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#93 抑圧と解放 その原理と実践


思い出す

私は最近ふと思い出したことがあります。
そこには見知らぬ少年の姿が映っています。
二つの記憶が浮かんでくるんです。
一つは私の学生時代の記憶。
もう一つは数か月前の記憶。

記憶Ⅰ

学生時代、私は駅である少年を見かけました。
彼と面識は全くありませんし、一度見たきりです。
彼は今何をしているのでしょうね。何処かのゲーセンでアルバイトでもしているのでしょうか。まぁ、それは置いておきましょう。
その少年はランドセルを背負いながら、妙な体の動かし方をしていました。
上肢を脱力して、ぶらぶらさせています。滑稽な感じで、何を考えているのだか全然解りません。と、次の瞬間、あっという間に階段を下っていくではありませんか。歩行とか走行などという洗練されたものではなく、それは岩の落下のようでした。
奇妙奇天烈、面白い人がいるものだなぁ、とぼんやり私は思いました。
そして、彼が発するちいさな自由の存在に気が付きました。
翻って、日々の暮らしに窮屈さを感じて生きている私にもまた気付きました。
ぱんぱんのリュックを抱えながら座席に座っている私は、そんなことを考えながら電車に揺られています。
そういう記憶。

記憶Ⅱ

今年の春のことです。私は車を走らせていました。
そして近所の交差点で信号待ちをしていた時、横断歩道を渡る少年に目が行きました。
彼は明らかに浮かれていました。なんとスキップしています。スキップなど現実に存在するものだったかしら、と私は目を丸くして二度見してしまいました。
彼の右手には一輪の花。スーツのような衣装を身に纏っています。小学生にしては随分と風変わりな格好をしてますよね。
そうだ、今日は卒業式だったのだ、と私はようやくそこで気付きました。なんとも鈍感ですね。
その実写版スキップ小僧の姿はとても印象的でした。
そして、なんだかこころが清々しい気分になっていることに私は気が付きました。
私はいつも通りに車のアクセルを徐々に踏み込み、加速しました。
これが二つ目の記憶。

解放と抑圧

子供から「自分の整え方」を学ぶ

さて、単なる思い出話で終わりにするつもりもありませんので、書き続けましょう。
私の記憶に生きている少年たちのような、子供特有の動きってあると思いませんか?恐らく皆さんの頭の中にも思い浮かんでいるのではないかと想像します。
なんか、無意味で、滑稽で、ちょっとおバカな感じで、フフッと笑える雰囲気というか。
私は、あそこに自由を感じます。
自由というか、セルフ抑圧が無い状態ですね。
気まま、あるがままという感じ。「上手い/拙い」とか「イケてる/ダサい」といったようなフィルターを介さず、そのまま何かが表出してしまっているようなもの。
裡から自然と湧いてくるものを抑圧しないことがメンタルヘルスにおいて重要だと私は感じます。当たり前のことすぎますかね。でも、抑圧せずに日々を生きている人ってそう多くないような気もするんです。だから、先述した少年たちのように(一見すると)変な動きを極力止めない方がいいと思います。
自分を整えること。それは日々のとても小さなことから始められると思うのです。

片翼で飛ぶということ

これはみっともないのではないか、バカにされるのではないか、こう振る舞うことが求められているのではないか、等々、日々の暮らしの中で考えてしまうことありませんか?私はつい、そんなことを考えてしまいがちです。そういったことを考え続けると、窮屈でイライラしてしまいます。でも、それって当然のことですよね。だって自分を抑圧しているわけですから、至って普通のことなんです。凡庸の極みです。
我々は社会性とか協調性という名のもとに、抑圧の技術ばかり向上させてしまうんです。それも何故だか一所懸命に。そして反比例するように解放の技術をなおざりにすることで、それを衰退させていきます。
当然ですが、使わないと技術は衰えます。楽器演奏も、スポーツも、手芸だってそうでしょう。それと同じなんです。
そうして抑圧の技術だけが手元に残るのです。
抑圧という翼だけでは飛べません。当然です。もう一つの解放という翼が必要なんですから。片翼で飛ぼうとするから失敗するんです。そして落下して怪我をします。それがトラウマ化して、空を見ることが怖くなり、うつむいてばかりの人生を送ります。こうしたことは、とても辛いことです。
どうかこれ以上、一所懸命飛ばないでください。そのままでは奇跡が起きる前に死んでしまいます。我々は皆、両翼で飛ばねばなりません。
真面目は一種の狂気です。そこには固執や執着、頑迷といったものが含まれているからです。
間違ったことに一途になると、ただのヤバい奴です。
真面目は諸刃の剣です。使い方を誤ると自滅します。
ですから、自分の努力の方向性が間違っていないか、折に触れて確認したいものです。
真面目のベクトルに気を付ける。

つらさの源流を訪ねて

いつから日々がつまらなくなった?

思えば、私が子供の頃は生きることが厭だなどと感じた記憶がまるでないんです。
これといって活動的だったわけではないのですが、辛くは無かった。
毎日が「そこそこ楽しい」という感じで、地味ではあるものの、安定していたように思うのです。
そこで、何故日々が退屈でつまらなくて、辛いものになってしまったのかを考えてみることにしました。
まずは、辛くなったきっかけを洗い出してみます。
あくまでも私の例ではありますが、それを基に考えていきましょう。

思い当たる諸々(砂田見の場合)

  1. スポーツ(ゲーム)ばかりの日々になり、目的遂行型になった

  2. 目的を持たない自由なアウトプットをしなくなった

  3. 成長により社会性が強まり、ある種の型を演じるようになった

  4. いじめの洗礼により他者への意識が過度に強くなった

スポーツについて

まず、スポーツですが、私は二種類に大別して理解しています(勿論我流の分類です)。
一つは記録型。もう一つはゲーム型。
記録型というのは陸上競技などが典型で、記録を競うものです。これは自分を高めることが肝になります。自分と他者の競争でもありますが、自分と他者の「記録」を突き合せて競うスポーツです。間接的な勝負なんです。その分少しだけ冷静になれるという側面がありますね。少し格好つけて言うならば、「自分との戦い」といってもいいでしょう。まぁ、それでも競技には変わりありませんから、目的遂行型の白黒思考ではありますけれども。
それに対して、ゲーム型は、勝敗を競うタイプのスポーツです。球技などが典型ですね。相手を負かすことが肝になるスポーツです。仮に自分が無能でも相手が自爆すれば勝てます。相手に負けなければ勝てるんです。ま、極論ですけど。で、勝敗を決めることが目的なので、先述した記録型よりもずっと白黒はっきりつくのが特徴です。
野球やサッカー、バレーボールやバスケなどの球技が人気なのはちゃんと理由があるんです。人は皆、勝負事が好きなんですね。東軍西軍に分かれてドンパチやりたいんです。わっしょい。でも、それやったら死人がでてヤバいので、平時は箱庭版の戦争ごっこで我慢しているんです。その代表がゲーム型スポーツ。戦争は紛う方なき暴力ですから、スポーツも暴力のヴァリエイションとなります。雑な論理展開ですね。すいません。精進します。
ゲーム型スポーツは、要するにスポーツマンシップに則って、嫌がらせをするわけです。勝てば官軍なんです。みっともなくても勝ちゃいいわけです。負ければ、仮に正論であったとしても負け犬の遠吠えと罵られます。なんだかド○ラミンゴみたいですね。
少し怨念じみたものを感じますか?
そう、何を隠そう嘗て私はゲーム型スポーツをやっていたからです。楽しさも知っていますが、副作用もたんと学んでいるのです(ドヤァ)。
私はゲーム型スポーツをやるようになってから、勝ち負けではない尺度を用いなくなってしまったんです。あるまじきサボりです。最早、怠惰の権化ですね。
音楽も絵も植物も昆虫も散歩も詩も、その時の私は何もやっていませんでした。
たまにビデオゲームやるくらいです。それも結局「ゲーム」ですから殆ど目的遂行型の白黒思考です。エンタメは面白いですが、厳しい言い方をするとただの消費です。消費ばかりしていると「生きること」自体から逸脱してしまいます。生きることとは、生産と消費が平衡しながら絶えず循環している状態です。

人生=ゲーム?

現代における人生はあまりにもゲーム的なんです。「人生ゲーム」ってあるじゃないですか。あれすごく象徴的だと私は感じます。順位を競って、他人の不幸を笑う。すごく悪趣味です。俗物にまっすぐ。そこ潔くしないでほしいですよね。恥が必要な人に限ってそれを欲しないのですね。迷惑な話です。あ、これでも大分控えめに言っているくらいです。本気を出すとNGワードが飛び出しまくるので、絶対にそれはやめようと強く誓っています。制約と誓約ってやつです(因みに私は強化系です。)。
「絶対勝てるシステム」の構築に余念がない狡猾な権力者たちは、「勝ち組/負け組」という観念を魔法のように作り出して、大衆に競わせるんです。解り易く言えば、ホストとかキャバ嬢みたいなもんです。仲間で争って彼らは何がしたいんですかね。謎です。
人々は不安に駆られて冷静さを失います。皆生き残りに必死ですから、違う道があることに気付きません。元来競争好きな人間の本能もそこに拍車をかけます。そんなことも相まって、皆、猪突猛進です。忙しない世なのですね。エレガンス度0%です。あらまあ。
それで、受験というゲームに参加し、就職というゲームに参加し、婚活というゲームに参加し、頑張ってステイタスを高めていきます。人生はあまりにもヘンテコなゲームです。人生はドラクエではありません。それは画面の中だけでやっててください。それが大人の対応というものです。
でも、そんな何処の馬の骨かもわからないような奴が決めたルールを律儀に守り従い、ゲームに参加する必要などありません。それは法律でもなければ、常識のような不文律でもありませんから。
つまらなければ降りりゃいいんです。ただそれだけ。実に簡単じゃありませんか。
でも、そういう発想が出てこないようにあらかじめ外堀を埋められてますから、ドロップアウトしないとそのことに気付きにくいんです。残念ながらそれが現状です。
聡明な人はすぐに解るんですよ。その出鱈目なアホらしさに。でも、私は頭が悪いので、一度落ちぶれて気付く以外に手段がなかったんです。まぁ、その事実が分かったのでよしとしているんですけど。ま、これはひきこもりの強がりかもしれませんね。

ロストテクノロジー

兎にも角にも、私はそうして自由で混沌とした重要な行いをいつしか実践しなくなってしまったんです。
解放の技術はそこで途絶えます。正にロストテクノロジー化ですね。

ややこしきかなマージナルマン

私の自意識過剰は生来のものではない気がするんですよね。
幼少期の自分を調べてみると、どうもそうは思えなくて。
一番の転機はやはり思春期の辺りでしょう。大概皆そうだと思うのですが、私も例外ではありませんでした。
性差が出ることで、何某かのジェンダーとしての振る舞いを求められます。それから、大人としての振る舞いも求められるようになりますし、組織のうちの一人としての役割も増えてきます。
今まではシンプルな「個」でいられたのに、一気に演じる役のオファーが舞い込んでくる。難しい役を演じるテクニックと経験がない焦燥。そこから生じるプレッシャー。こんな苦行を前にしたら、パニックになってしまっても不思議ではありません。
私の場合は、運悪く、そうした社会的役割の変化といじめが重複してしまいました。
心身ともに変化していて不安定な時期ですから、どうしてもいじめが発生しやすいんでしょうね。残念ながら。思い返せば、ケダモノのような同級生が結構いたんです。血気盛ん過ぎて、とても不安定な様子でした。周りもまた、とばっちりを食らうことで不安定になる毎日でしたけど。
ただでさえ思春期はストレスがかかる時期なのに、いじめられたらたまったものではありません。本当に人間社会は不条理だと思います。白状すると、今でもいじめっ子たちを機関銃で駆逐する妄想に捉われることがあります。ダークサイドの夢なのでしょうね(夢は夢のままで終わって欲しいものです。)。
そうした時代を経て、私の中に過剰な自意識というものが自ずと形成されました。
これは言わば「自己検閲装置」ですから、たいへん厄介なものです。自らの一挙手一投足に神経を尖らせてしまうため、私は人前で食事をすることが出来なくなりましたし、気が散って勉強も出来なくなりましたし、倦怠感が強くなり、色々な意欲が低下しました。慢性的なストレスは学習機能に悪影響を及ぼすそうですから、私のバカはいじめがブーストしてしまったのかもしれませんね。
しかも自己検閲は放っておいても止まりません。なんと厄介なことに永続するんです。いじめから解放されて無縁になっても、ずっとずっと続きます。文字通りの消えない傷なんです。

相乗効果がすごい(悪い意味で)

先述した「スポーツ由来の白黒思考」と「いじめ由来の自己検閲」の組み合わせの相乗効果で、それはもうもの凄い(負の)エネルギーになってしまいました。私は随分とそれに苛まれましたし、今でも完全に飼いならせてはいません。

ゲーム型白黒思考+いじめ+思春期

ですね。
うーむ。

ゲーム思考×いじめ×思春期(心身の変化+社会的役割の変化)

の方がいいかしら。すいません、私は中学でドロップアウトしているので、謙遜とかではなく、算数および数学が解らないんです。式の立て方が解りません。日常生活に少し支障をきたすレベルなので、学び直そうかとたまに思うことがあります。

実践編、ようやく始まるよ

実践により過去を成仏させる

ここまで論じてきて、大雑把ではありますが、その原因が整理出来ました。
そして次に考えるべきことは、「どうすれば楽になれるのか」ということですよね。
単に原因を考えるだけで終わりにしては、後味悪いままです。胸糞悪いです。
未来に向けて、対策しましょう。
そうすることで過去を成仏させてあげましょう。バーイ。

歌と踊りは解放のための叡智

その対策なのですが、なんと歌って、踊って、楽しくなる。という、陽気100%の奇策です。
勢い余って「奇策」などと言ってしまいましたが、いたって私は真面目です。スーパー大まじめです。
これらは解放の本流だとすら思っています。
歌と踊りは世界各地に存在する不思議な文化です。「文化」などというと堅っ苦しいですね。「営み」と言い換えましょう。歌と踊りは人類の営みです。
様式は違うものの、階級や人種を問わず存在しています。
しかも大昔からあります。
縦軸横軸、全制覇です。強すぎます。正にグローバルの王。
何故そんな営みがあるのかと言えば、人類にとって必要だからあるんです。
本当に不要なものなのであれば自然淘汰されるはずです。
・・・という保守主義的な考えを拝借して、結論しました。
勿論、続いているものはいいものだ、というのは危険な発想です。G.オーウェルのアニマルファームみたいですものね。
続いているものはいいもの、なのであれば「愚かさ」も「戦争」もいいものになってしまいますからね。だから、必ずしもそうではないんです。でも、歴史=時間の洗礼に耐え抜いてきたものというのは、それなりに正統性があると思うのです。私は困ったら保守に頼ります。すみません、話が長くなってしまいましたね。
それでは行ってみましょう。いざ!

歌と踊りⅠ - 踊りについて

踊りは人類の叡智だと私は思っています。
無意味な体の運動をすること、律動に乗ること。
そしてそこには正解/不正解といった強迫的なものはありません。
そうしたデジタル思考は合理的で我々に豊かさを授ける一方で、自由の探究者であるこころを抑圧しますから、負の作用があります。だから非合理的で無意味でカオスな時間もまた人には必要なんです。
踊りと言えばクラブ。皆の者!クラブへ行こうぞ。いざ出陣!
あ、ここ田舎だからクラブねぇや。自分でDJやるしか無いっすね。面白そう。テクノ黎明期みたいで楽しくなってきました。
しかし、クラブは問題を多く抱えているようにも思います。
個人的に気になるのは、アルコールとドラッグへの依存です。
そもそも、そうした強制解放装置を使わずとも楽になれる技術・知恵としてのありがたい存在が踊りなんですよ(出たーそもそも論!つおい。)。つまり、ドラッグ・アルコール+踊り、というように組み合わせるのは、本末転倒しちゃってるんです。
私はクラブミュージックの中に好きなものは沢山ありますけれども、クラブ「カルチャー」には懐疑的な部分も多いです。
とにかく、アルコール/ドラッグには副作用がある。健康を損ねます。だからその対策として踊りがあるんです。合法かつ一番心身に優しいんです。自他ともに労わりましょう。
それから、アルコール/ドラッグを使うと、ハイになり過ぎてしまいます。だから一晩中踊る、みたいなことが出来るんです。なんだかマツケンサンバⅡの世界みたいですよね。私など、一時間で踊り疲れてさっさと風呂入って歯磨きして当日中に寝たくなるでしょう。踊り明かすことなど到底できません。
ハイになり過ぎてしまうと不自然ですから、リバウンドを起こします。やはりここにもホメオスタシスが働きます。そういえば「チルアウト」はハイになり過ぎてしまうから沈静の音楽として生まれたのでしたね。その副作用に悩んでいたからこその知恵なんですね。ストリートのウィズダム。ところで「ルー大柴」は元気にしているのでしょうか。
すいません、話を戻します。チルアウトは知恵ですが、短時間でクールダウンすると、アップダウンが急激なのでいずれにせよ、こころがおかしくなります。人のからだはそんなにスピード速くないんです。

それから、付言しますが、競技ダンスはメンタルには良くないです。ここでは主に振り付けのあるダンス(構築されたダンス)と勝敗のあるダンスを指します。社交ダンスなどが典型ですかね。要するにダンススクールで習うようなやつです。
身体を動かすことにより、ある程度の気分転換は見込めますが、それならば散歩とか筋トレのほうが効果的だと思います。
競技ダンスは「正/誤」、「上手い/拙い」、「勝/敗」、などといった白黒思考がついて回りますから、解放の技術としては不向きなんです。
それらは、一つの楽しみとしては良いのですが、目的遂行型の要素が強すぎます。他者由来の価値基準が強すぎるんです。しかもそれらは同期シンクロが前提でしょう。要するに窮屈なんです。競技というものは技術に依存するので、どうしても排他的・差別的になってしまうんです。そうした踊りの持つ性格を理解した上で楽しむ必要があるのです。
それに、日常生活では同期を強いられる場面が圧倒的に多いのが現状なんですから、気分転換の時ぐらいカオスになりましょうよ。我々は同期にマジメになり過ぎなんです。真面目の方向性、注意です。
従って、割と誰でも参加できる「盆踊り」みたいなものの方がユニバーサルでいいです。競技の悪口を言っているわけではありませんよ。ただ物事には向き不向きがあるということを言っているだけです。

とにかく目的を持たずに踊りましょう。頭空っぽにして。なんならリズムに合わせる必要すらありません。自由を欲する体の要請に応えてあげましょう。自分の、自分による、自分のための奉仕活動だと思って。
因みに、私は一人で踊っていますよ。だって人前は恥ずかしいんですもの。人前に出るだけで汗だくになるのに、その上踊るなど言語道断です。脱水で死んでしまいます。
ですから、私は一人でやることにしました。
ひきこもりオールナイトです。いずれDJもやると思います。音源はそれなりに持っていますからね。資産運用とは本来こういうことを言うのですよ。OK?
まずは思わず体が揺れてしまうような音楽をかけるところから始めましょう!
シャイでも一人でならば踊れるでしょう?
考えるな、感じろ。
あとは本能がなんとかしてくれるさ。
まずはそれを引き揚げてあげましょう。

歌と踊りⅡ - 歌について

歌も解放の技術であり、先人の知恵です。というか、歌と踊りは何処に行っても存在するので、生理現象のような存在なのかもしれませんね。それを止めることは体にいいと思いますか?
クラブ文化は日本に大して根付いている感じがしませんが、その反動によるものなのか、日本人はカラオケ大好き国民ですよね。
踊<歌 の民なのですね。少なくとも現代の日本人は。
恐らく、歌は形式が強いので、ほどよい型が心地よいのでしょう。やるべきことがはっきりしている。歌うだけ。(そういえば、「うたうだけ」という曲が武満徹の合唱曲にありましたね。聴くと少し気持ちが楽になりますよ。知らない人は調べてください。因みに詩は谷川俊太郎です。)
自由過ぎるとなにをしていいのかわからなくなってしまう人もいるのではないかと想像します。日本人は特にその傾向が強いかもしれません。
それから、カラオケは、「カラオケボックス化」したからこそ普及したと私は思うのです。良い感じのママがいるスナックで「人生色々~」などとエモい感じで歌い上げるのはコミュ強の特権ですが、閉鎖的なカラオケボックスであれば、シャイな人でも歌えますからね。身内ノリというやつです。Y本興業みたいですね。良いんだか悪いんだか。
余談ばかりですみません。
とにかく、歌うことは解放の技術であるので、好きなうたを歌いましょう、と言いたいだけです。以上!

と思ったのですが、もうちょっとだけ続くんじゃ。

鼻歌とか口笛とか、ついつい出てしまったりするでしょう。
ああいう現象を止めないことです。それが一番大事。大事マン参上。
旋律が体から出たがっているんですから、止めたら可哀想です。
変に我慢せず、出し切りましょう。抑えるとじきにおかしくなると思います。そういうことの積み重ねですよ、人生は。(などと言ってみる。)
でも、私もそうですが、人前で「ふっふ~ん♪ら、ら、ら、ら~~ん♪」なんてやるの恥ずかしいですよね。その対策としては、一人の空間を設けることが一つ。そこで好き勝手にやりましょう。もう一つは、カラオケという大義名分を設定して後ろめたさを封じた上で、存分に歌って発散・解放することです。コツは、水を得た魚になることです。自分の得意なフィールドに持ち込めば、もうこちらのもんですからね。

最後に一言 ~職人見習いからのメッセージ~

こころは自然状態を欲しています。
その欲求を満たしてあげないと、きっと死んでしまう。
だから、必死でその人に訴えかけてきます。それは不調とかそういった形で顕現することが多いでしょう。不定愁訴など、全て抑圧に由来するのではないかとすら私は思っています。
人間にはお薬も必要ですが、自分で心身を調整メンテナンスする技術が必要です。
それは、いわば自分専門の修理/修復を生業とする職人です。
そういう職人に、皆でなりませんか?


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