見出し画像

「ケンカするほど仲が良い」の本当のところ

うつになってから、家族やパートナーと話し合いをすることが増えた。

家族とは、ケンカのようにお互い声を上げてしまうこともある。
でも、今までのケンカとは全然違うなってことを、お互いに感じていて。

ケンカには生産的なケンカと非生産的なケンカがあるんだなって最近ひしひしと感じてる。

ケンカするほど仲が良い

そんな言葉があるけれど。このケンカとは、生産的なケンカのことを指す。
非生産的なケンカばかりを続けるのは、いい関係とは言えない。

じゃあ、生産的なケンカと非生産的なケンカの境界線ってどこにあるんだろうって考えていて。


非生産的なケンカとは、2人のうちのどちらかが力技で相手をコントロールしたり支配しようとするもの。
生産的なケンカとは、2人がお互いの思いや考えを伝え合い、時にヒートアップしてぶつけ合いになったとしても、根底にはお互いを理解してよりよい自分になっていきたい(相手にもそうなってほしい)という思いがあるもの。

そんなことを思う。


非生産的なケンカでは、「自分vs相手」の関係性。
「自分は正しい、相手は間違っている」の尺度の中で、相手を自分の都合のいいように力技で変えていこうとするダイナミクスが存在する。前の結婚生活がそんな感じだった。相手の言い分をケンカの中で主張され、わたしの思いや感情はすべて否定され、相手の言い分を受け入れないわたしの方がおかしいのだと糾弾され、そしてケンカ(罵声、怒声、言葉の暴力、人格否定、ときに脅し)によって、相手を自分にとって都合のいいものに "矯正" しようとする。

そういう関係性の中では、「ケンカするほど仲が良い」は成立しない。むしろ、そんなケンカをすることが多いなら、全力で逃げた方がいいかもしれない。


生産的なケンカでは、「問題vs自分と相手」の関係性なのだ。
「問題」という共通の敵があって、それをどうチームとして、もしくは個人として、乗り越え解決していくのか。そのためにお互いが鏡となって、自分では見えない部分を指摘しあい、伝え合い、すり合わせをおこない、お互いに対する理解を深めていく。でも、完全に分かり合えないことや、お互い本当に違う人間なんだなっていうある種の諦めも必要となってくる。その上で、じゃあ、どうするのか。そんなことを話し合いながら、お互いに向き合いながら、伝え合い、考え合うのが生産的なケンカのダイナミクスなんじゃないだろうか。

だから、生産的なケンカの後は、つかれたりしんどくなることはあるけれど、でもお互いに「一緒に頑張っていこう」的な仲間意識のようなものが存在する。お互いを敵とみなしているからケンカしているわけではなく、お互いが対面している「問題」を敵(というか課題)として、あくまでも「その問題を乗り越えるため、自己成長のため、より良い自分になるため、より良い関係性を築いていくためにどうしたらいいのか」を話し合っているのだ。


もちろん、声を荒げたり感情的になることなく、落ち着いて話し合いができればそれに越したことはない。でも、お互いに感情的になりやすいタイプだったり、家族みたいに長年のあれやこれやが塵ツモで山になってしまっている場合、感情的になるのを毎回避けることは難しいかもしれない。

それでも、お互いを敵とみなしているわけじゃないんだよと。ベクトルは互いに自分自身に向いているんだよと。自己成長の先にある、二人の関係性をより強固でより良いものとするための、向き合いの時間、話し合いの時間なんだよと。

そういうことを、言葉でも、言葉でない部分でも、お互いに伝え合うことができたり、感じとることができるのなら。それは、生産的かつ大切なケンカなんじゃないかなって思う。


変わることって難しい。
人を変えようとすることは容易いけれど、結局のところ、その人のことを変えられるのはその人だけ。そして自分を変えられるのも自分だけ。当人の課題や葛藤や悩みは、その人にしか解決ができなくて。周りはそのための気づきや意見やサポートを与えることしかできない。あとは、信頼して見守るしかない。

それでも。
そうやってお互いに向き合うことを恐れず、時間もエネルギーも奪われるし、しんどいし、できれば避けたいものだけれど。それをちゃんと「大切なこと」と認識して向き合うことができるのって、すごいことだよなって。それ自体が、愛の関係性だし、特別で大切な関係性だよなって。

そんなことを、今日、家族と話し合い、ケンカしたり、最後は一緒に泣いて「一緒に頑張っていこう」って手をとりあったとき、思ったよ。

よくぞここまで成長したものだ。
えらいぞ、自分。


この記事が参加している募集

最近の学び

サポートしていただいた方のことは忘れません