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【ダンマパダ 160】 自分の主は? (草稿)

●はじめに

仏教、仏典につきましては以下のような見解で述べさせて頂いております。
何卒ご容赦賜りますよう願います。

●ダンマパダの160

160 自己こそ自分のあるじである。
他人がどうして(自分の)主であろうか?
自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

岩波文庫 『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元[訳] より

こちらは、ダンマパダという仏典を中村元さんが現代語訳したものです。

その第十二章は「自己」というタイトルがついています。
自己の在り方を考えるにあたり学びが得られる章だと思っております。

●結局誰の声にしたがうか

人の話をきくことはいいと思います。
かの新渡戸稲造氏も「ひとまず聞け」と仰ってます。

ただそうは言うものの、全部「人の言いなりになる」こともございません。
結局は「よくととのえた自己」こそが、「自分の主」ということです。

最終的な決定権は自分にあり、その責任も自分にある、と言えるのではないかと思うのです。

●自分というもの

どこかで述べたかもしれませんが、「自分」というものは周りの影響を多分に受けてその性格などを形成していきます。

遺伝によるもの、養育環境、言語など、それらは「自分が」ゼロから創り上げたものではなく、「すでにあった」ものです。

自己同一性を確立したとしても、周りの環境などの影響は無視できるわけでもなく、「声が大きい」人の意見に誘導されてしまう事だってあるのです。

「そんなことはない」と思われる方もいらっしゃるかと存じます。
ですが、大なり小なり「まわりの意見」というものに影響されるのは人間であれば仕方のないことだと思っております。

●「よくととのえた自己」

では自分というものは他人に従って生きていくほかないのでしょうか?
そこで「自己をよくととのえ」それを「自分の主」とする在り方が説かれているのではないでしょうか?

もしかしたら「どう”ととのえたら”いいのか分からない」と思うかもしれません。
それを説いているのがこのダンマパダであったりスッタニパータだったりします。

仏教的な言い方だと「法(ダルマ)」というものがあり、仏教でいう所の「八正道」というものもございます。
それを実践する事で「自己をととのえる」事ができるということです。

「八正道とは、涅槃に導く八つの実践徳目からなる聖なる生き方のことで、1.正見(正しい見解)、2.正思惟(正しい考え方)、3.正語(正しい言葉)、4.正業(正しい行動)、5.正命(正しい仕事)、6.正精進(正しい努力)、7.正念(正しい気づき)、8.正定(正しい精神統一) の八つから成ります」

「ねはんラジオ」さんが当記事のコメント欄に書いてくださったのでそのまま使わせていただきます。ありがとうございます。
「Radiotalk」で配信活動をされています。おすすめです。

●仏教じゃなきゃダメなのか?

ここは完全に私の意見を述べるだけとなりますが、何も「すべて仏教に従え」というわけでもないと思うのです。

確かに仏教では「自己をととのえる方法」を説いています。
ですが、結局自己こそが「自分の主」です。

私自身が、仏教や仏典に「なじむ」感覚を持っているので、そちらに興味が向いておりますが、「行きつく先」にたどり着く道はいくつもあるんじゃないかと思うのです。

たとえどんな方法であったとしても、「自己と向き合い」その上で「自己をととのえる方法」が見つかればいいのかなと思う次第です。

実際の所、ダンマパダひとつとっても、どれを引用して自らに取り入れるかは「私自身の主観」で選んでいるに過ぎません。

「私」の気持ちとしては「ひとつのもの」に偏り過ぎるのがイヤなので、いろんな思想や論理を「ひとまず聞く」姿勢を持ちながら「自己」という「自分の主」に沿う在り方を実践させて頂いておるというわけです。

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