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批評家を駆逐している?

髙田安規子・政子 / 冨安由真 / 東山詩織:展示『枠物語』について

解釈家/分析家/批評家を駆逐している?そんな風に思える展示を体験したかもしれない、気持ち良かった。 

マフムード・ダルウィーシュ (パレスチナの詩人) の詩集『壁に描く』の中にある、次の句に惹かれ、批評家を駆逐しているような作品/展示/何かを体験したいと思い、探していた。

P. 83 アル=マアッリーが自作の詩から批評家を駆逐しているところが見えた。わたしが盲目なのは、お前たちが見ているものを見るためではない。

( マフムード・ダルウィーシュ作 四方田犬彦 訳『壁に描く』より )

しかし「作品から批評家を駆逐している」とは、どんな状態だろうか? 私は、その状態を要求できない、その状態の呼び名を知らない、だから、勘違いかもしれない。

試しに「私が盲目なのは、」という句を「私が私であることは、」と書き換えてみる。「私が私であることは、あなたが見ているものを見るためではない。」というのは、危うい、解放感に満ちる。元に戻して「私が盲目なのは、」とすれば、盲目とは斯くあるものだと勝手に想像して決めつけているようなニュアンスが目立つか? 窮屈だ、しかしこの閉塞感を「お前たちが見ているものを見るためではない。」という句が跳ね返している。

勝手に期待されて、それを裏切られた、、と一方的にがっかりされるようなシーンが頻繁なのを想像すれば、鬱陶しさに眩暈がする。と、これはこれで勝手な想像なわけだが、この勝手な想像も含めて全ての勝手な期待/極端な一般化を跳ね返すのが、「私が盲目なのは、お前たちが見ているものを見るためではない。」という句なのかもしれない、と解釈してみる。

森川すいめい著『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』にある幾つもの句を思い出した、例えば、次のような句だ。

P. 76 「それはこういうことではないか」「ならばこうしたらいいのではないか」と思うことは、だいぶ減りましたが、ときどきあります。しかしその思いついたものは、たいてい相手の話の一部分だけにしがみついて生み出されたアイディアにすぎません。だからいちいちそれを口に出すようなことはしません。

何か良いアイディアが浮かんでしまったということは、その場に留まっていなかったときでもあります。だから、自分自身のこころの中で、「留まれ」「留まれ」と繰り返します。フィンランドのセラピストたちは、「太ももの下に自分の手を敷くことで留まる意識を持つ」とよく話していました。

(森川すいめい著『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』より)

この展示、髙田安規子・政子 / 冨安由真 / 東山詩織『枠物語』を体験して、「こんなグループ展も可能だったのか?」と驚いたひとも少なくないはずで、この展示空間からは、グループ展であることを積極的に味わって作られた雰囲気が感ぜられ、作家同士が互いの作品を理解しようとする態度そのものがこの展示を作っているようにも感ぜられ、そのことが、「解釈家/分析家/批評家を駆逐している?」と感じさせる空間/領域/何か?を作ったのかもしれない。

強い言い回しで「批評家を駆逐している?」と言ったが、批評家を攻撃したり、批評家の存在を否定した展示ではない。

また、当該展示のステートメントにある次の句は嫌味などではなく、この展示空間で、鑑賞者が安心して対話を開く為の許しの、 GO サインなのだと思う、多分。

3組の共通テーマである「入れ子構造」や「スケールの変化」をヒントに、鑑賞者たちが想像上で物語たちを自由に組み合わせ行き来し、大きな物語が出来上がります。

(髙田安規子・政子 / 冨安由真 / 東山詩織『枠物語』ステートメントより)

解釈家/分析家/批評家は各々の「家」から出て (言葉遊びw) 、緑色の扉からこの展示空間に入り、「入れ子構造」や「スケールの変化」をヒントに、解釈しまくり分析しまくり批評しまくり、対話することが許されている? 

そして、解釈/分析/批評したくなる、誘惑に満ちた展示空間だ。

解釈/分析/批評すること自体が悪いわけではないが、説明/説得/議論ではなく、対話を開くことが目的なら、どのようにすれば?

先述の森川すいめい氏の著書には、対話を開く為の足場になるはずのヒントがたくさん書いてある、読み直そうと思う、ゲーテの次の句を小脇に抱えて。嫌味ではなく、むしろ森川氏の「私たちはこうしている」旨の教えを受けて、自分の、その人との、その時のやり方を見つける為に。

P. 52 仮説は、建築する前に設けられ、建物ができ上がると取り払われる足場である。足場は作業する人になくてはならない。ただ作業する人は足場を建物だと思ってはならない。(「格言と反省」から)

(『ゲーテ格言集』高橋健二 訳より)

また、マルティン・ブーバー著『我と汝・対話』は、対話について細やかに思考しているので、ちびちびと何度も同じところを読み直してはいるが、私の対話の能力は少しずつでも発達しているのだろうか?最も苦手とする能力の一つだ、多分。

そして、アミン・マアルーフ (レバノン生まれのフランスのジャーナリスト/作家) のエッセイ『アイデンティティが人を殺す』 P. 54- 55 にある句を少し変容させてみる。

P. 54 ___このような観点から私は「一方に対しては」、こう言いたいと思います。「あなた方が受け入れ国の文化を受け入れれば受け入れるだけ、あなた方の文化はその国に受け入れられるのです」。そして「他方に対しては」、こう言いたいと思います。「自分の文化が尊重されていると移民が感じれば感じるだけ、彼は受け入れ国の文化に開かれていくものです」。

↓ 変容

あなたが相手の文化を受け入れれば受け入れるだけ、あなたの文化は相手に受け入れられる。自分の文化が尊重されていると相手が感じれば感じるだけ、相手はあなたの文化に開かれていく。

P. 55 ここでも鍵となる言葉は相互性です。私が受け入れ国に従い、ここが自分の国なのだと考えるのなら、この国がこれからは自分の一部であり自分もまたこの国の一部であると思って行動するなら、そのとき私には、この国のさまざまな側面のそれぞれを批判する権利があるのです。同じように、もしこの国が私を尊重し、私のもたらすものを受け入れてくれるなら、私の特性を認め、私のことを自分の一部と見なしてくれるなら、そのときこの国には、その生活様式とか諸制度を支える精神と両立できないような、私の文化の側面を拒否する権利があるのです。

↓ 変容

私があなたの文化に従い、その文化を自分のものだと考えるのなら、あなたの文化がこれからは自分の一部であり自分もまたあなたの文化の一部であると思って行動するなら、そのとき私には、あなたの文化のさまざまな側面のそれぞれを批判する権利があるのです。同じように、もしあなたの文化が私を尊重し、私のもたらすものを受け入れてくれるなら、私の特性を認め、私のことを自分の一部と見なしてくれるなら、そのときあなたの文化には、その生活様式とか諸制度を支える精神と両立できないような、私の文化の側面を拒否する権利があるのです。

これに続くP. 56 にある句が沁みる、ひりひりする。

P. 56 他者を批判する権利は手に入るものですし、それだけの価値があります。もし相手に対して敵意や軽蔑を見せていたら、根拠があろうがなかろうが、どんな些細な意見であっても攻撃と受けとめられるでしょう。相手は態度を硬直化させて、自分の殻に閉じこもるでしょうし、相手に非を認めさせることはむずかしくなります。反対に、相手に対して友愛や共感や敬意を感じているのだと、うわべだけでなく、心から示せば、相手の批判すべきところは批判できるし、ちゃんと話を聞いてもらえる可能性もあります。

(『アイデンティティが人を殺す』アミン・マアルーフ 小野正嗣 訳  より)

当該展示の3組が、実際に、各々何を感じて、どのような対話を重ねてこの展示を作ったのかはわからないが、友愛や共感や敬意のある対話がなされて作られたのでなければ、こんな展示は不可能なのでは?と想像した。作家同士の親しさではない、むしろ親しさが邪魔になる事すらあるのでは?と想像する。あくまで、互いの作品や作家としての何かを軸に対話を重ねたのだろう。

P. 127 批評家が、作家の私生活の端くれを取り上げて、真顔になってものを言う。何んと広大無辺な計算に首をつっこむ事か。奴さんそんな事とは露しらず、目っけものでもした気でいる。犬の川端歩きよろしくだ。

(小林秀雄著『小林秀雄初期文芸論集』「批評家失格Ⅰ」より)

さて、当該展示の3組が「入れ子構造」や「スケールの変化」といったユニークなテーマの共通性を見事な強みに鍛え上げているのは清々しく、そもそも、このことがこの展示空間の特異性を作る、もう一つの核になっているはずだ。

ん? 

何だか、愈々批評家気取りの物言いだな、しかも「批評」という語の定義もしないまま批評家を駆逐だなんだと、だらしない。

ぼんやりと小林秀雄の次の句を思い出して、家の中を捜したが、この句が収録されている『考えるヒント』が見つからない、今、図書館で見つけて読み返している。

P. 201 試みに「大言海」で、批評という言葉を引いてみると、「非ヲ摘ミテ評スルコト」とある。批評、批判の批という言葉の本来の義は、「手ヲ反シテ撃ツ」という事だそうである。してみると、クリチックという外来語に、批評、批判の字を当てたのは、ちとまずかったという事にもなろうか。クリチックという言葉には、非を難ずるという意味はあるまい。

(小林秀雄 著『考えるヒント』「批評」より)

なるほど、批評とは何かを問えば、「批評家を駆逐している」という句の解釈も変わってくるはずだが、今回は、保留して、多動力を発揮して、唐突に全く余談を続ける。

さて、ダルウィーシュに「自作の詩から批評家を駆逐している」と吟われた、アル=マアッリー ( 937- 1057 ) について調べようとしたが、日本語訳の書籍は出版されていないのかもしれない、見つからない。また、Wikipediaには「悲観的な自由思想家と評される」とあるが、、

アル=マアッリーが悲観主義者だって?

本当か?

ジェームズ・ボールドウィンの次の句を根拠にするだけでも、84歳まで生きたアル=マアッリーが悲観主義者だったなんて、わざとらしい解釈だ。

私は悲観主義ではない
生きてますから
悲観主義で生きていける世の中ではない
生き抜けると思うのは楽観主義だからです
しかし…

(映画『私はあなたのニグロではない』より)

Wikipediaに紹介されている幾つかのアル=マアッリーの句を見れば、どんな解釈から彼を悲観主義者だと判断したのかは想像がつくが、私はその解釈を採用しない。

アル=マアッリーの日本語訳の詩集が発売されますように、、読みたい。

わ、散漫になってきたので、ついでに間抜けを晒すなら、展示会場では、アイデンティティ概念の提唱者でもある精神科医E.H.エリクソンの句を幾つか思い浮かべた、例えば、次のような句だ。

P. 324- 325 恥はいまだ研究の不十分な情緒と言えよう。なぜならば、われわれの文明では、それは非常に早い時期に、また容易に罪悪感に吸収されてしまうからである。恥ずかしいということは、人が完全にむき出しの状態で他人の視線にさらされていると意識することを意味する。一言でいえば、それは自己を意識することである。

(E.H.エリクソン『幼児期と社会』Ⅰより)

「入れ子構造」の連続性に、アイデンティティ (自己同一性) 概念についての思考が接続されたのだ。

あああ、ここからはさらに蛇足感強まる、、、

東山さんは髙田さんたちの作品に反応して、同じ物語 (絵) の小さなサイズを作っているが、体感で幅1m足らずの狭い部屋に入って観れば目と鼻の先に絵があるわけで、距離は取れないので絵の全体を観るなら丁度良いサイズであり、小さくはない。元のサイズならしゃがんだり身体を動かしても、デカい、全体を把握し難いはずだ。

つまるところ、鑑賞者は、遠いのか小さいのか近いのか大きいのかが曖昧な東山さんの絵の中の物語に巻き込まれている。会場の入口に設置されたドアの淡いピンクと緑色も東山さんの絵に馴染む。

会場に設置された窓枠越しに誰かを見れば、もしくは、額縁に入った鏡が設置されているので、その鏡にうつった自分の姿を見れば、鑑賞者も展示の一部となり鑑賞され、鑑賞者の意識/思考/身体/何かも一つの額縁として、その鑑賞者がこの展示を体験しているということが、強調されるかもしれない。

また、小さくて細い隙間から覗くなら、小さなモノでなければ、それが何なのかわからないかもしれない。

そして、私も斉藤という名字なので、モノサシや洗濯バサミを彫って梯子状にしているのは、きっと「高ではなく、はしごだか (髙) の方の髙田です、、、」というやり取りを何度もしてきたのでは?と勝手に想像してしまった。

部屋の中に部屋を作る大がかりな作品を作るイメージが強かった冨安さんは、今回、まさかの引き算で、愈々挑発的に洗練されて、重ねて、鑑賞者への信頼から、鑑賞するこちらの想像力に委ねた余白の配置がスリリングだ。

例えば、底が抜けた椅子は人が座る為の役割を満たさないが、それを私たちは椅子と認識する、壊れた椅子として、だ。しかし椅子ではないかもしれないわけだ、自分が寝るには小さなベッドが赤ん坊か猫か人形の為のベッドとして販売されているのと同じように。

あ~あ、欲張ってぐっちゃぐちゃの文章になっちゃったね、一旦ここで、太ももの下に自分の手を敷くことにして、筆を置く。

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