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「金継ぎ」と「自己受容の姿勢」


人の思考は「誰かと比べる」ことを勝手に行います。「こんな自分ではダメ」「もっと努力せねば」などの思考が自分の意志とは関係なく、頭の中をめぐり、その考えを疑いもせずそのまま信じ込むのがほとんどです。

「こんな自分ではダメ」というのを人は知らず知らずのうちに「今の自己への否定」を達成するわけです。

「今の自己への否定」

確かに自己を否定することで努力するに至れる場合も少なくないですが、あまり健全な方法とは言えないかもしれません。

なぜなら、基本的にこのような「煽りの思考」には終わりがないからです。どれほど達成体験や成功体験を積んでも「煽りの思考」に対して、妄信している限りこころが満たされることなく、自分の首を少しずつ詰まらせていくのです。

慢性的な自己への否定は「劣等感」「他者評価への依存」を強め、「自己受容」を遠くさせていくわけですね。

どうせ自分なんか・・・

これらの概念は目には見えない物事なので、イマイチ伝わりにくい部分もありますね。(心理学全般に言えることですね…)

そこで今日は「自己受容」の応用的な概念として「金継ぎ」という文化を交えたいと思います。

『金継ぎ』とは、欠けた食器類を漆で継いで、金属粉で装飾をして仕上げる日本の伝統的な修繕方法。調べてみると今から400年前、江戸時代ではもうすでに普及していたといわれている、とても歴史が深い技術だそうです。

金継ぎでは割れている部分や傷の部分をあえて強調します。そうなんです、修理と言えば、何もなかったようなクリアな状態を目指してしまいそうですが、逆を行く美学なんですね。(ダメージジーンズみたいな)

改めて見てみるとその美しさに気づきますね


なぜ、修理といえばクリアな状態を我々は想像してしまうのでしょうか。
そこには現代の人間が抱える「完璧主義への堅い信念」が存在していると思います。
「綺麗で、まとまりがあって、一貫性があって、粗がなくて」など完璧というのは色々な所で顔を出す概念ですね。修理に関して言うと「そのものが壊れる前の完璧な状態になるべく近づけるべき」という信念があるように思います。しかし、割れたことを否定するのではなく、そのプロセスをも受容する姿勢をロックな精神で答えを見出したのが「金継ぎ」と言えるかもしれません。

完璧主義の姿勢は、人の自己評価(自動思考の働き)にも見受けられるかと思います。
「こんな自分であってはならない」「自分こうのように動くべきである」などの考えを妄信して「現実の自己」を否定し、「理想の自己」への追求をがむしゃらに行う。主には、冒頭で述べた内容になります。

怖いのは、「理想の自己」が、本当に自分が目指し「たい」姿なのか、あるいは目指す「べき」姿だと思っているのか、分からなくなってしまう場合も多いことです。この二つは似て非になるものです。精神状態に至っては大きく違います。

人は新品の状態に戻すのはほぼ不可能です。むしろ、以前の状態に戻してしまうことは、せっかく苦労して体験したこと、気づき、学びを無くしてしまうことになってしまいます。むしろ、その傷を、苦しい体験を認めることで、「金継ぎ」のように奥ゆかしい美しさ、人としての魅力が表れるのではないかと思います。

自分の弱さや失敗を認めてる人間は魅力的です。
その人にしか語れない物語があり、その人にしか出せない味わいがあります。「金継ぎ」と同様に。私も一度体験したいものです。

自己受容の具体的な方法についてはまたの機会に語りたいと思います。

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