中に織り込まれているはずです。

でも「わたしたちが生きていくこと」の射程自体が狭まってしまっていたのなら、「場づくり」の及ぶ範囲も狭まってしまうのかもしれません。無関心や無関与で生きていくことができていたのであれば、それを見直すタイミングがきているようにぼくには思われます。まさに上で書いたように「人間以外のものとの関係性」という点においては、自分自身としては「生きていくこと」の範疇外だったように思います。

だからこそ、自分の視野を広げていくために、そして、すべての事物が今までより良好な関係性を築いていくために、これからも「場づくり」に取り組んでいきたいと思っています。

この記事にピンときた方は、ぜひいつでもご連絡ください。お話しいたしましょう。

◯株式会社ここにある
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◯藤本遼(ふじもと・りょう)
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