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私のキャリアトランジション~国際支援から地方移住、そして森林と人との関係へ〜「私とコミュニティの話」トークイベントレポート

暮らしのサービスcircleでは、今月11月を「トークイベント月間」として、様々な方と対談・トークイベントを開催しています。

一人一人のストーリー、人生を変えた出会いや模索について取材しているcircleのnote連載「私とコミュニティの話」より、トークゲストをお招きして11月22日(水)にオンライントークイベントを開催しました。


トークゲストのご紹介

斎藤 健介さん

大学院在学中のJICAインド事務所勤務を経て、JICA青年海外協力隊にて約5年国際支援活動に従事。アフリカ・セネガルでの学校給食の普及活動、教育省での勤務を行う。
日本に帰国後、ベンチャー企業での組織コンサルなどの仕事を経て、神奈川県南足柄市に移住。行政や地元企業などの共同出資で設立された「株式会社あしがら森の会議」の代表取締役を務め、森林が面積の約7割を占める南足柄市の林業の6次産業化を通じたまちづくりを進めている。

聞き手・司会: 紺谷弥生さん

クラウドワークスで新規事業としてコリビング・多拠点の暮らしのサービス「circle」を立ち上げる。最近、個人Xアカウントを開設しました!
紺谷弥生@circle代表/Yayoi Kontani

国際支援に興味を持ったきっかけ 

紺谷:そもそも、国際支援のお仕事に興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか?

斎藤さん:私が中学生くらいの頃、当時、国際協力や国際支援の分野で活躍されていたのが緒方貞子さんでした。緒方さんが国連難民高等弁務官の代表をしており、そういう世界の舞台で活躍しているという情報がメディアでも流れていて、そこに対する漠然とした憧れを持ち始めたのが一番大きなきっかけでしたね。
そこから何となく、自分もそのような道に進みたいと感じるようになっていきました。

紺谷:メディアなどで海外の出来事や活動の報道を見ても、普通だと「遠い人のこと」「遠い国のこと」という風に捉えてしまいそうで、 皆が皆、興味を持てるわけではないのかなと思ったんですが…
斎藤さんとしては、なぜその時に興味を持つことができたと考えてらっしゃいますか?

斎藤さん:私が興味を持てた要因としては、アフリカに対する漠然とした憧れがあったからなのかな、と考えています。

当時は何も知識がなかったので、アフリカは未開の地だ!と思っていて、そういう場所に「行ってみたいな」とか、「自分で体験してみたいな」という好奇心があったのが、大きな要因になったんだと思います。

今振り返ってみると、仕事や活動としての緒方貞子さんへの憧れと、アフリカという土地に対する漠然とした興味関心が重なり、アフリカでの国際協力活動に興味をもったのかなと思いますね。

漠然とした憧れを少しずつ具体化していくために、キャリアとして取り組むにはどうしたらいいのかなど、色々調べたんですよね。
自分で調べてみる中で、大学院の修士号があったほうがよさそうだな、専門性が何かしらあったほうがよさそうだな、と気づきを経て、自分なりに考えてそれを形にしていくために色んなことを続けてきたというのが、今につながっているのかなと思いますね。

紺谷:なるほど。いま参加者さんからのコメントにも、「確かにアマゾンとか先住民とかに憧れていた時がありました」とコメントが来ました(笑)

海外の中でも”未開の地”に憧れがあり、国際活動についてメディアを見て興味を持っていった…ということだと思うのですが、他に海外や将来の仕事について、幼いころに興味が湧いたことなどもあったりしたんでしょうか?

斎藤さん:そうですね。最初は広い意味で興味を持っていったんですけど、例えばじゃあ海外でも、アメリカとかヨーロッパとかで働きたいか?と言われるとそうではなくて、アフリカやそれ以外の途上国と言われる地域で働いてみたい、という感覚は当時からありましたね。

紺谷:なるほど。 お話をお伺いしていると、新しいことに踏み出していきたいという気持ちが幼い頃からあり、そこから仕事としてそれをやっていくために、逆算して準備しておいたほうがいいことなどまで具体的に考えて取り組まれてこられたのだなと…本当に凄いなと感じました。

インド事務所でのインターンは人生の分岐点

紺谷:青年海外協力隊に行かれる前に、大学院時代にJICAのインド事務所でインターンされていたとのことなんですが、その頃の思い出とかってありますか?

斎藤さん:私が23,4歳の頃の話ですね。実はインド事務所へのインターン自体も、偶然が重なって叶ったことなんです(笑)

というのも、当時大学院で専門分野の勉強をして、将来は国際協力の仕事をしたいなと引き続き思っていたんですが、調べてはいるものの、やっぱりどうやったら本当にその仕事に就けるのかが分からなかったんですよね。自分自身、自信もない状況でした。

そんな時に、大学院で一緒に学んでいた子が「JICAで国際支援の活動のインターンを募集してるみたいだよ!海外で長くやれるらしいよ」という話をその募集の締め切りの直前に話してくれて、「あ、出してみるか」っていう感覚ですぐに申し込みをして、それで実現した、という流れでした(笑)

そうしてインド事務所に採用されて、色々やらせていただくことになりました。
せっかくなので、広いインドの中で国内出張を沢山しようと思い、様々な場所に出向き、インド内の他の団体やNPOの活動を調査したりしていました。子供の教育分野を大学で専門として学んでいたので、そこに関わるようなことも調査させていただいたりしました。
一言でいうと、すごく楽しかったですね!(笑)

他にも、この活動を通じて私にとって大きなターニングポイントになる出来事がありました。

インターンを経験させてもらってはいるものの、「今後、生活が成り立つような継続的な仕事として、国際支援に関われるのだろうか」といったような不安はやはり拭いきれておらず、自信もありませんでした。
そんな中、インターンを一緒にやっていた方から「JICAの青年海外協力隊で、2年間海外赴任でのボランティアの募集が出ているよ!」という話を教えてもらいました。

ここでも人に教えてもらって即決で(笑)、すぐに応募を出して、受かり、次はセネガルに赴任することになりました(笑)
基本的には、無計画なんですよね!(笑)

紺谷:当たり前のように流れるようにお話されてますが、決断力や行動力が凄すぎるという印象をもってしまいました…(笑)
インドの事務所では、基本的には自由に色んなことをリサーチされていたとのことですが、当時のインドの子供への教育の取り組みはどのような感じだったんでしょうか?

斎藤さん:大分前の話ではありますが、私は当時、首都のニューデリーに勤務していまして、広いインドの中で地方出張も多くさせていただきました。やはり、都市部と地方の差はすごくありました。

就学率はそこまで低くなかったんですけど、提供している教育の内容が全然違うということもあって、経済力の差が受けられる教育の差につながってしまっているのを実感しました。

紺谷:今ではインドは超巨大大国で成長の最中ですけど、当時はそのような課題を感じていたんですね…
そこでインターンを一緒にしていた方から、青年海外協力隊の募集を教えてもらったことも面白いですね。

斎藤さん:そうですね。
本当にその方からのお誘いがなければ、募集も知らなかったですし、応募することもなかったかなと思うと、人生って面白いですね。(笑)

紺谷:確かに、偶然やタイミングもあったとは思うんですけど、募集があることを知っても「どうなるんだろう?」とか「受かるのかな?」とか、 「海外に行くことが実現したとして、その後の自分の仕事や生活ってちゃんとやっていけるのかな?」など、心配しだしたらきりがなく、動けなくなってしまう方もいると思うんです。
斎藤さんのその思い切りの良さ、行動する力はどこから生まれてるんでしょうか?

斎藤さん:「行動力がある」という風に言っていただけることは確かに多いんですが…(笑)
決して、将来なんて一切考えてません!みたいな人ではなくて、実はすごく心配性だし、悩みもいっぱいあるんです。大学院時代も、周りの大学の同期はどんどん就職が決まっていく中で「ここでまだ勉強するとか言っていていいのかな」と思い悩んだこともありました。

大学院卒業後も、「確かに国際支援の仕事がしたいんだけど、これでいいのかな」とか常に考えていましたね。
ただ、根が頑固なので(笑)、不安な気持ちも抱えるし、やらない方がいいんじゃないかみたいな心の声も聞こえるんですけど、 結局やりたいことをやっちゃってるっていう人生の選択をしているのかな、とは思いますね。

人生の意思決定の仕方

紺谷:毎回、そういった大きな行動を選択するときは、どのように自分の中で意思決定されているんでしょうか?

斎藤さん:悩みながら、結局動いていってる、というところなんだと思います。動いている時点で、結局自分が本当はやりたいなと思っているということなのかな、と思います。
悩む風に装いながら、結局悩まないで決めて動いてるのかな、って気がしました。(笑)
まあでも、見えない不安も日々あるんですけどね!

不安をあんまり人には言わないんですよね。
自分の心の中では本当はめちゃめちゃ不安なんですけど、それをなんか人に悟られるのが好きではなくて。
だから、あまりそういった不安を話さないので、周りから見ると何も不安がないように見えることも多いみたいなんですが、本当はすごく不安で色々と考えている。でも根が頑固だから譲らない、っていう人生を歩いて来たかなという感じですね。

アフリカ・セネガルでの経験

紺谷:なるほどですね…
青年海外協力隊でセネガルに赴任されて、そこではどのような経験をされたのでしょうか?

斎藤さん:青年海外協力隊のボランティアの枠は、2年間と期間が決まっているんですが、その2年間で学校給食に関わるような活動をしていました。
その後、日本に帰ってきてしばらく国内で仕事をしてから、もう一度5年ぐらいセネガルに赴任をしていたという感じですね。

得られた経験や思い出はたくさんありますが、合計7年もいると、現地のセネガルの子供たちも成長するんですよね。出会った頃小学校六年生になってた子が、もう中学・高校ぐらいまで進学していたり。

その中で、 僕が赴任していた地域は、遊牧民族の子供がいるような地域で、そこの習慣として”早くして結婚する(早婚)”っていう風習があったりするんですよね。
会っていた子供たちが、普通に学校を退学して結婚したりするっていうのはかなりの衝撃でしたね。

やっぱり、結構ズシンとくるものが私の中でもあって。
勉強を頑張っていたりとか、将来はこういうことをしてみたいと私に語ってくれていた子が、結婚した後に偶然会ったとき、なんとも言えない表情をしていたりしていました。
彼女の表情が、僕の前に顔を見せるのはなんか気まずいというような表情と、でも自分の中でこの人生の選択を納得させようとしているような表情でいろんなものが合わさっているように見えて。

結果的に彼女の人生が幸せであって欲しいなとは思いますし、今も彼女は良い時間を過ごしてるのかな?と考えたりします。この経験は、私にとっては大きい衝撃でしたね。

紺谷:早婚のすべてが悪いわけではないけれども、そういう風習やカルチャーを見て、色々と感じるところがあるということですよね。

斎藤さん:本当におっしゃっている通りで。
僕が当時現地でやっていた仕事は、いわゆる近代的な教育、西洋でスタンダードと言われるような教育をアフリカ式に形を変えて普及していくみたいなことをやっていたんですけど、その近代教育の在り方がすべてじゃないよねみたいなとこも哲学的な視点で考えたりもしました。
子供たちが生きていくうえで、学ぶべきことってもっとあるわけだし。

仮に学問がわからなくても、子供たちは羊の操り方を知っていたりするわけですよね。本当の学びってなんだろう、みたいなことも、子どもたちとの関わりや村で自分が仕事をする中からすごい感じさせてもらって、学ばせていただいたと思っています。

活動の中での難しさ、面白さ、やりがい

紺谷:そうですよね…任務としては給食の普及や学校教育の改善などに取り組まれていたと思うんですけど、活動する中で進める難しさや面白さはどういったことがありましたか。

斎藤さん:私は、給食に関する活動と、2回目の赴任では教育省というセネガルの国の組織に入って、先生のトレーニングや小学校の先生が子供たちに教えるための教材作り、トレーニングをするための場作りなどをしていました。

国が違うと、仕事の仕方も全然違うんです。
時間の流れがすごく穏やかなので、全然計画通りに進まないこともあります。けれども、それが彼らのリズムとして良しとされるものだからしょうがないよねとなったりとか。
面白さでいうと、教育省にいた頃、全国規模の仕事だったんですが、教育者の中で役人の人たちがこれをやりたい!ってなったら一気にワーッと広がるんですよ。物事が動いて広がっていくという面白さは、すごくあったなと思います。

一気に広がる推進力や広まりの速さは面白さの一つで、最初のボランティアの2年間ですごく学ばせてもらいました。
合わせて、全体感を持って物事を動かす楽しさも、セネガルでは教えてもらったなって感じですね。

紺谷:給食の普及活動では、先生や給食を作る方との関わりや連携を作っていくというところですごく現場を作っていく感じが想像できますし、教育省でのお仕事のほうは、国と全体の教育を考えて動かしていくと捉えると、ミクロもマクロも動かす経験ができたということなんですかね。

斎藤さん:”支援”といわれる仕事って、どうしても外の人や外の力を持って中を変える、みたいなエゴがどうしてもあると思うんですけど。
一番の学びは、結局中の人が納得してやりたいことしか物事は動かないなと思うし、それが真理なんだろうなっていうのはすごく学びました。

日本的な教育の取り組みの紹介もたくさんしましたし、現地で納得していただいたものや導入していただいたこともあったんですけど、やっぱりセネガルにはセネガルの文化があると思いましたね。
文化という言葉も、深い意味がある”文化”なんですけど、文化っていうものをちゃんと大事にすることは、それぞれの文化を尊重する意味でも、支援の意味でもすごく大事だと感じます。

紺谷:逆に、全然遠い国だけれどもなんか日本と同じようなものを感じるなとか、これはもう国とか関係なく普遍的なことだなとか、そのような気づきはありましたか?

斎藤さん:「本音と建前」って、アフリカでもあるんだと思いました!(笑)
セネガルでも本音と建前をすごい使い分けていて、建前で「あの人はすごい」とか「こういうことは素晴らしい」って言いながら、その影でお茶を飲みながら本音の不満をめちゃめちゃ喋ってくる人とかがいて(笑)
人間って、やっぱり多面的なんだなと思いましたね。

他にも、面白い話でいうと、セネガルの主流民族のウォルフ族の挨拶で「ナンガデフ」というと「マンギフィレック」と返す、一連の流れがあるんですね。
この挨拶を日本語に訳すと「何してるの?元気?」「私がここにいるだけです」って意味なんです。

もうこれは、禅の世界だと感じました。
「私がここにいるだけです」という言葉、”在る”ということ、これが挨拶の言葉で表現されている感じが、とても深いなあ…と。
禅は東洋的思想だと思っていたんですけど、人類の起源であるアフリカでもそういう発想で生きてきたのかなと想像を広げていくと、非常に興味深いなと感じました。

他にも、「ジャーマレック」と返す現地の挨拶があって、それは「平和だけがここにあります」って意味なんですよ。
もうこれは日々の現地の挨拶ルーティンなんで、言葉の根源的な意味を捉えて喋ってる人はほとんどいないんですが…
改めて”言語”っていうところにフォーカスさせて立ち戻ってみると、「マインドフルネス」という言葉があるように、今ここの瞬間を大事にするということや、心の平穏や物事の平穏を大事にすることは、人間が本能的に求めているものなのかなって考えると、非常に面白いなと思いました。

紺谷:興味深いですね…
現地の先生の指導・トレーニングもやられていたと思いますが、その活動でも気づきなどあったりしましたか。

斎藤さん:教育省での仕事の影響力の大きさに、衝撃を受けたことはありましたね。
国全体、全国に関わる仕事で、しかも教育に関わる仕事なので、その国の子供たちの将来に影響を及ぼすということを考えた時に、結構重要なことをしてるなと改めて思ったんです。
しかも、自分の国でもなければ、自分が最終的に責任を取ることもできないような状況の中で現地の先生に対して指導するということは、子供たちがそれをもとに、自分たちの考え方や行動を変化させていくんだろうなと考えると…すごい状況に置かれてるなっていう感じはありましたね。

紺谷:そうですよね…
国の未来に関わっていくようなことを他の国の視点から関わっているというところが、まさに国際支援とはこのことだとは思いつつ、重責であり、大変なことですよね…

斎藤さん:外部者の視点は大事なんですけど、あくまで主体は外部者が握っちゃいけないなっていうことの本当の意味がそこにあると思っています。
やはり、その国の将来はその国の人が決めるべきだし、ちゃんとその国の人に主体を、ボールを預けることをしないといけないと感じました。

日本に戻ってからの考えの変化や活動

紺谷:そうですよね。
様々な経験をされて、帰国して、改めて日本での日々の暮らしがまた始まって今…という感じだと思うんですけど、日本に戻ってきた際に、セネガルと日本のギャップを感じたことはありましたか?

斎藤さん:一番大きいのは、子供に優しくないなと思いました。
セネガルへの赴任中に結婚し、自分の子供が生まれて、赴任中も一緒にセネガルで子供と暮らしていたんですが、セネガルって地域の人みんなで子供を育ててるんですよね。コミュニティの中で人が育っていく感じはすごくありました。

当時住んでた町の文化で、ガードマンみたいな方が家の前にいたりするんですけど、そのガードマンがうちの子を抱っこして面倒を見てくれてたりとか。その隣の建物のガードマンも、一緒にしゃべりながらうちの子の面倒見てくれてたりとか、そんな感じなんですよ。近所の人たちで子供の面倒を見てくれているということが当たり前のようにありましたね。

それが、日本に帰ってくるとみんな子供に対して冷たいなと…
ギャップはすごい感じましたね。。(笑)

南足柄との出会い

紺谷:確かに、日本だと地域みんなで子供を育ててるというのはもうなくなりつつありますもんね…
そこから南足柄に移住するまでのお話も、またお伺いしてもよろしいでしょうか。

斎藤さん:南足柄に行く前に、帰国してから都内のベンチャー企業に勤めていました。その会社に入る前までが実は大変でして。
僕のキャリアって、ここまでお聞きいただくとわかるかと思うのですが、いわゆる「大学四年生終わって就活して会社に就職して働きました」みたいなものを一回もやっていないんですよ。

日本に帰ってきた瞬間、「この人何やってた人?」「この人ちゃんと仕事できるの?」という目で見られていました。
普通の会社で転職活動をしても全然引っかからなくて、「日本社会に受け入れられるのかな…」って自信がなくなっている時もありました

ただ、そんな中でも僕のことを面白がってくれた会社が数社あって、そのうちの一つの会社に入社し、そこで4~5年程勤務していました。
そんな時コロナが来て、会社が完全にテレワークになったんですね。子供も2人いて、ギャーギャー言ってる中で(笑)自宅でテレワークなんてこの小さなアパートではできないな~と考えるようになって、もう少し広いところに引っ越そうかと思い、その際に南足柄市に出会いました。

私も奥さんも、この土地には縁も全くなかったんですけど、行くことをすぐに決めました。

紺谷:なるほど。これもすごい変化、変容ですね!(笑)
そこから、今の会社を設立するまでの流れはどのような感じだったのでしょうか?

斎藤さん:南足柄市に移住してからも、一年ぐらいはそのベンチャーの会社に勤めていました。
ただ、せっかくご縁があった街に何か自分もできないかなとは考えていました。会社では、コンサルタントとして会社を良くする仕事をやっていたんですけど、コンサルタントの立場から会社を良くしていくことの限界を感じるようになりました。
本当の意味で会社を良くしていくためには、その外側の社会が良くならないといけないな、とも感じるようになりました。

社会の中でも、特に一人一人が暮らしている街など、そういったところがよくならないと会社のような組織も良くなっていかないんじゃないかな、ということを以前から思ったことがあって。
社会を良くしていく、街を良くしていくような仕事はずっとしてみたいなと思っていたので、何か自分が関われることはないかなと、探していたところはあったと思います。

その中で、南足柄の市役所の人たちと知り合うことがあって、色々お話をしていて、「南足柄市民として、林業や山、森を起点にまちづくりを一緒にやりませんか?」とお声がけいただいたんです。そうして、会社を立ち上げることになりました。
私自身は会社の株は持っていなくて、行政である南足柄市と南足柄市にゆかりのある金融機関、民間企業が合同で立ち上げた第三セクターの会社です。そこで今、経営をさせていただいてるという感じになっています。

紺谷:外からの観点や支援していくような形で、会社や社会をよくしていく形も勿論あるけれども、それだけではできることの限界を感じ、当事者として何かやる重要性を感じられていたということなんですかね。

斎藤さん:そうですね。
まさにアフリカに行っていた時も、コンサルをやっている時も、外側から誰かに対して「こうした方がいいですよ」という仕事ではあったんですよね。アドバイスをするのが主な仕事なんですけど、当事者性がないんですよ。そこに対するもどかしさとか、あと一歩踏み込めない外部者感が、寂しさみたいなものがありました。

今は南足柄市の市民として、自分たちの住む町に対して、直接的に何か仕事ができているという楽しさはありますね。

紺谷: 最初に国際支援を志して進んできた頃からは、現在想像もつかないような道の歩みのように思うんですけれども、改めてお伺いすると、あらゆることが繋がっているんだなという風に思います。

斎藤さん:そうですね。正直、”当事者になる”ということを舐めてた自分もいて。「当事者になる」ということは覚悟がいることだし、大変なことだなということを、今も学ばせてもらっています。

地域の皆さんにも、身内だからこそ色々と言われることもあるし、僕らも言うこともあるし、当事者ならではの地域の人との関係性があると思っています。
この関係性があるからこそ、共に作り出せる楽しみも仲間も増やしていけるという面白さがあって、外側だけでは見えない世界を今体験させてもらっているって感じがしますね。

これからの地方自治の形って、こういう形になっていくんじゃないかなと思っていて。
市民が行政に丸投げして、「やってくれよ」っていう当事者感がなくなっていた中で、当事者意識をどう街の中に醸成して、街の持っているリソースを生かして新たな街づくりをしていくのかっていうところに、今チャレンジさせてもらっていると思います。

参加者からの質問

紺谷:参加者さんからも質問が来ていますね。今後の展望、あるいは不安なことがあればぜひ教えてください。

斎藤さん:出来るか出来ないかの妄想も含めてお話しすると…
人口動態や、社会において何かモノが大量にバンバン売れるっていう時代でももうない中で、人の暮らしを中心に置いた際に、”人がより良く生きる”、ウェルビーイングって言ってもいいかもしれないですが、人間が人間らしく生きるための場作りを、山や木を使いながらやっていくっていう風に視点を変えて、事業を展開していきたいなと思っています。

また、体験を提供していくような会社になりたいと思っていて、そのきっかけとして木製品もあるかもしれないし、そのきっかけとして林業を学ぶということもあるかもしれないし、そういった人が生きる場を作っていくっていう方向に、転換していきたいと思っています。

不安なことで言うと、人間が人間らしく生きるための場作りという考え方って、まだまだ理解されづらい考え方だなあということですかね。
ただ、一方で若い人には共感を得られているところもあるので、みんなが”いいよね”と思う社会の理想像を作っていけるかどうかは、日々奮闘しながら取り組んでいます。
確実に関わって下さる仲間は増えているものの、本当にこのまま進めるのかな…といった、不安は日々抱えながらやっています。

circleのコンセプトにもある、”一人一人が自分らしく生きられる社会”に、私もすごく共感しています。仕事の場や自分の生活の場や暮らしが、多拠点だったり転々としていてもいいと思うんですよね。
自分の暮らしの中で、自分が自分らしくいられる場をつくることが必要だと思っています。
人間の枠組みでも、自然環境の枠組みでも、他者とより良い状態を相互に作れるコミュニティをどう作れるのかが、社会としての新たなチャレンジかなと思ってますね。

高齢化が進んでいる日本社会で、年配の方に理解されづらいことがあっても、少しずつ自分たちが言葉にしながら、それを形にして示していきながら、進めていくしかないんじゃないかなと思っています。


トークイベントにご参加いただいた皆さん、この記事を最後まで読んでいただいた読者の皆さん、いつもありがとうございます!

circleが取材させていただいた、斎藤さんの「私とコミュニティの話」noteは以下よりお読みいただけます。ぜひこちらも改めて読んでみてください!