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ダラムサラ 〜 標高2,000m超、インド北部、チベット難民が住む地域の山中で暮らした、1983年12月の10日間

前説

タイトル上の写真は、37年前の今日、1983年12月10日に、インドのダラムサラで撮った、筆者(右から 4番目)とチベット仏教の僧侶たち(僧侶および修行僧と言うべきかな)の写真。

タイトルは色々とアバウト(和製英語、というかもはや日本語)。ウィキペディア的に言えば、ダラムサラとはインド北西部、ヒマーチャル・プラデーシュ州(この州はその東側で略称「中国」のチベット自治区と接する)にある都市ダラムシャーラーの一角にあるチベット亡命社会の中心地(ダライ・ラマ14世も此処に居住)。つまり、1950年代後半のチベット動乱を弾圧した中国の暴力支配から逃れたチベット難民の、その多くが住むところ。筆者が宿泊していたのは人々が普通に住んでいるところから更に登ったところにある、山中の山小屋みたいなところなのだが、まぁしかしこれもダラムサラのたぶん一部と言っていいのだろうし、何処にいたのかと言えば「ダラムサラにいた」としか言いようがないのではあると思う。標高に関しては文字通り(日本語で言うところの)アバウトであり、あ、これは英語で言っても一応、about 2,000m と言っていいのか。要するにテキトー。ダラムサラは標高 1,457m ということになっているが、筆者がいたところはアッパーダラムサラと呼ばれるところで、当時の日記を見ると「マクロドガンジに降り、ホテルのシャワーを借りに行ったのだが」(ママ)といった記述があり、再びウィキペディアを引っ張り出すと、その「マクロード・ガンジはダラムシャーラーの郊外の標高2,082mの山間にある」(マクロード・ガンジ McLeod Ganj というのは、ダラムサラの中で亡命チベット人の特に多数が暮らしている地区)。だから、筆者がいた場所は、それ以上に高い高地だったということになるはず。よって、「アバウト」2,000m超。

もう一つのアバウト。あっとこれも意外と英語の about に置き換えてもほぼ OK だったなぁ。つまり、アバウトに言って about, ワケ分からん(笑)。要は、ダラムサラにいたのは約10日間, about 10 days, 正確に言うと 8泊9日だった。

そして、更に細かく言うと、そのうち最初の 1泊はマクロード・ガンジの中心部に位置する宿(いま宿の名でググったらそう書いてあった)に泊まったもので、残りの 7泊8日間はそこから更に登ったところの山中の山小屋に滞在したのだった。

筆者が日本を発ったのは、1983年4月26日。バックパック一つ、横浜港をフェリーで発ち、1960年911にこの世に生を受けた筆者の人生の初の外国は今や存在しないソヴィエト連邦、現在のロシアとなった。そしてハバロフスクに 1泊、途中イルクーツクにも 1泊しつつシベリア鉄道で西を目指し、モスクワ 2泊の後はフィンランドへ。それから先は 2ヶ月間かけて北欧からギリシャまでヨーロッパを南下、さらに真夏のアテネと地中海の島サントリーニを合わせてギリシャに 1ヶ月滞在した後、陸路トルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナとイスラエル、そして当時は今現在のようなイスラエルによる違法な軍事封鎖でなくイスラエルによる同様に違法な軍事占領下にあったガザ地区(違法な軍事占領と言えば東エルサレム・ヨルダン川西岸地区は今も、そしていずれにしても言うまでもなくパレスチナの一部)から陸路エジプト、カイロへ。カイロに 1週間ほどいた後は、その旅で初めて飛行機を使ってトルコのイスタンブールに戻り、以降は再び陸路、東へ東へと進む、再びのトルコの旅。その後、そのまま陸路でイラン(イラン・イラク戦争中だったが戦争は両国の国境地帯でやっていて、旅行者としてトルコとの国境を通過してイランに入国することは可能だった)、そしてパキスタンを旅し、同年(長いな、ここまで、同年というのは 1983年!)11月29日にパキスタンのラホールを発って当然ながら陸路インドに入国、まずはシク教の聖地アムリトサルに 4泊5日。

そして、12月3日にアムリトサルをバスで発ち、7時間以上かかってダラムサラに着いた時は、既に辺りは真っ暗だった。当時の日記によれば、アムリトサルからダラムサラに向かうバスは 1日2本 のみで、その後発、昼12時20分発のバスに乗車したとある。因みに最近はどうだか知らないが(今もわりとそういう面はあるだろうが)、インドでは列車が時刻表通りに来ることは極めて珍しかったが(ひどい時は何時間でも遅れる)、バスはまぁまぁ驚くほど遅れるということでもなかったと思う。

そういうわけで、真っ暗になっていた時に着いたダラムサラの最初の晩は、チベット族の人たちがたくさん暮らしている街中の宿に泊まり、翌日、更に登ったところ、山中の山小屋に居を移して(山小屋、山小屋と書いているが、かなりの安宿とはいえレッキとした宿)、そこに 1週間、7泊8日間滞在しながら、山の中を歩いたり、ヒマラヤの一角の景色を眺めたり、街中に降りて博物館に行ったり、レストランで食べたり、チベット族の女性たちがカーペットを織る様子を見物したり、チベット仏教の僧院に行ったり、修行僧たちのところを訪ねたりしていた。

1983年から 1984年にかけてのその旅は基本「一人旅」だったけれど、ダラムサラ では筆者を含む 4人のバックパッカーで同宿していた。旅の最中、国籍なんてあまり気にしなくなりつつも(しかし細かいこと言うと却って気になる時もあった)流石に「基本情報」的に、親しくなった旅人には「何処から来たの?」とか尋ねたりもしたわけだが(しかし例えばトルコのイスタンブールで会った旅人にそれを訊いてこれも例えばながら「インドからだよ」と応じる相手に "Oh, you came here from India, and where are you from?" と再び尋ねると "Italy" と答えが返ってくるなんてこともあるわけだが)、その 4人のうち半分、二人はドイツ人だった。

一人は、筆者がトルコから陸路イランに入った際に知り合い、イラン、パキスタンを一緒に旅して、更にインドに入ってからもアムリトサルとダラムサラまでの旅を共にしたドイツ人の青年。1960年生まれの筆者より若干若かったと記憶。もう一人は女性で、彼女の名前は当時の日記を捲らなくても言える、多分いつまでも忘れないだろう、レナーテ(フルネームで記憶しているけれど、「レナーテ」とファースト・ネームの方で呼んでいた)。

レナーテは筆者と同じ年齢だった。筆者の日記によれば当時 23歳。筆者もその旅の途中、1983年9月11日にシリアのパルミラで 23歳の誕生日を迎えていて、

だからまぁ同じか、ほぼ同じ歳だったことになる。彼女はパキスタンのラホール(だったと思う)から他の日本人男性バックパッカーと一緒で(イスラム圏は女性の一人旅は色んな意味で困難を伴うので、女性バックパッカーは便宜的に男性の相方を見つける例が少なくない)、その筆者以外の日本人バックパッカー(彼も同じ歳、彼は正真正銘、という言い方も妙だが、要するに日本的に言えば「同じ学年」の年齢だった)を含み、アムリトサルとダラムサラでは、ドイツ人男女2人、日本人の男2人、計4人で宿をとったのだった。

ダラムサラの後は、4人散り散りになって、つまりそれぞれ一人旅に戻ったのだが、因みにレナーテはお母さんがドイツ人で、お父さんはインド人、彼女の旅は幼い頃に別れてしまったインド人の父と再会するための旅でもあった。

レナーテ!

ダラムサラ 〜 ヒマラヤを拝み、チベット仏教の僧侶たちと親しみ、チベット難民の街を歩き ..

長々と「前説」を書いたのに、そして当時の日記には実に色んなことが書いてあるのに、ここから先は写真中心になると思う。

書いていて何となく疲れてきたのだ。と言っても、心地よい疲れ。で、当時の出来事の細かいことは、また気が向いたら note に書こうと思う(あくまでも「気が向いたら」!)。

一言、この時の旅とは関係ない妙な「思い出し記」を書いておくと、筆者がチベット仏教というものの存在(だけ)を知ったのは、1972年6月から翌1973年6月にかけて(筆者にとっては小学校6年から中学1年にかけての時期だった)当時の「週刊少年マガジン」に連載されていた天才・奇才の漫画家・永井豪の作「デビルマン」(TVアニメ版の方でなくあくまで漫画版)を通じてだった。あのSF漫画、ある種のホラー漫画の傑作、基本は強いて言えばキリスト教における概念から拝借してきたと言えるデーモンやサタンなどが登場しながら、その壮大な物語の終盤の方でチベット仏教の僧侶たちまで出てくるのだ(「時代」を感じさせる表現だが、「チベット仏教」という言葉ではなく、今はほぼ使われなくなっている「ラマ教」という用語が使われていたと記憶している。ついでながら、ダラムサラを旅していた1983年当時の筆者の日記においても、「ラマ教」「ラマ僧」といった表記が目立つ。今は筆者も使わない言葉だけれど)。

因みに筆者、ダライ・ラマ14世の住居の前にある寺を訪ねてチベット仏教僧たちの修行の様子を見せてもらった際(1983年12月7日)、ダライ・ラマ本人に会おうとしたのだが(在宅中である限り、申し込めば基本的に個人でなく複数ごと一般接見してくれる)、会おうと思ったその日はたまたま都合がつかないとのことで「今日は駄目。2~3日後なら可能」との係官みたいな立場のところからの返答があって、結局、そこまでの拘りがあったわけでもなくその後 12月11日にダラムサラを発った筆者は、ダライ・ラマ本人に会うことはなかった。 

というわけで(どういうわけだ?これは「禅問答」です、禅はチベット仏教ではないけれど、笑)、今日は以下、写真中心。

で、明日か明後日、今日のこの note 投稿の「前説」で触れ、以下の写真のキャプションの中でも少し触れる、同宿だったインド系ドイツ人女性の旅人、レナーテの思い出に纏わる note 投稿を、別途しようと思っている。

ではでは、ダラムサラで撮った写真 21枚と、そのうちの何枚かに思い切り短めのキャプションをば(いや、ところどころ長くなるかも)。

キャプションというのは普通は写真の下に置かれると思うけれども、以下では便宜的に各写真のそれぞれ上。

1) 泊まっていた山小屋から少し(たぶん!)歩いて撮った写真。ヒマラヤの一角が拝めるのだ。写真ではなくて、肉眼で見たら、泣けます(まぁ泣きはしなかったと思うけど、絶景!)。1983年12月6日撮影。

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2) 街を眺める。

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3) チベット仏教の仏塔。仏舎利(釈迦の遺体・遺骨、またはその代替物、だからここでは当然ながら代替物 .. だよね?)を安置した仏教建築。卒塔婆、塔婆、塔、ストゥーパといった呼称は全てこれを指すわけだけれど、「ストゥーパ」はサンスクリット語由来の言葉で、仏教がインドから中国に伝来した古代、中国語に音訳されたのが「卒塔婆」。「塔婆」や「塔」はその略称で、日本にある五重塔などもこうした仏塔の一つ。チベット仏教では日本語のカタカナ表記すると「チョルテン」と言った呼ばれ方になると思う。

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4) これはもちろん、お釈迦様 .. のカタチを彫った、いわゆる仏像。仏像はほんと、国によって、民族によって、宗派によってもかな、兎に角だいぶ趣が違う。

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5) 再び、泊まっていた山小屋から少し(たぶん! .. 「しばらく」だったかも)歩いて撮った写真。

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6) チベット仏教の僧侶たちの修行の様子(ダライ・ラマ14世の住居の前にある寺にて)。チベット仏教の「討論」。二人ずつペアになり、一方(立っている方)が質問し、手を打つ。そして、他方(日本語の言い方で言えば「座禅」している方)が答える。これを続ける。この「討論」、チベット語で何と言うのかまでは知らないが(ググって知ったかぶりすることは可能だけれど、素人が書いて素人が読むとまさしく俗語で言うところの「禅問答」みたいになるので控えます、笑)、禅宗における「禅問答」も源は同じだろうか。

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7) 同上。真ん中に写っているやや背が高い人は白人僧。いや、肌の色などどうでもいいのだが、とにかく、欧米系の人。いちいち尋ねもしなかったので、欧米の「欧」なのか「米」なのか、あるいは中米もしくは南米の人なのか分からないけれども、後者も勿論あり得ないとは言えないが、当時の時代からしたらいわゆる「欧米」人だと思う。より正確を期すと、日記には「白人僧」としか書いてなくてそれ以上の詳細を残していないだけで、尋ねたかもしれないのだが、となると37年前のこと、流石に忘れた(笑)。これって読者から訊かれてもいないのに書いていて、ワケ分からん?「禅問答」みたいか。いや、禅問答もちゃんと尋ねる人と答える人がいてこその問答なので、このキャプション、禅問答ではない。こんなこと書いていてもキリないので、やめ(爆)。これは「自爆テロ」の「爆」ではなくて「自爆笑」の「爆」。仏教では普通(普通!)「自爆テロ」などしない(はず!)。

ごちゃごちゃ百済ない、あ、くだらないことを書いてしまったけれど(あ、百済は日本へ仏教を伝来してくれた朝鮮半島の国の名、百済がないと「くだらない」結果になってしまうくらい、百済は大切)、この写真のキャプション(長いな)の最後に真面目な一言。

見ているだけでも非常に面白い、実に興味深い、チベット仏教の僧たちの修行の様子だった。

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8) チベット仏教僧たちの修行の様子を見た後、街に行って撮った写真。チベット族の御婦人や若い女性などが、カーペットを作っているところ。何人かは歌いながら仕事していた。苦役でなく、楽しんでやっている労働という感じで、好印象だった。

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9) ちょっとピンぼけ(筆者はロバート・キャパなのだ .. なことぁない)の写真だが、前章「前説」に書いた 4人、つまりドイツ人の青年、インド系ドイツ人の女性、日本人の男性、そして筆者(全員、バックパッカー)の計4人が 7泊8日した山小屋。

アムリトサルを発ってダラムサラに着いたのは 1983年12月3日の夜で、既に街は真っ暗、その日だけは街中の宿に泊まった。4人で一部屋取って、ドイツ人青年だけベッドに寝かせ、残る日本人の野郎 2人とインド系ドイツ人の女性レナーテの計 3人は床に雑魚寝した。レナーテは "This is my way" と言って笑っていた。

そして翌日、12月4日に、街から更に登ったところ、ヒマラヤの一角を拝める素晴らしい景色の山中に居を移したのだが、それがこの山小屋。

当時の日記を斜め読みすると、その「ダブルルームの空き部屋が 2つあった」ところを確保したもののようだ。

ドイツ人の二人が 4人一緒に一部屋取ることに拘ったので(まぁ女性はレナーテ一人だったし、誰がレナーテと同じ部屋になるのだ、という話も面倒くさかったかもしれない、それにレナーテ一人にしたら寂しいだろうし)、結局、片方の部屋だけ使って、4人一緒で同部屋にした。この山小屋のマネージャー(「因みに」程度の情報だけどチベット人でなくインド人だった)は「警察にダブルとか値段とかを登録していることが気になる」とかで、一部屋に 4人で泊まることが記録に残ることを嫌い、それを受け入れて、部屋は 2つ取り、その分のカネだけ払って(当然それはマネージャーの望むところだっただろうけれど)、実際には片方の部屋だけ使うということにした。ここに 7泊8日。

レナーテはドイツ人のバックパッカーだったが、父親はインド人。彼女が子どもの頃に両親は離婚し、親父さんは故郷の南インドに帰ってしまった。で、彼女は父親の当時の住所を知っていて、レナーテの「母国」ドイツ(当時はベルリンの壁の崩壊前、よって西ドイツ!)を発って中東を経由してインドまでやってきた旅は、単なる放浪の旅だけのものではなく、父親に会いに行く旅でもあった。ダラムサラに来る前のアムリトサルで撮った数枚の写真を載せた別の note 投稿の方で分かるけれど、実際、レナーテは東洋系の顔をした女性だった。

英語で話すときは "Maybe" が口癖だった。朝、顔を洗ってると 、笑いながら "Maybe you can lend me your towel" と言って近づいてきたレナーテの顔や、その時の彼女の声は今でも思い出せる。あのバックパックの海外「放浪」もどき旅で出会った女性バックパッカーで抜きん出て、最も印象に残っているレナーテ、ああ、懐かしい。

というわけで、レナーテへの郷愁については、明日か明後日あらためて note 投稿する、その中でまた(笑)。

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10) 写っているのは 4人のうちの筆者ではない方の日本人(まぁ顔はよく分からない、つまり個人が特定できるわけではないのでいいでしょう)。

というわけで、上の 9) の写真とこの写真の関係はどうなるのかな。タオルとか靴下とか干してあるし、泊まっていた宿(の一部?)と思えるのだが。当時の日記を精読すれば何か分かる可能性はあるものの、今日のところは謎のまま(笑)。

泊まっていたのは 10) の方だけで、9) は近くにあった別の山小屋だろうか。いや、違うはず。9) の写真の手前の空き地、あの辺で洗濯物を干したり、朝、顔を洗ったりしていたのを憶えている。そこでレナーテが毎日のように "Maybe you can lend me your towel" と話しかけてきたのは記憶に新しいのだ。「新しい」というか、37年も前の話なのだが、レナーテのその時の顔の表情も、声も、忘れられない、そのまんま頭の片隅に残っている。

要するにこれは、9) の写真の一部を別の角度から撮ったものだろうか。撮影者は間違いなく筆者自身なのだが、詳しいところ、思い出せない!

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11)~16) 山小屋を出て、さらに高い方、山中を歩いた。暗くなる頃まで歩いて、その時に撮った写真。肉眼で見るともっと見事だったはずだが、今こうしてセピア色になってきたような写真で眺めても、当時見た素晴らしい景色を思い出せる気がする。

ここから 6枚はその時の写真。

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17) 街中のカーペット製作所、8) の写真を撮影したところを、再び訪ねた。とにかく、楽しそうに働いている。

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18) 街で撮った一コマ。

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19)~21) ダラムサラに着いた日の翌日、1983年12月4日に知り合い、その後、夕食を御馳走してくれたり、朝食を御馳走してくれたり(「御馳走」という漢字を書いているが、チャイ・パンケーキ・オムレツなどで当然ながら「豪華」なものでなく質素、しかし美味しく、勿論ありがたかった)、いろいろと案内してくれたチベット仏教の若い僧侶の簡素な僧院にて。

最後の一枚は、本 note 投稿のタイトル上の写真に使ったもの。その写真 21) の右端が上記の僧侶、右から 4番目は筆者(当時 23歳、今年「還暦」)。

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ダラムサラで一緒だった、インド人が父親のドイツ人女性バックパッカー、レナーテを想い出して 〜 インド人のシタールの達人ラヴィ・シャンカルを父親に持つ異母姉妹、ノラ・ジョーンズとアヌーシュカ・シャンカルが共演した曲で締め括り

今日の「ダラムサラ」note 投稿で触れた、そして先月、11月30日付の「アムリトサル」note 投稿でも触れた、そしてアショカ大王、じゃなかった明日か(なんだこの駄洒落は、と自問自答の禅問答)明後日の note 投稿でまた書く予定でいる(しつこいね、しつこいよ、とこれも自問自答の禅問答)、37年前の晩秋から初冬にかけて(これ、しかし日本式の季節の言い方だね、そうだよ、とまたまたこれも自問自答の禅問答)、インドのアムリトサルとダラムサラで、合わせて 2週間ほど一緒だったインド系ドイツ人、同じ歳だった(だから今も同じ歳だね、そうだよそうだよ、とまたまたまたまたこれも自問自答の禅問答)、当時の海外「放浪」もどき旅で出会った女性バックパッカーの中で抜きん出て、つまり最も、今も(「今も」「トランジスタラジオ」♫ あ、これじゃ清志郎の歌になるね)、強く印象に残っているレナーテを想い出して、そうなのだ、父親がインド人のレナーテを想い出して、

本 note 投稿の最後は、父親はシタールの達人であるインド人ラヴィ・シャンカルで(母親は違うけれど)姉妹のアヌーシュカ・シャンカルとノラ・ジョーンズ(あ、細かいこと言うと、お姉さんは後者ノラ・ジョーンズ)が共演するこの曲、この歌で締め括り!


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