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【ダンマパダ 5・6】 ループからの「解脱」 (草稿)

●はじめに

仏教、仏典につきましては以下のような見解で述べさせて頂いております。
何卒ご容赦賜りますよう願います。

●ダンマパダの5と6

5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みのむことがない。
怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

6 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
――このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

岩波文庫 『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元[訳] より

こちらは、ダンマパダという仏典を中村元さんが現代語訳したものです。

その第一章は「ひと組ずつ」というタイトルです。
二つので一組となっており、一つのだけを読むより二つを対比させながら読むとその意味がより鮮明となります。

ですので、今回は二つ引用しました。

●気持ちはわかるんです

「やられたらやりかえす」という気持ちは正直わからなくもないです。
ですが、「それだとそのループから永遠に逃れられない」と説かれています。

ですが、そう簡単に「うらみを捨てる」気持ちにはなれないと思います。
私だけかもしれませんが、なんというか「負けた気分になる」んですよね。

●何度でも述べたい言葉

そこで、ダンマパダの6が活きてきます。
これは「諸行無常」からくる考え方だと思います。

隙あらばいつも「諸行無常」と述べるようなイメージを持たれているかもしれないですが、私としては強く推したい「法(ダンマ)」なんですよ。

極論をいえば、私たち(すべての命)は「生まれた瞬間に(遅かれ早かれ)終わる」ということが確定しているのです。
だからといって自暴自棄になるのはまた違う話ですが。

●考えようによっては

こうは考えられませんか?
「いつその命が尽きるかわからない。それなのに争いごとでその生を浪費していいのか」と。

または、
「私という命の灯火は(遅かれ早かれ)消え去るもの。人と争って傷つけあってまでこだわるものは果たしてあるのだろうか?」
とも思えたりします。

●どう生きるか人それぞれではあります

あえて、執着して生きるというのであれば、そういう生き方もあるとは思います。
「命を賭してでも守りたいものがある」という生き様がそこまで悪いとは思いません。

ただ、「怨みの息やむことがない」覚悟はしておきたいものです。
これは倫理的に「いい悪い」をこえた「法(ダンマ)」なので、それが「正しいとか間違っている」というようなものではない、ということです。

●「怒り」との向き合い方

「怨みのループ」から抜け出すにはどうしたらいいか。
これについては簡単に答えを出せない現状ではございます。

ですが、争いのもととなる「怒り」をコントロール(一生全く怒りを感じないということではなく)するノウハウがダンマパダやスッタニパーダなどで説かれています。

それに限らず「怒りをコントロールする」技術はありますし、教えている方もいらっしゃいますね。

●まずは自己をととのえる

また、「執着しない」在り方も争いを生まないための智慧だったりもします。
ただし、「執着しないこと」というのは「全くのゼロにすること」だとか「全否定すること」ではないことに注意したい所です。

すべての人々とまではいかなくても、「怨みをすて」られる人々が多数派となれば、争うことがなくなっていくかもしれないですね。

それがいつになるかはわかりませんが、少しでも多くの方々が、ちょっとずつでも、その方向に進めたら何よりだと思います。

その第一歩として、すぐにでもできることとして、「自己をととのえる」ことに励みたい、といった所です。

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