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好きな人の信じている言葉に、触れる時。

「ぬるっとした」って言葉を

聞き始めたのはたぶん5,6年前ぐらい

だったかもしれない。

外国から来た方がこの「ぬるっと始まる」って

日本語の意味がてんでわからないと

質問されていた。

わたしの中の以前のぬるっとしたは

飲めるほどにすりおろした

ヤマイモ的もしくはジュンサイだ。

あれはぬるっとという、食感がある。

もしくは手触りがある。

言葉と意味と感覚が一致している。

そう言う意味で感覚は気持ち悪くても

言葉としては一直線上にあるので

気持ち悪くない。

でもいまでもよく聞くこの

「ぬるっとした」はてんで違う。

体感とは別の場所にある言葉のようだ。

「ぬるっと始まりましたね~」って

芸人さんがМCをしていた。

バチバチの仕切りなしに始まる、ゆるゆるに

始まることだよねって思いながらも

この語感は、ちょっとぬめっと肌に

まつわりつく。

ぬるっと考えてみたい、ほんの少し。

たとえばぬるっとした、夢。


それってどんな夢だろうと思いつつ

起きていた時から、眠る時の境って

いつもあやふやだから。

手触り感なく夢にはいっていくから

そのなかにはもうぬるっとが

含まれてる気がする。

夢イコールぬるっと。

たとえば、ぬるっとした会社。


入社してみたい。

時間もきっとそうだろうから

ぬるっと出社できるかもしれない。

少々の遅刻もゆるしてくれそうだ。

ぬるっとした景色。


どういう感じだろう、やっぱり糠雨とか

体感を伴う感じがするのでこれも

従来の使い方なのだと思う。

芸人さんのどなたかわからないけれど

はじめて「ぬるっと」を使った方が

いらっしゃるんだろう。

すごいな。

ぬるっとの意味合いをまったく違う

形で表現するところ、やっぱ芸人さんの

言葉って、言葉を生き物のようにみせて

くれるから。

だから、どんどん伝播してゆくんだろう。

ここ数日ほんとうは、わがごとばかり

書いていていいのかっていう疑問も

あった。

noteで親しくしている方々が、ウクライナへの

眼差しを寄せて記事を書いていらっしゃった。

そのことを読むたびに、わたしはなにか

どこかで目を逸らそうとしていることに

気づく。

そして、目の前の〆切や買い物や支払いなどを

こなしながら、わがごとをやってゆくのだと、

言い聞かせ。

テレビやニュースも動画もなるべく

あの映像をみないように暮らしていた。

でも、いやが上にも映像は飛び込んでくる。

なにもみないまま暮らすことはできないから。

そして、ウクライナから逃げて来る家族の方の

インタビューをみていた。

小さな男の子が、父親がふたたびキエフに

帰って行ったのだという。

祖国を失われてはならぬと、パパは戦う

ために自分たちだけを逃してくれたのだと。

涙をぬぐいながら、まっすぐ言葉を

放っていた。

パパは正義の為にもういちど軍隊に

入るつもりなんだよって。

もう見なかったことにはできなくて。

その後CMが流れて違うニュースになって

さっきのあの一家と父親はどうなったん

だろうと思う。

断片と断片に突き動かされて、わたしたちは

生きているのだと知らされる。

そんな時にnoteにログインしたら、わたしが

信頼している方がこんな記事を書いていらっ

しゃった

こういう時、わたしはどんな専門家の

言葉よりもきっと、わたしが信頼している

ひとたちの声を聴いて、安堵する。

彼女のつけたタイトル。

心に凪をくれる言葉たち。

すごいいいタイトルだなって惹かれた。

凪をくれる言葉にわたしたちがたどり

着くためにはわたしたちは、荒波も

知らなければならないことも

教えてくれる。

ロシアで広く尊敬されている作家・文芸批評家の

ドミートリー・ブィコフの言葉について書かれていた。

きちんと届く言葉で書かれた邦訳には、そこに込められていたであろうブィコフ氏の深い嘆きと祈りがきちんと静かに呼吸していて、気付くと胸のなかにじんわりと凪のような感謝が拡がってくる。

「心に凪をくれることばたち」より。

こうしてわたしたちは、好きな人が信じている

言葉からまず信じようとすることで、心の

平穏を保つものなのだと知った。

私たちは予想外のことが起きたかのように驚いている。私もまた、こんな戦争が起きてほしくないという一縷の希望にすがっていた。けれどもいまではその希望を恥ずかしく思う。何者かが「ガア」とアヒルのように鳴いたら、その正体はやはりアヒルなのだ。似ているのではなく、そのものなのだ。プーチン政権のやってきたことは、おそろしいほどすべてが、ここに向かっていた。憎悪の蔓延してきたここ8年のことだけではない、20年かけてここまで進んできた。

ロシアの文芸批評家ドミトリー・ヴィコフの言葉より。

そして、ぬるっとした言葉についてわたしは

ふたたび思う。

戦いになる前は、戦いになるなんて思っても

いなかった無知なわたしがいて。

なんだかぬるっと戦争が始まった気がして

気持ち悪かったのだ。

ほんとうにやってしまうなんて

想像だにもしていなかった。

だけど、ウクライナの人たちからしたら

それは決してぬるっとじゃない。

8年前から、いや20年前からずっと戦争状態

だったんだと。

こんなに目に見える形になって、みんなが

戦争だといいはじめたと。

ぬるっとした言葉の中には、とても

おそろしい時間がふくまれているようで

わたしはあの、以前の馴染んだ体感を伴った

「ぬるっと」にやはり馴染んでいるのだと

気づかされる。

ドミートリ・ブィコフが紹介していた
ウクライナの作家ミハイル・コチュビンスキーの
小説『忘れられた祖先の影』を映画化した
『火の馬』。

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