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【憂国の作家】三島由紀夫の生涯

みなさんは、『潮騒』や『金閣寺』、『豊饒の海』などの名作を世に送り出し、戦後の日本文学界を代表する作家、三島由紀夫をご存知でしょうか?

三島は小説家としてだけでなく劇作家や評論家としても活動し、ノーベル文学賞候補となるなど日本にとどまらず世界に名を成す存在として活躍しました。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yukio_Mishima.jpg?uselang=ja

しかし、晩年は政治活動に傾倒して民兵組織「楯の会」を結成し、自衛隊にクーデターを促して壮絶な最期を遂げました。

今回は、戦後日本を代表する作家でありながら、最期は自衛隊に決起を呼び掛けて非業の死を遂げた作家、三島由紀夫の生涯を解説します。

【生い立ち】

三島由紀夫(本名:平岡公威)は、1925年(大正14年)1月、現在の東京都新宿区四谷に生まれました。

父は、旧制第一高等学校から東京帝国大学法学部に進み、高等文官試験をトップで通り農商務省に入った秀才で、岸信介、我妻栄、三輪寿壮らとは一高や帝大の同窓でした。

祖父は、帝国大学を経て内務官僚となり、福島県知事や樺太庁長官などを務めた人物で、三島はエリート一家で育ちました。

祖母と同居していた三島は、溺愛されて育ちます。

学習院初等科入学時の三島(1931年4月) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yukio_Mishima_1931.gif?uselang=ja

1931年(昭和6年)に学習院初等科に入学し、1937年(昭和12年)に学習院中等科に進学した三島は、祖母と離れ、両親家族と暮らすこととなりました。

虚弱体質だった三島は学校で同級生からからかわれる日々を送ります。

1940年(昭和15年)頃には俳句や詩歌、短編などの創作活動に精を出し、谷崎潤一郎、トーマス・マン、エドガー・アラン・ポー、志賀直哉、宮沢賢治らの作品に触れ、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』などを愛読するようになりました。

エドガー・アラン・ポー

【“三島由紀夫”の誕生】

1941年(昭和16年)、学習院中等科5年に進級し16歳となった三島は、短編小説「花ざかりの森」を執筆し、国語教師の清水文雄に批評を願い出ました。

作品を読んだ清水は感銘を受け、国文学雑誌『文藝文化』の同人たちにも読ませたところ、みな感銘を受け、「天才が現れた」と祝福しました。

三島の父は息子の文学活動に反対だったため、清水の助言により、本名の平岡公威ではなく筆名として「三島由紀夫」を使用することになりました。

こうして誕生した「三島由紀夫」は、弱冠16歳にして「花ざかりの森」が『文藝文化』に連載され、鮮烈な文壇デビューを飾りました。

1941年12月8日、真珠湾攻撃により日本は戦争に突入します。

開戦後も変わらず創作活動を続けていた三島ですが、日本の劣勢が顕著となっていた1944年(昭和19年)、三島のもとに徴兵検査の通達書が届きました。

現在の兵庫県加古川市で検査を受けた三島は、徴兵合格となりました。

その後、学習院高等科を首席で卒業した三島は、卒業式に臨席した昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受されました。

昭和天皇

【コンプレックス】

学習院高等科を首席で卒業した三島は、東京帝国大学法学部に入学します。

しかし、いよいよ戦況は逼迫し、大学の授業は中断され、三島は「東京帝国大学勤労報国隊」として中島飛行機株式会社小泉製作所に勤労動員されました。

中島飛行機製作所本社(出典:国書刊行会)

1945年(昭和20年)2月、入営通知の電報が自宅へ届いた三島は、遺書を書き遺髪の用意をしました。

ただ、風邪で寝込んでいた母から移された病気により、高熱を出した三島は、結核(後に誤診と判明)と診断され、徴兵を免れて帰郷することとなりました。

ちなみに、三島が配属される予定だった部隊の兵士はフィリピンに派遣され、ほぼ全滅したと言われています。

戦死を覚悟していたにも関わらず病弱な体質によって生きながらえたことに自問自答を繰り返した三島は、このことにコンプレックスを抱くようになります。

そして、この出来事が三島の死生観に多大な影響を及ぼしました。

【川端康成と太宰治】

敗戦が濃厚となっていた1945年5月、神奈川県の海軍工廠に勤労動員された三島は、『和泉式部日記』『上田秋成全集』『古事記』『葉隠』などを読みふけります。

ここでも高熱を出した三島は、一家が疎開していた親戚の家に行くくことなりました。

8月15日、この家で床に臥せていた三島は、玉音放送を聞き、終戦を迎えます。

玉音放送を聴く国民

三島は病弱ゆえに本格的に徴兵されることなく終戦を迎えました。

三島の創作活動に対して再三にわたり反対していた父は、「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」とつぶやきました。

1946年(昭和21年)1月、三島は後に日本人初のノーベル文学賞受賞者となる小説家の川端康成に会いに行きます。

川端康成

当時まだ大学生であった三島の才能に惚れた川端は、三島の作品を推敲指導したり雑誌に掲載したりするなどして支援し、以後生涯にわたる師弟関係の基礎が作られました。

また、三島は、親交のあった矢代静一らに誘われ、当時の青年から熱狂的支持を得ていた小説家・太宰治を囲む会に参加します。

太宰治

太宰の正面の席に座った三島が森鴎外について意見を求めたところ、酔っぱらっていた太宰から「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ」と言われ、三島は「どこが悪いのか」と反論しました。

2人の会話は終始嚙み合わずに終了しました。

太宰を中心とした「自分たちが時代を代表している」という自負と馴れ合いの雰囲気に嫌気が差した三島は、太宰を囲む会にも関わらず「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と発言します。

これに対して太宰は「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と言い返し、三島はその場を後にしました。

ちなみに、太宰は「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな」とぼやいたとされます。

敗戦翌年の1946年という年に、三島は川端康成と太宰治という日本を代表する2人の小説家と出会い、川端とは生涯にわたる関係を築き、太宰とは一度きりの対面で終わったのでした。

【仮面の告白】

1947年(昭和22年)、東京大学法学部を卒業した三島は大蔵省(現:財務省)に入り、官僚の道に進みます。

しかし、役人になっても文筆業を続けていきました。

ある日、官僚と作家活動という二重生活による過労で渋谷駅のホームから転落しました。

電車が来ないうちにホームに這い上がり、難を逃れた三島ですが疲労は限界に来ていました。

三島の父は息子が専業作家になることに難色を示していましたが、これをきっかけに考えを改め、「役所をやめてよい。その代わり日本一の作家になるのが絶対条件」と言い渡します。

父の理解を得たあと、創作活動に専念するため大蔵省を退職した三島は、1949年(昭和24年)、初の書下ろし小説『仮面の告白』を発表します。

『仮面の告白』は作家の花田清輝に激賞されるなど文壇で大きな反響を呼び、読売新聞の「1949年読売ベスト・スリー」に選ばれました。

ちなみに、この時の選考委員には川端康成、福田恆存、伊藤整、丹羽文雄らが名を連ねています。

【民間防衛組織「楯の会」】

『仮面の告白』により、作家として不動の地位を築いた三島は、その後も『潮騒』『金閣寺』『英霊の聲』『豊饒の海』などの作品を世に送り出し、戦後日本の文学界に確固たる地位を築いていきます。

また、映画に出演するなど文壇にとどまらず幅広く活躍し、時代の寵児となりました。

一方で、国防意識や民族意識を強めていった三島は、1967年(昭和42年)、単身で自衛隊に体験入隊します。

民族派学生組織「日本学生同盟」との親交を深めていった三島は、学生らを引き連れて定期的に自衛隊への体験入隊を行いました。

そして、民兵組織「祖国防衛隊」構想を経た後の1968年10月、隊長を三島、学生長を持丸博とする民間防衛組織「楯の会」が結成されました。

三島と共に自衛隊の軍事訓練を受けた楯の会のメンバー・小川正洋は、後にこう述べています。

「三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。日本をこよなく愛している本当の日本人に違いないと思い、三島先生こそ信頼し尊敬できるおかただ、先生についていけば必ず日本のために働けるときがくるだろう」

1960年代の日本は、新左翼によるデモや暴動が頻発していました。

特に1968年の国際反戦デー(10月21日)に起こった新宿騒乱では、武装した左翼活動家らが機動隊と衝突し、駅に放火したり電車に投石するなどして交通機能を麻痺させ、一般利用客にも多大な影響を与えました。

この時の三島は、激化する新左翼の暴動に対して自衛隊が治安出動することを期待していました。

治安出動とは、一般の警察力では治安を維持することができない場合に、内閣総理大臣の命令により、自衛隊が治安維持のために出動することです。

治安出動に当たっては、自衛隊による武器使用も認められます。

三島は、自衛隊の治安出動の際に「楯の会」も切り込み隊として加勢し、それに乗じて超法規的に自衛隊を国軍化する構想を練っていました。

左翼活動の激化を前にして、三島の思想も精鋭化していったのでした。

この頃、三島の師・川端康成が日本人初となるノーベル文学賞を受賞し、三島も祝いに駆けつけています。

【三島由紀夫 vs 東大全共闘】

1969年(昭和44年)5月、三島は、東京大学全学共闘会議(通称:東大全共闘)に招かれ、東京大学駒場キャンパスに足を踏み入れます。

© Kakidai https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yasuda_Auditorium_-_Tokyo_University_3.jpg?uselang=ja

全共闘とは、1960年代後半の大学紛争に際して全国の諸大学に結成された新左翼を中心とする学生組織で、要求を通すために校舎等の建物をバリケードで封鎖したり角材や火炎瓶で襲撃したりするなどの過激な運動を行っていました。

三島と全共闘の思想は真っ向から対立しますが、三島は全共闘の招きに応じ、東大駒場キャンパス900番教室に向かいました。

全共闘側は「三島由紀夫を論破して立ち往生させ、舞台の上で切腹させる」と息巻き、教室にはおよそ1000人の学生が押し寄せていました。

三島を揶揄するビラ

そんな状況のなか、三島は護衛もつけずに単身で乗り込みました。

マイクを握った三島は、「仄聞(そくぶん)したところでは、これは何か100円以上のカンパを出して集まっているそうですが、私は謀らずも諸君のカンパの資金集めに協力していることになる」
「私はこういうような政治的な状況は好きではない。できればそのカンパの半分をもらって、私がやっている『楯の会』の資金に取っておきたい」などと冗談を言い、笑いを誘います。

また、こんな場面もありました。

マイクを握った全共闘の学生が三島を思わず「先生」と呼んでしまい、こう言い繕います。

「(三島に対して)先生という言葉を思わず使っちゃったが、少なくとも東大でそこら辺にうろうろしている東大教師よりは、三島さんの方が『先生』と呼ぶに値するだろう」

これを三島はタバコをくゆらせながら笑みを浮かべて聞いていました。

後に劇作家となる全共闘の芥正彦とは、「日本人」について論を戦わせました。


「あなたはだから日本人であるという限界を超えることはできなくなってしまうということでしょう」

三島
「できなくていいのだよ。僕は日本人であって、日本人として生まれ、日本人として死んで、それでいいのだ。その限界を全然僕は抜けたいとは思わない。あなたから見たらかわいそうだと思うだろうが」


「それは思いますよね」

三島
「しかし、やっぱり僕は日本人である以上、日本人以外のもんでありたいとは思わない」


「日本、日本人ってのはどこに事物としてあるわけですか?」

三島
「事物としては外国へ行けば分かりますよ。あなた、どんなにね、英語を喋ってると自分は日本人じゃないような気がするんですね、英語が多少うまくなると。
でも道を歩いていてショーウィンドウにね、姿が映るとこの通り、胴長でそして鼻もそう高くないし、『あ、日本人が歩いてる、誰だろう』って。てめえ(自分)なんだな。これはどうしてもね、外国へ行くと痛感する」


「しかし、人間すら事物までいかない限り無理ですよ」

三島
「その国籍を脱却することは?」


「むしろ最初から国籍はないのであって」

三島
「あなたは国籍がないわけだろう?自由人として僕はあなたを尊敬するよ。それでいいよねぇ。けれども僕は国籍を持って日本人であることを自分では抜けられない。これは僕は自身の宿命であると信じているわけだ」

天皇を否定する全共闘に対しては、三島はこのように諭しました。

「僕らは戦争中に生まれた人間でね、こういうところに陛下が座っておられて、3時間全然微動もしない姿を見ている。とにかく3時間、木像のごとく全然微動もしない、(学習院高等科の)卒業式で。そういう天皇から(首席卒業の)私は時計をもらった」
「そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなこと言いたくないよ?俺は。言いたくないけどもだね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれがどうしても俺の中で否定できないのだ」

2時間半にも及んだ討論会の最後、三島はこう結んで教室を後にしました。

「言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び回ったんです」
「この言霊がどっかにどんな風に残るか知りませんが、その言葉を、言霊を、とにかくここに残して私は去っていきます。これは問題提起に過ぎない」
「私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。他のものは一切信じないとしても、これだけは信じるということを分かっていただきたい」

そして、全共闘との討論から1年半後、三島は日本中を震撼させる事件を起こします。

【クーデター】

1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫は森田必勝ら楯の会のメンバー4人と共に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れます。

この訪問は事前に予約していたため、一行はそのまま東部方面総監部二階の総監室に通されました。

三島と面会した東部方面総監・益田兼利陸将は三島が日本刀を携えていることに気づき、「本物ですか」「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねます。

三島は「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をご覧になりますか」と返し、鑑定書を見せました。

2人はしばし会話に耽った後、益田は刀を見るために三島の横に座りました。

刀を手に取った益田は、「いい刀ですね」と頷き元の席に戻ります。

すると、三島は楯の会メンバーに目線を送り、鍔を「パチン」と響かせて刀を鞘に納めました。

次の瞬間、益田はロープで椅子に縛りつけられました。

拘束された益田は「三島さん、冗談はやめなさい」と言いますが、三島は刀を抜いたまま真剣な顔で益田を睨んでいました。

その間、楯の会のメンバー・森田は総監室周辺にバリケードを築いていました。

総監室の物音に気づいた自衛官らが異変に気づき、「三島が総監室を占拠し、総監を監禁した」と報告して幕僚らに非常呼集がかけられました。

そして自衛官と楯の会による乱闘に発展し、刀で武装していた楯の会の攻撃により、自衛官8人が負傷しました。

この頃、警視庁公安部に連絡が入り、機動隊員120名が市ヶ谷駐屯地に向けて出動しました。

三島を説得しようとする幕僚に対し、三島は「これをのめば総監の命は助けてやる」と言って要求書を差し出しました。

そこには、「全市ヶ谷駐屯地の自衛官を集合させ、三島の演説を静聴させること」などが書かれていました。

三島の要求を受け入れることに決めた幕僚幹部は、自衛官を集合させます。

拘束されている総監の益田が「何故こんなことをするのか、自衛隊や私が憎いのか」と問うと、三島はこう答えました。

「自衛隊も総監も憎いのではない。妨害しなければ殺さない。今日は自衛隊に最大の刺戟を与えて奮起を促すために来た」

こうして午前11時40分、市ヶ谷駐屯地の部隊内に「業務に支障がないものは本館玄関前に集合してください」というマイク放送がなされました。

正午になると、鉢巻きをした三島がバルコニーに姿を現しました。

集められた自衛官から怒号が飛び、マスコミのヘリコプターが上空を飛び回る中、三島は演説を始めます。

「お前ら、聞け。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ」
「いいか、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ」
「諸君は永久に、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ」
「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。4年待ったんだ」
「諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ」
「どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ」

三島の演説に対し、自衛官らのヤジは止まりませんでした。

「諸君の中に一人でも俺と一緒に起つ奴はいないのか」と絶叫する三島に対し、自衛官らはさらに怒号を浴びせます。

予定より早く演説を切り上げた三島は、森田と共に皇居に向って、「天皇陛下万歳!」と叫びました。

森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は益田の前に立ち、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しました。

そして、上半身裸になった三島は、正座して短刀を手に持ち、「ヤアッ」と声を上げて切腹しました。

三島が切腹すると、後方に立っていた森田が日本刀「関孫六」を三島の首に振り下ろしました。

しかし、森田がうまく介錯できなかったため、楯の会のメンバー・古賀浩靖が三島の首を切断しました。

その後、森田は正座し、自らも切腹します。

古賀は切腹した森田を一太刀で介錯しました。

残された楯の会のメンバー3人は三島と森田の首の前で涙を流しながら合掌し、廊下に出たところで現行犯逮捕されました。

三島と森田の2人を介錯した古賀は、後に裁判の陳述でこのように述べています。

「現憲法はマッカーサーのサーベルの下でつくられたもので、サンフランシスコ条約で形式的に独立したとき、無効宣言をすべきであった」
「現実には、日本にとって非常に難しい、重要な時期が、曖昧な呑気なかたちで過ぎ去ろうとしており、現状維持の生温い状況の中に、日本中はどっぷりとつかって、これが将来どのような意味を持っているかを深く、真剣に探ることなく過ぎ去ろうとしていたことに、三島先生、森田さんらが憤らざるを得なかった」
「狂気といわれたかもしれないが、いま生きている日本人だけに呼びかけ、訴えたのではない。三島先生は『自分が考え、考え抜いて今できることはこれなんだ』と言った。最後に話し合ったとき、『いまこの日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立ち上がることができないだろう、社会に衝撃を与え、亀裂をつくり、日本人の魂を見せておかなければならない、われわれがつくる亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう』と言っていた。先生は後世に託してあの行動をとった」

マスコミにも多く出演し、ノーベル文学賞候補と目され、日本を代表する作家となっていた三島の行動に世間は衝撃を受け、この事件は国内外のテレビやラジオで速報されました。

『竜馬がゆく』や『国盗り物語』などの作品で知られる司馬遼太郎は、事件翌日の毎日新聞に「異常な三島事件に接して」と題した寄稿を載せました。

司馬は「この死に接して精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ」と記して模倣者が出ることを危惧しつつ、「しかしながらわれわれはおそらく二度と出ないかもしれない文学者、三島由紀夫を、このような精神と行動の異常なアクロバットのために突如うしなってしまったという悲しみにどう堪えていいのであろう」とその死を悼みました。

また、かつて三島と討論会を行なった東大全共闘は、駒場キャンパスに「三島由紀夫追悼」の垂れ幕を掲げ弔意を示しました。

三島の師匠的存在だった川端康成は、報道陣を前に「ただ驚くばかりです。こんなことは想像もしなかった。もったいない死に方をしたものです」とコメントし、小説家の大岡昇平は「他にやり方はなかったものか。なぜこの才能が破壊されねばならなかったのか」と落胆しました。

川端康成

三島由紀夫、享年45。

数々の名作を世に送り出して時代の寵児となった三島に対し、「政治運動に傾倒していなければノーベル賞を受賞していただろう」という声も少なくありません。

三島由紀夫と石原慎太郎

三島の起こした行動は民主的秩序を破壊するものであり、正当化できるものではありません。

一方で、この事件を通して、改めて「日本とは何か」「戦後とは何か」「自衛隊とは何か」を考える材料とすれば、(起こした事件は断罪されるべきものだが)泉下の三島も少しは浮かばれるのかもしれません。

三島は事件の4カ月前、産経新聞にこのような寄稿を行っています。

「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」

以上、多方面で活躍し、幾度となくノーベル文学賞候補となるも、最期は自衛隊に決起を促して自決した作家、三島由紀夫の生涯を解説しました。

出典:林忠彦『文士の時代』( https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yukio_mishima_1961.jpg?uselang=ja)

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