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【ダンマパダ 50】他人の過失を見るなかれ(草稿)

●はじめに

仏教、仏典につきましては以下のような見解で述べさせて頂いております。
何卒ご容赦賜りますよう願います。

●ダンマパダの50

50 他人の過失を見るなかれ。
他人のしたこととしなかったことを見るな。
ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。

岩波文庫 『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元[訳] より

こちらは、ダンマパダという仏典を中村元さんが現代語訳したものです。

非常にストレートな一節ですね。
ダンマパダやスッタニパータ特有のたとえを一切用いず、わかりやすく単刀直入に説かれています。

こういう骨太なメッセージもいいなと思うのです。

●当たり前のことこそ肝に銘じたいのです

もはや(下手な)解説など不要で、そのまんまな一節であります。
こんなことは「当たり前じゃないか」と思われる方がほとんどではないかと思います。

私も、この一節そのものの印象は「当たり前のことが書いてある」と思った次第です。

ただし、頭でわかっているのと実際にできているかどうかは話が別だと思うのです。
なぜなら私自身が「有言不実行」に陥りやすい性質をもつ者だからです。

●100メートル先であっても鮮明にみえそう

包み隠さず申し上げると、人のやることなすことは気になってしまいます。

特に「人の失敗」や「義務を果たしてないこと」、「できていないこと」それから「いうことは立派だが全然できてないこと」は鮮明にみえてしまうのです。

●そういう自分は?

そんな私ですが、自分自身は「みえている」のでしょうか?
以前、「人は鏡」というような事を述べました。

「他人の過失」が目につくということは、「自分の至らなさ」を「他人という鏡」を通してみているということです。

「他人の過失」を「他人のもの」とせず、「自分の至らなさ」がそこに映っていると考えたならば、そういう意味では「鮮明にみえている」ことになります。

●曇った眼鏡で自分をみる

そのように「他人を通して」自分をみつめることもできます。
そして、自分ひとりであっても「自らを振り返ること」はできます。

ただ、自己擁護(言い訳)という「曇った眼鏡」をつけたまま自分をみつめたところで、それは鮮明にみえているとは言えません。

どうして私は、そんな「曇った眼鏡」を手放せないのでしょうか?
それは「過失だらけの自分」をみたくないからなんだと思います。

●意地でも認めたくない

そればかりか、そんな自分を他人になすりつけ素知らぬふりをして「けしからん」とその方を責めようとしてしまいます。

そういう所も含めて、私はなんとしても自分を「そのまんま」でみようとしないのです。

●眼鏡を外しても大丈夫

ですが、そういう自分をただ罰するのではなく、いっそ受け入れてしまった方がかえって、自分にとっても他人にとっても望ましい方向へ進んでいけるのではないでしょうか?

自分自身のことが鮮明にみえているならば、「曇った眼鏡」でみている時よりは「慎み深く」なれると思います。

慎み深くなれると自分自身を「よくととのえること」が可能です。
そして、よくととのえたならば「得難き主」を得る事ができます。

※前文下線部は前掲書籍より一部引用

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