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#202 長崎原爆の日に寄せて【劇評・賛】NODA MAP『正三角関係』と映画『オッペンハイマー』(2/3)

今日もお読みくださってありがとうございます!
昨日の続きです。

みんなが爆弾なんか作らないできれいな花火ばかり作っていたら、
きっと戦争なんて起きなかったんだな。

山下 清

本作中に出てくる言葉ではありませんが、「長岡の花火」という貼り絵作品で有名な山下清さんの言葉を、内容の冒頭に引用しておきます。

今日の記事もNODA MAP『正三角関係』のネタバレを含みます。
目次を見るだけでもネタバレしまくりですので、これからご覧になる方はご注意ください。
また、役者さんについては部分的に敬称略とさせていただきます。

 
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カラマーゾフの兄弟オマージュの法廷ドラマ

内容は、ドストエフスキー作『カラマーゾフの兄弟』オマージュの法廷ドラマがベース。なおくらたは観劇後に『まんがで読破』シリーズで読みました。てへ

花火師一家の内輪もめ

時は第二次世界大戦中の日本で、主な登場人物は、長男・花火師の唐松富太郎(松本潤)次男・物理学者の唐松威蕃(イワン)(永山瑛太)三男・聖職者の唐松在良(ありよし)(長澤まさみ)の3兄弟(長澤まさみが男役)。
富太郎=ドミトリー、威蕃=イワン、在良=アリョーシャのもじりですね。

父親・花火師の唐松兵頭(竹中直人)を殺した罪で松潤が裁判にかけられます(兵頭はフョードルのもじり)。松潤と父親は一人の女性・グルーシェニカ(そのまんま。長澤まさみの二役目)を奪い合い対立していたのでした。

この父殺しの法廷での裁判を軸に、さまざまな証言者による証言や回想が繰り広げられていきます。
『カラマーゾフの兄弟』では長男・次男の関係も悪いですが、今作では全く専門性の異なる兄弟同士で憎み合っているふうはありませんでした。

物語における法廷

今回改めて思いましたが、物語における法廷ってとても演劇的な装置ですよね。
一つの場所にさまざまな立場の人が集い、個々の主張を繰り広げるそれそのものも演劇的だし、証言の内容を再現することで時も場所も越えやすく、いろんな展開が可能になる。
ジャン・アヌイ『ひばり』(今年1月に劇団四季自由劇場で観劇。ジャンヌダルクの裁判を描く)でも同じ構造を取っていました。
また、NHK朝ドラ『虎に翼』でも部分的に使用されており、とても演劇的な演出だと思いました。

和製『オッペンハイマー』

花火は平和でなければ打ち上げることができない

花火師である長男・富太郎(松潤)は、戦争がはじまると花火を打ち上げることを禁じられるばかりか、火薬を軍部に取り上げられてしまいます。
確かに言われてみれば、灯火管制まで敷く状況で花火なんて上げられるわけがない。さらに、鉄や金属、挙句に犬まで召し上げられる状況で火薬がその対象にならないわけがない。
つくづく花火は平和でなければ打ち上げることができないのですね。
冒頭の山下清さんの言葉は、観劇後に長岡の花火大会のテレビ中継でたまたま目にしたものですが、とてもタイムリーでした。

荒っぽく女性にだらしない人物でありながら、「俺には夢がある」と花火の空を見上げた人々の笑顔や幸せな時間を自分の手で実現する夢を繰り返し語る富太郎。その夢の実現のために、富太郎はとっておきの火薬を愛人の名前から「グルーシェニカ」と名付けて供出せずに隠し持っていたのでした。

次男・天才物理学者・サイコパス

いっぽうで、次男・物理学者の威蕃(永山瑛太)は、幼いころから大変に頭がよい人物。しかし、長男・松潤の作った花火にヒキガエルを括り付けて飛ばそうなどと提案するようなサイコパスなところもありました。
長じた威蕃の研究成果はバックスクリーンに膨大な数式として表現されていきます。やがて導き出される数式は「E=MC2」。

「E=mc²」は,アインシュタインが特殊相対性理論からみちびいた,世界で一番有名な式です。 この式は,「ほんのわずかな物質にも,膨大なエネルギーが秘められている」ことを意味します。 E=mc²によると,物質からエネルギーを引きだせ,また逆に,エネルギーから物質を生みだすこともできるといいます。

E=mc2 改訂版 | ニュートンプレス (newtonpress.co.jp)

威蕃は、日本における原子爆弾研究の第一人者となっていくのでした。

ピュアな聖職者・在良(長澤まさみ)

また、三男・聖職者である在良の存在も効いています。
彼のまっすぐな言葉は、主に長男・富太郎の心を動かしていきます。
次男・威蕃はサイコパスなので在良の発するきれいごとには影響を受けません。とはいえ、素直な末っ子を疎んじる様子はありませんでした。
そういう存在って重要ですよね。

威蕃に「ヒキガエルを打ち上げて殺せ」と言われてためらう富太郎。
勇気がないとののしられた富太郎が売り言葉に買い言葉でカエルを打ち上げようとしたとき、在良は「それ(カエルを打ち上げること)は勇気ではない。臆病が責任転嫁しているんだ」と止めます。
「臆病が責任転嫁」という言葉は初めて聞くものですが、なるほど短い言葉でピタリと言い表す、さすが野田秀樹。軍拡競争の本質を言い当てて批判していると感じました。

この物語は「和製オッペンハイマー」だ

さて、長男・花火師の富太郎の嫌疑は当初父親殺しでしたが、そのうち裁判の焦点は、富太郎が供出せずに隠し持っていたとっておきの火薬「グルーシェニカ」の話に移っていきます。

野田芝居ではいつものことながら非常に難解なストーリーでくらたも一回見ただけではなんとも断言できないのですが、この「グルーシェニカ」をめぐるやりとりは、次男・天才物理学者の威蕃(永山栄太)の研究シーンとも絡み合い、次第に、「原爆開発に関与したのは有罪か無罪か」を象徴するようになっていきます(たぶん)。

途中、「長崎◎△×※○(←詳細忘れた)なにしてはったん計画(マンハッタン計画のもじり)」という台詞がでてきたところで、ああこれは「和製オッペンハイマー」なのかもしれない、とようやく気が付きました。
くらたが鼻息を荒げるまでもなく、公式パンフレットにはそのことが書かれており、映画『オッペンハイマー』が出る前に今作の構想に着手したとのことでした。

野田秀樹さんが意味ありげに、日本が開発していた原爆を「ガジェット」と呼びなおし、観客の一部からどよめきが漏れた場面が強く印象に残っていましたが、後日、映画『オッペンハイマー』を観に行ったところ、原爆を「ガジェット」と呼ぶシーンがありました。今日の「ガジェット」という言葉の持つポジティブでライトな響きを考えれば、原爆をガジェットって……史実なんでしょうけど……。

今作の威蕃が万能感に浸って生命を殺すことを厭わずに兵器研究を突き進めていく姿や、映画『オッペンハイマー』でドイツ降伏後にも原爆投下にこだわったオッペンハイマーの姿は、『カラマーゾフ』のイワンや『罪と罰』のラスコリニコフに通じるものがあります。

富太郎と威蕃、最後の違い

本作中でオッペンハイマーのように苦悩するのは富太郎であり、威蕃ではありませんでした。
そのあたりはあくまで主人公が富太郎だったということなのか、『カラマーゾフの兄弟』から来ているのか、かなあ(カラマーゾフのイワンは理想社会の実現のために上流階級を殺すことを厭いませんが、最終的には民衆が自分の味方ではないと知って自我が崩壊する)。
富太郎の苦悩は同じドストエフスキー作『罪と罰』のラスコリニコフが殺人を犯した後のそれにも通じるものがあります。

また、ラストでは長崎の原爆で威蕃と在良は死んでしまい、富太郎は「なぜ自分だけが生き残ったのか」という生き残された者の苦悩にもさいなまれます。
原爆投下の瞬間、投下された側であるにもかかわらず威蕃はなぜかしら笑顔を浮かべますが、次の瞬間には原爆の威力を象徴する「布」(NODA MAPではしばしばこれが効果的に使用されます)に飲み込まれて沈んでいくのです(そうかー、これはカラマーゾフのイワンをなぞっているのか)。

自ら生み出した力で自らが滅ぼされる威蕃の最後は、『オッペンハイマー』にはないものでした。(『オッペンハイマー』では原爆が完成したとたんオッペンハイマーが意思決定の場から邪魔者扱いされ、原爆だけが独り歩きしていきます。それはそれで別の恐ろしさがありましたが)

2024年8月5日の『アフター6ジャンクション』「超論法」のコーナーで、

僕の友人Yくんはドラマを見ない。
その理由は『だって演技って嘘じゃん』

(ラジオネーム:コウダイジャパンさん)

という話が紹介されていましたが、「現実では語り尽くせないことを語れること」こそがフィクションの本領だとわたしは思います。
脳はシミュレーションをする器官だと言われて久しいですが、だとすれば上記でいう「嘘」「フィクション」を生み出すのは人間が逃げられない本質的な機能なのではないでしょうか。

NODAMAPと言えば言葉遊びと布使い、面白舞台演出

言葉遊び

「やくそくにもクソが入っている(だから約束なんてクソだ、という内容)」「長崎◎△×※○(←詳細忘れた)なにしてはったん計画(マンハッタン計画のもじり)」など、今回も怒涛の情報量と言葉遊びがふんだんに使われて、脳みそを休める暇がありませんでした。

また、野田秀樹演じる神父が亡くなる際、長澤まさみ演じる在良が枕元に駆け付けたとき、神父が、

「いつも思うんだけどさ、『間に合って良かった』って何に間に合ったの?間に合ったから死んでいいよってこと?」

などと言うのも、本筋とは関係が薄い(たぶん)ながらも、結構ハッとさせられる問いですよね。
わたしたちは常に、何かに無自覚に言葉を使っていることから完全には逃れられない。だからこそ言語運用には気を付けなければならない。

こうしたハッとさせられた言葉たちを、いつも覚えておきたいと思うのだけれど、怒涛の如くやってくるので追い付くのがやっとなのでした。

布使い

NODA MAPではよく舞台を覆うほどの大きな布が使われます。
印象に残っているのは『Q』で、広瀬すず・志尊淳の若き日のロミオとジュリエットが、布をくぐると松たか子・上川隆也のその後のロミオとジュリエットに変わる演出。
昨年休職7日前に観た『兎、波を走る』でも何かしらあった気がするけど、忘れてしまった……。あっという間に忘れてしまうので、こうして書いているのでした。

何と言ってもラストの原爆。布によって表現されていました。大きな白い布に舞台が覆われていくと、その下の人々の命が失われていく。たくさんいた人間が、動かない、形のはっきりしない、死体に変わってゆく。

また、大きな布は、在良とグルーシェニカの長澤まさみの二役の早替えにも使用されていました。

それから、四角い枠に布をかぶせて列車のように見立てる演出は、「エッグ」か何かで見たような。
インスタで「既視感がある」とおっしゃった方の言い分が分かる、と思ったのは、わたしはこういうところからでした。

身体運用による表現

物理学者たちの研究のシーンでは、バックスクリーンに映写される数式だけでなく、原子の動きを新体操のボールやリボンで表現していたのが見ごたえがありました。
物理学者たちがその研究、明らかになっていく原子の動きを美しいと感じていたのかもしれないな、ということも、直観的に伝わってきました。

また、養生テープと色ガムテープで空間を仕切っていたのも面白かったです。また、そのテープを切ってその空間から飛び出していく勢いを表現しているのも。
法廷で同じ内容を何度も再現して検証する場面では、1回目は白い養生テープで、2回目は色ガムテープで再現していたのが見飽きない工夫で面白かったです。2回目が真実だった、という演出だったと思います。

こういう、舞台ならではの含意の豊かな抽象表現、よく考えつくよなあ。

また、テープによる表現といえば、ロシアのウワサスキー夫人の声を録音したレコーダーはキラキラするデコレーションテープで表現されており、それも面白かったです。

明日に続きます。

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