#エッセイ
サイゼリヤ女子騒動は結局もったいないという話
失われた30年、老後2000万円問題や就職氷河期世代や8050問題などなどなど問題は頻発しているが、政治は目先の利権を死守することにだけ終始し、メディアは無責任に煽るだけの年月を経て、国民は貧困リアリストになってしまった。
勝ち組負け組という経済的指標でのみ人間を評価するのは今に始まったことではないが、それが生命のリスクにまでリアルに感じてしまうくらいこの国は貧しくなった。
ここでいう貧しいとは、
なぜ我々は「ポカリスエットのCM」にムカつくのか?
ポカリスエットのCMといえば、青春の汗飛び散る仲間たちとの甘酸っぱい思い出であり、集団ダンスやらなんやらで兎にも角にも青春である。
しかし、なぜだろう?シンプルにムカつくのである。
この感情は、学生時代に自らを「非リア充」であると自認していたものにとっては共通感覚だろう。
それは結局の所、『押し付けられた青春像』に何らかの理由で参加できなかった過去の自分への後悔であり、そしてそういった社会から『押
小学一年生の僕へ贈る手紙『社会に合わないという自覚があるのなら、社会の価値観に自分を適応させようと無駄な努力をするな』
京王線刺傷事件とJOKERの関係性を書いたが、僕自身強く思うのは『社会に適応できないという不安が強いのに、なぜ社会の価値観に自分を適応させ続けようとするのか?』ということだ。
もちろん人間的な生活より経済最優先の現代において、プラグマティックな戦略で社会に適応するように努力するのは当然の人生戦略だとは思う。
だが、発達障害関連の言説の悲喜こもごもを眺める限り、「社会に適応できない発達障害が悪い