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サイゼリヤ女子騒動は結局もったいないという話

失われた30年、老後2000万円問題や就職氷河期世代や8050問題などなどなど問題は頻発しているが、政治は目先の利権を死守することにだけ終始し、メディアは無責任に煽るだけの年月を経て、国民は貧困リアリストになってしまった。
勝ち組負け組という経済的指標でのみ人間を評価するのは今に始まったことではないが、それが生命のリスクにまでリアルに感じてしまうくらいこの国は貧しくなった。
ここでいう貧しいとは、精神的貧困のせいだ。
現代の若者に「男はつらいよ」の寅さんを見せたら、軽蔑以外何も感じないであろう。
サザエさんはディズニー制作映画のようなファンタジーである。

要するに経済危機と緩やかな相対的貧困感を享受し続けた日本の若者は、生命維持のためのリスク回避と経済合理性を混同している。
故にすべての指標がカネであり、それは減点方式で有限である。
それは商品価値だけにとどまらず、時間や交友関係といった人間の本質的な感覚にまで浸透している。

日本の若者は将来に絶望しているからこそ、今の時代を有益に過ごしたいという強迫観念がある。
これは様々な統計や古市憲寿の著作でも語られているが、これによりブランド信仰は廃れ、モノよりコトの消費へと転換、もちろんコストとリスクにされてしまった結婚や育児などは論外である。

サイゼリヤ女子の件、若者なら理解できる。
この件で吠えているのは、昭和の加齢臭漂う老害と上級メディア国民くらいじゃないのか?
フェミニストの炎上案件として処理するのは短絡的を超えて滑稽である。
経済的価値指標が若者の脊髄にまで浸透し、我々は反射でコストカットしながら無駄を排除しつつ生きている。
この習性は、平成と令和という時代、政治とメディアが生み出したのだ。
新自由主義はコストカットを推し進め、自然な人間性を真っ先に排除した。
そのツケである。
人間性を否定されて育った我々は、人間性を死守するための最後の砦である「時間」をもっとも大切に扱っている。
もちろん、絶望の未来が来るその日までの有限な時間。
現在の経済生活を維持しながらの老衰を願う昭和の残響には、決して理解できない「有限性」の感覚。
故に、サイゼリヤ女子の件を一言で例えるなら、「もったいない」である。

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