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小学一年生の僕へ贈る手紙『社会に合わないという自覚があるのなら、社会の価値観に自分を適応させようと無駄な努力をするな』

京王線刺傷事件とJOKERの関係性を書いたが、僕自身強く思うのは『社会に適応できないという不安が強いのに、なぜ社会の価値観に自分を適応させ続けようとするのか?』ということだ。

もちろん人間的な生活より経済最優先の現代において、プラグマティックな戦略で社会に適応するように努力するのは当然の人生戦略だとは思う。

だが、発達障害関連の言説の悲喜こもごもを眺める限り、「社会に適応できない発達障害が悪い」ではなく、「そもそもなぜ社会の価値観に合わせなければならないのか?」や「そもそもなぜ社会の価値観って合理的なのか?」という議論をするフェーズに入ってきた世情の空気を感じる。

もちろん、かくいう僕もいわゆる発達障害的脳機能傾向にあり、社会に合わせることは間違いなく不得手である。

今回はそんな社会に合わせようとして四苦八苦している人に送る手紙。

そう、僕である。

僕はとにかく社会不適合者な健康優良不良少年であったが、事の挫折は学生時代である。というか、社会不適合者ってすべからく学生時代は地獄なのよね。

今回は社会不適合者が社会の縮図である日本の学校教育のどこに合わなかったのかという回想と、ピカピカの小学一年生の僕に送る手紙を書き連ねてみた。


なぜ私は学校ムラに適応できなかったのか

日本の学校教育は、特攻も厭わない同調圧力に忠誠を誓う軍国少年と過労死も厭わない会社組織に従順な企業戦士の育成のためのカリキュラムになっているのは言うまでもない。

僕はこのクソみたいない時代遅れの学校教育が、毎秒苦痛でしかなかった。


以下、学校ムラの考察とグチが続きます。

並べとか座れとか静かにしろとか五月蝿いくせに、教師たちの非合理的な学校運営は胸クソ悪いものでしかなかった。

個性が大事とか友達が大切とかいうくせに、結局は学歴主義社会でしかない現実を指導力のなさから有耶無耶にし、社会に出れば我々は自己責任の名の下で経済や人権概念に疎いムラ社会の百姓として現実を知る。

しかも学校教育の評価基準は、まさしくムラ社会的な同調圧力に従順な無個性平均人間と、99%学生時代以外使いようのない軍隊時代の忘れ形見であるスポーツ能力を過大評価している。

弱い者いじめするな、差別するなと言いながら、学校教育評価基準内で高評価の人間だけを特別扱いし、それに適さない人間は全員野球の名の下で無料奉仕させられる。

僕が言いたいのは、評価基準は必要だから依怙贔屓になるのは仕方がないが、それを美辞麗句で隠蔽することは責任放棄ではないか?ということである。


僕は神がかった運動音痴であり、いつも運動神経抜群なる同級生たちの応援なり手伝いをやらされていた。彼らは教師からも同級生からも、社会からも高評価及びチャンネル登録されまくっていたが、それは偏に僕のような平均値を出すための下位要員が存在し、僕のような下位要員の貴重な時間と労力を権威的に搾取していることの賜物でしかない。

それは良い。石器時代に生まれていたら僕は真っ先に口減らしされていただろう。

だが、美辞麗句により僕のような『学校教育評価基準の中で下位の者』を不当に扱うことが是とされている事実を認めないところに憤りを感じ続けていた。

はっきり言ってくれればよかったのだ。

「足の早い子は評価されるんだから、ダメな君はいろいろ手伝ってあげてね。これは日本の教育方針で決まっていることだから、文句があったら文科省に連絡してね」と。

評価基準は超官僚的であるのに、責任の所在は空気を読ませるという曖昧な感覚が非常に苦痛であった。


まあ、僕のような邪推と僻みに堕ちた堕天使はそうそういないであろうが、とにかくこの責任の不明確さが子供の頃から嫌で仕方がなかった。

故にヤンキーでもないのに反骨的な生徒として目をつけられており、もちろん学生生活は地獄であった。友人は数えるほどいたが、類は友を呼ぶという関係であったので打算的な関係であった。それが心地よかったけど。

体育祭や文化祭はもちろん参加せずサボる。もちろん異性に話しかけるわけでもなく、サブカルの世界こそ我が青春と現実逃避していた。

なぜ学生時代が地獄だったのか?

それは社会(学校ムラ)の価値観に合うはずがないのに、合わせようと必死だったからだ。

これだけ文句を言っておきながら、僕は『普通の暮らし』に憧れていた。

モテたいとかスポーツでヒューヒュー言われたいとか、そういうハイランクな生活ではなく、普通の学生生活が送りたかっただけなのだ。

だが僕の生まれ持った脳味噌は、この日本の学校教育には全くと言って良いほど適応できなかった。

責任所在不明瞭な「空気を読む社会」において、他者への共感力が壊滅的な僕の思考は異端のプレデターでしかなかった。

学校教育も、長時間拷問のように座らされ、自分のペースで勉強させてもらえず、多種多様な科目で平均値以上を取れば良いというシステムが肌に合わない。

はじめから『大学入試のために満遍なく平均値以上出せば良いゲーム』だと教えてくれていたら・・・いつもそう思う。

僕は教師の美辞麗句を大人の意見として取り入れ、神聖な教育としてのヘーゲル的な段階進歩する勉強方法を採用した。

これは僕には合わない。「そこは理解しなくて暗記すれば良い。テストにそんなに出ないし」そう言ってくれたら、躓いてもすぐ先に行っていた。

社会に出て気づいたのだが、僕は「ある程度の全体像を把握し、計画的に学ぶ」スタイルの方が合っていた。

押し付けられたり、明確な概念的説明もなく、「やらされる」勉強は不得手だったのだ。

言われたことに特に疑問も感じず、早々と割り切って勉強できる人間が初めから適応できる教育カリキュラムだったのだ。

だから教師の言うことを黙って聞く子が優秀だったのねと最近になってやっと気づいたくらい僕の脳味噌は学校ムラで村八分だったのだ。ぐすん。

これは社会に出てからも全く同じであった。


小学一年生の時の自分へ贈る手紙

友達100人作らなくてはと真面目に思い込み希望に胸を膨らませピカピカのランドセルを背負って玄関を出る小学一年生の僕に、今の僕が手紙を送る。

『学校は糞だ。何も期待するな。立派な人間を育てる機関というのはプロパガンダであり、本当は刺激に無反応でエラーの少ない工業ロボットを量産する工場だ。だが学校は社会の糞さを学べる唯一の機関だ。社会は糞だが、現状は社会でしか生きることができないから打算的に付き合え。学校は糞な奴が糞社会で如何に成功するかを学べる。最短距離で合理的に糞社会に適応できる術を学べ』

『教師は糞だ。自分の仕事を円滑に処理して退職金を満額もらえることしか考えていないから信用するな。だが教師が嫌う行動や言説は我慢しろ。なぜなら彼奴等が唯一の評価者だからだ。よって教師の個人的なバイアスを探り、それに合わせろ。ゲームだ。ポケモンの相性表を思い出せ。奴等は表面上しか見ていない』

『友達は糞だ。100人もいらんし、成人したあと付き合うやつはほぼいない。そんなもののために多感な時期を捧げるな。他人はポケモンだと思え。本当の友人とは、自分に近い脳味噌を持っているやつだけだ。わかりあえるとは脳が近いからだ。そうでないやつといると基本的に疲れる。疲れても良いから人と交流するのが楽しいと思うのなら、自分の体調に合わせて付き合う人と付き合い方を調整しろ。とにかく他人の評価ばかり気にして振り回されるな。お前のことを生涯覚えているやつなんて、片手で足りるくらいの人数しかいない』

『お前は糞だ。僻み根性が強すぎる。それはお前の承認欲求が強いからだ。だがそれは社会に合わせようと必死になるからだ。だが考えろ、お前はお前しかいない。せっかく人間に生まれたんだから好きなことをしろ。他人や社会の評価ではなく、自分が本当にしたいことをしろ。他人の評価は体裁を整える程度に参考にしろ。お前の脳は糞だ。日本社会には基本的に相容れない。それは諦めろ。だが気にするな。お前が悪いんじゃない。だから社会に自分自身を合わせるんじゃなくて、ゲームだと思え。それでもしんどいなら違う世界を見てこい。日本だけが世界じゃないし、日本の中にもいろんな世界がある。世界は一つじゃない。ちいさな世界がたくさんある。その中から自分に合うものを選んで、その中で必死に生きろ。その代わり、自分で選んだ道は責任を持って生きろ』

『追伸、お前が3年生の時に好きになるAちゃんはマジでやめとけ』


ということで、学校ムラの理不尽さ対策のライフハックを上から目線で伝える手紙でした。

というのも、学校ムラの理不尽さが社会不適合感の最初の一撃だと思うからだ。

いわゆる発達障害的傾向(僕は診断を受けたわけではないし、障害とするほど悩んでいないライフハックを身に着けているのでそのことはまた記事にします)がある人間にはあるあるじゃないかなと。

この手紙で書いたことは、要するに普通の人間のように「対社会ライフハック」を鵜呑せよということだ。

『普通の人はこうやっている』と。

だがそれができるなら苦労しない。

なぜ苦労するのか?それは誰も教えてくれないからだ。

現状の教育(親も含む)は、発達障害傾向者にわかりやすいように現実を教えてくれるところが皆無なのが最大の問題だ。


ではどう教えればよいのか?

まず自分が社会に合わないことを認めさせる。というか、そもそも社会に合う人間なんていないことを教える。そして、普通の人は社会に適応するために何をしているのかを教えるのだ。

僕は「普通の人はいつもズルをしている」と思っていたが、それこそ自分を守るためのライフハックなのだ。

社会に合わないくせに、社会の純心なところを信じているという相反する感情こそ現代の悲劇ではないか。


なので、まず社会とはどういうものかという全体像を提示し、普通の人のライフハックがズルではなく当たり前であることを知ることが必要だ。

ホンネとタテマエがわからないからこそ、教育の過程で受けたタテマエだけを鵜呑してしまい苦悶する発達障害傾向者が多いと思う。

ホンネとタテマエがわからないからこそタテマエ上のルールを遵守するが、それは本来ホンネとタテマエがわかっている人間にしか扱えないものである。

だから空気が読めない行動になってしまう。


この悲しい習性を、「本人のアイデンティティを傷つけない程度に啓蒙する」ことこそ、対社会ライフハックなのだ。

実は世間はこうなっている、実はホンネとタテマエというものがある、実はみんなそれを知っておりズルしている、だがそれが社会なのだ・・・と理解しなければならない。

メタ認知化することで、社会をゲーム感覚で処理する相手だと思うことが手っ取り早くコスパの良い対策なのだ。

すべてを1プレーヤーで戦うのではなく、適材適所のチームで戦うゲーム、それが社会との付き合い方だ。

詳細についてはまた書いてみたいと思う。


参考図書


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