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【見解】①自らの物事への解像度の程度:②見解やアイデア等の傾向と好み:③アイデア等に関する有識者等とのやり取りのスタンス:④この世界の本質的な完璧さと祝福性

🔴< はじめに >🔴

今回は、見解やアイデアに関する各分野への解像度についてと、実際性の有無など自らのアイデア等の好みや傾向について、また自らの見解やアイデア等に関する有識者等とのやり取りに関して等を示す。

この内容は投稿した段階に対してタイムラグがある。少し前にまとめたことを中心に記している。リアルタイムの「今」から、外れるが、示した方が良いと思うため、示す。

🔔< YouTube動画 >🔔

YouTubeにも、今回の記事と同内容の動画を投稿した。
それも示しておく。


❗< 使用楽曲 >❗

YouTubeの動画説明欄に書ききれなかったため、使用楽曲をこちらに示す。

🔹「こだま」/作(編)曲 : かずち

🔹「奴隷の戦略」/作(編)曲 : かずち

🔹「raindrops」/作(編)曲 : ハヤシユウ

🔹「猫が降る街」/作(編)曲 : 北見ヒツジ

🔹「銀河の夜明け(COSMIC DAWN)」/作(編)曲 : 蒲鉾さちこ

🔹「Gravis Gradus」/作(編)曲 : shimtone

🔹「Routine」/作(編)曲 : gooset

🔹「ブルーシャドウ」/作(編)曲 : かずち


🔔< 音声のみ(Spoon,stand.fm) >🔔

バックグラウンド再生が可能な音声のみのものも、投稿した。
それも示す。

💠Spoon

💠stand.fm


🔔< 関連内容 >🔔

今回の内容と直接連動する動画や記事を以下に示す。

※参考内容:

💠預言書と私のプライドについて

🔻↑の記事の動画
【見解】①預言書との関わり:②プライドという現象の肯定:③個性(プライド)により生じるネガティブ反応の低減方法

🔻↑の記事の音声のみ①(Spoon:バックグラウンド再生可)
 ※後日投稿予定

🔻↑の記事の音声のみ②(stand.fm:バックグラウンド再生可)
 ※後日投稿予定


🔴< SNS >🔴

 🔹note
 
🔹YouTube 
 🔹Spoon    
 🔹stand.fm    
 🔹X  


🔴< 見解等を提供や共有する際の取り組み意識意図 >🔴

また顕在的、潜在的にそれぞれの方向性や観点から何かしらプラスになる人、かつ内容に関してショックや動揺が生じない、またはご自身で影響をカットや対応できる人にのみ、届くように意図する。

内容の提供や共有に関するその他の取り組み意識については、以下の記事で示した内容に基づく形とする。


※参考記事:

💠①闇や陰の光化:②陰的影響をカットできる橋渡し的存在たちを介しての、それぞれの管轄の光や陽を体験している存在たちへの提供:③それによる各領域の豊かさの質的向上

💠①自己の見解等の受け手として、何かしらプラスになる人々、かつネガティブな刺激等を受けない人々の意図:②そうした人々への伝播による全体にとってより効果的な浸透

💠気付き等をシェアする際の取り組み意識および留意点

💠気付きやアイデア、アプローチ等を提供やシェアする際の取り組み意識  ~ネガティブベースのものにおける、リアリティのあるおとぎ話としての提供やシェア~


🔴< 関連記事 >🔴

今回の記事と特に関連する記事を以下に示す。


※参考記事:

💠街型のプラットフォーム、革命を超えた革命と、その後の世界の流れ、内外的な新しい質の世界の完成

💠地の時代→風の時代など、エネルギー的な変化の周期における、人類の内外的な変化や移行の既存パターンを刷新する、3層(4層)の土台とその完了

💠AI等による生存に関することをまかなえる段階に入った際の、生存ベースの人類社会から、個の発揮における内的感覚(幸福感等)ベースの人類社会への転換と、二重構造化

💠①現状の資本主義システムによる支配構造について、②その担い手や元になる性質や能力、ニーズの、より調和的かつ快となる形で発揮できるシステムや環境の構築と提供、③新システムにおける新たな支配構造の構築を回避するための、支配構造の構築等を担う性質や能力、ニーズ等を持つ潜在的担い手たちの倫理観およびその元になる意識や状態、エネルギー等の、全体と調和化する色合いへの昇華、それを意図したシステム、文化文明、環境の構築と提供




🔻【①】🔻


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①-1「物事の認識における解像度の傾向 ~個人的な物事の理解の流れと、各物事における社会的な共通認識化された概念群や物事自体の解像度の程度~」


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私の各物事に関しての解像度は高くない。

物事の理解において、物事における社会的に共通認識された概念群(教科書的なものや、各分野や集団における専門知識的なもの)について、自らにしっくり来る「抽象的な独自概念」を見出し捉える。
または、物事そのものから感じられる「感覚」から、既存の概念や法則といった体系化されたものに関わらない「本質的な認識」を気付き等により抽出し、理解する。

全体の流れとしては、以下のようになる。
以下で示す参考記事のような方向性の認識、および状態(非言語的にある段階での理解の伴う感覚)を元に、あらゆる事象や物事をシステム的に捉えるための独自の概念群を土台として、各物事における独自の抽象的な概念群を見出す。

そして、各物事における抽象的な独自概念群を用い、共通認識化された概念群を捉える。こうした構造で物事を捉えている。

※参考記事:

💠①対象や事象に対する二元的な認識の付加と、そのリアリティ感、②(認知等の違いを含む)新しい意識や状態に基づく、新しい基礎概念群、それに基づく人口言語の創造と、それによる、新しい質の文化文明、ネオ科学、人類の創造の可能性、③引き寄せ系における現実創造と、その時点の(体験世界上での)人類等の集合意識に対するゼロイチ的創造との融合的なアプローチ

💠①根本的な原理の、根本的な原理が指し示す内容自体への再帰的な適用による破れ、②個の総体として全体が成り立っているという意識状態(A)と、全体自体の現象として個々が創造的に認識されているという意識状態(X)、③Xの意識状態の上での、全体の構成を変え(色合いを変え)、それを体感するという意識での創造のアプローチ(根源に解放された創造性)

💠科学と本質との関係性、人類という心身の器の変化変容による科学の質の変化可能性

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上記で示したように各物事を捉える際、各物事における抽象的な独自概念群による理解を重視し、それを行うための材料として、共通認識化された概念群の把握を行う。各物事における抽象的な独自概念群の形成は、その時点での自分にとってしっくり来る感覚の段階まで行う。各物事における物事特有の意識や状態の変化変容(深まり)は、無限に生じうるものであると認識している。そして、各物事を追求している、従事している人々へのリスペクトがある。

その点で言うと、「私の各物事においての解像度自体は高くはない」場合がある。各物事や分野における、共通認識化された概念群の記憶も、殆どなされない場合がある。

各物事や分野をその時点での自らにとってフィットする段階、解像度で理解するために主要となる概念等は捉える場合があるが、それらと各物事や分野における独自の抽象的な概念群により、その他の共通認識化された概念等は枝葉的なものとして認識されるため、具体的にはあまり記憶されない、ストックされない。

各物事等の全体および各部分を捉られるようにするための、主要な独自の抽象的な概念群(本質的なもの)や共通認識化されたいくつかの具体的な概念を捉えたら、その時点での各物事や分野に求める解像度の段階としての「自らに必要な分の全体網羅」ができる傾向がある。
そのため、後は枝葉的なものとの認識となり、興味関心や必要性から欠落する。そして、自分にとって必要な分の理解を得られたことによって内的な意識や状態の変化が生じる。そこから、他の物事への理解の刷新や興味関心、また必要性などが開かれ、別の物事や事柄へのフォーカスに向かう。

それを繰り返す中で、また過去に取り組んだ物事や分野に戻って来る場合がある。その際は、より解像度を高めて、捉えていく段階に入ったりする。



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①-2「あらゆる物事を理解するための事柄への解像度のある程度の高さ」


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私自身は人生のある時点までの主眼は「器の器」を創ることであった。私の感性、感覚に基づいた上で、知識としてではなく、今の私の認識でいう「状態」そのものとして、あらゆる物事を独自に理解できるようになることだった。更に、そうした各分野への理解をもって、自分が納得できるレベルまでの「何かしら」を創造できるようになることだった。

そのため、「①ー1」でも示したが、以下の参考記事(記事A.記事B.記事C)等のような内容に関しては、自分の感性、感覚の中においてはある程度の意識、状態に至ったという感覚がある。それ故に器の器を創るという段階の、「次」へと意識が向かった。

当時における「ある程度の段階」に至った後も、様々な気付きや体験があって、その「段階」は深まっていった。また深まっていってもいる。ただ、現状というか、「器の器」ができた、至った段階以降においては、この方面を主としてフォーカスするということは無い。(今後ゼロとは言い切れないが、熱量が異なる。)

※参考記事:

 ■<記事A>
💠①対象や事象に対する二元的な認識の付加と、そのリアリティ感、②(認知等の違いを含む)新しい意識や状態に基づく、新しい基礎概念群、それに基づく人口言語の創造と、それによる、新しい質の文化文明、ネオ科学、人類の創造の可能性、③引き寄せ系における現実創造と、その時点の(体験世界上での)人類等の集合意識に対するゼロイチ的創造との融合的なアプローチ

 ■<記事B>
💠①根本的な原理の、根本的な原理が指し示す内容自体への再帰的な適用による破れ、②個の総体として全体が成り立っているという意識状態(A)と、全体自体の現象として個々が創造的に認識されているという意識状態(X)、③Xの意識状態の上での、全体の構成を変え(色合いを変え)、それを体感するという意識での創造のアプローチ(根源に解放された創造性)

 ■<記事C>
💠科学と本質との関係性、人類という心身の器の変化変容による科学の質の変化可能性




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①-3「余談:少し私のこと:①至高体験:②器の器への至り:③人類の理想の探求:④この世界の完璧性と祝福への体験的気付き」


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上記で示した「器の器」に至った後、「人類における理想とは何か」「理想の状態とは何か」への探求が始まった。この時点において、器の器に至る過程、および至った段階における認識や意識、状態としては、以下のようなものであった。

「理想」というもの自体、人類において画一的、固定化され共通認識化されたものは存在しない。またある段階において見出された「理想」に実際に至ったとしても、その理想の段階が起点となり、次の理想が見出される。そのため、理想とは、そのような相対的なもの、人間としての器における「想像する機能」が生むもの、生み続ける可能性を孕んだもの。またそうした「現象」であり、普遍的なものは見いだせない。といったような「理想」に対する認識や感覚だった。

人類における「普遍的な理想の状態」というものは、そもそもが「人間という器であることにより原理的に見いだせない」、というような認識や感覚があった。その上で、もう一段、私の中における表層において、「私という個性、また感性においての、普遍性のある人類における理想の状態」を見出すこと、そこにどうすれば人類を持っていけるのか、その方法を見出すこと、という観点から、追求を開始した。

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そこから、いろんなことがあった。

また、もともと器の器を創るという遥か前に、まず「至高体験」とでも言えるような体験があった。そのトリガーとなった物事に、熱中していた時期があり、それが私を「本気で生きること」に切り替えさせた。そこから、本質の探求(その流れでの器の器を創ること)を「本気で」やるようになった。

なので、この至高体験的な事柄で得られる内的な快、幸福感は体感しており、それを土台とした在り方の大切さ(大切さというか、幸福感、豊かさ)は既に身に沁みていた。その上で、その在り方をより深い段階のものにしたいという想いから、「本質の探求」(真理の探求、器の器を創ること)を始めた。

本質の探求(器の器を創ること)がある程度に達した感覚に至ってから、人類における理想状態の探求に進み、ある時点で動き出したとき、様々なことが起こっていった。そして、それらも「ある時点の自らが願ったこと、想ったこと」であったことにほぼ始めから気付いていた。また、進む程により明らかになっていった。

(この流れや展開はネガティブなものでは無く、むしろマクロで観た時にポジティブなものであり、願いを叶えることをサポートするようなものだった。その期間、マクロ的にはずっとサポートがなされ続けていた。)

ある時点での願いに対して、それが作動し始める間に自らは変化する。その流れがたとえ一側面においてポジティブであったとしても、ニーズを満たすもの、それに繋がるものだとしても、実際に流れがきたからこそ、もっとこうであった方が良いということが分かったりする。そうしたこともあり、流れに抗ったり、乗ろうとしたり、対応したり、そうした過程の中でいろいろあった。

その特定の期間、流れが来ていた期間において、正直やりきれなかった。(という感覚があるが、得たものも多い。私の好きな言葉は「受領は倒るる所に土を掴め」だ。私は欲深いヤツだ。転んでもただでは起きない。というか追い詰められると何かに至る、できるようになる。だけど追い詰められたくないんだ。またこの欲深さを、自らの俯瞰した視点から全く否定していないし肯定している。だからなおさら、たちが悪い。注:なお、欲深くない人も同様に肯定している。注:終了)


ただ今回は、周りに何と言われても、自分の軸、感覚、エネルギー感、ペース、流れでやる。その上での協力だ。協調だ。

更にもっと言えば、この自分の軸やエネルギー感、ペースでやるということも、簡単なようでそうでない場合がある。また、やっているようでそうではなかったりする。様々な人々、グループ、エネルギー、流れ、霊的な存在等といった、外部の影響を受けていたりする場合がある。今でもだが、影響に気付くこと自体、段階性があると思うが、その上で、当時は主要な影響に気付ききれていなかったり、気付けた場合でも、対応対処できずに、どうしようもないこともあった。

また更に言えば、自分自身の顕在意識や潜在意識等も様々な側面のニーズが影響して、別の願いを生み出し、そうした流れを現実化するなども生じうる。それによって、目的に対して進むことに関して距離が生じるような影響を与えることもある。

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正直やりきれなかったと感じたが、ただ結果として、「どんなに人間の器としてネガティブとされることやものであっても、ポジティブとされるものであっても、全て等しくそれ自体として「祝福」されていること。この世界は、どんな状態や結果であったとしても、常に完璧であり、祝福されていること」という感覚を強く体感するに至り、器の器に至った段階における理想に関する認識や方向性とは、別の色合いへと変質した。

「完璧さ・完全さ」についての認識だが、各個人や集団において、意識的、または無意識的に選択されている何かしらの尺度や感性を元に、それと五感覚や認識的に捉えられる何かしらの対象や事象に対して照らし合わせ、「不足なく基準を満たす状態」であると判断や認識、または感じられるものに対して生じる、その「内的な感覚」に対して、「完璧」「完全」という概念、ラベルを張り、人類集団において共通認識化させたものと、当時から捉えていた。

またさらに言えば、完璧さや完全さといったものは、何かしらの対象や事象と、何かしらの尺度や感性との関係性において生じる、人間の器として生じる「現象」であり、本質的な意味で、不足している、足りていない、不完全といった状態は、「存在していない」。故に、「本質的には」、全てが完璧(完全)である。

またある尺度や感性上にて判断できたり、感じられる「不完全」というもの自体も、本質的な視点からの完全さ完璧さといった観点からは、変わらずに完全であり、完璧であり、ある尺度や感性で見た時、比較した時に、現象の形態が変化しているだけであると捉えられる。(「不完全の完全性」。)器の器に至る過程で、このような認識に至っていた。

その上で、上記に示した当時に実感した「この世界の完璧さ、そして祝福されているということ」というものは、器の器に至る過程で得た認識とは、別の方向性での質感による「完璧さ・完全さ」の体験であった。色即是空的な方向性、また現象として、構造として捉える方向性とは異なり、実感された。「この世界は完璧であり、祝福され続けている」と意識が刷新された。

また余談的だが、この「完璧さ・完全さに関する認識」は、個々人の思考や心、行動などにおいて、一般的に「問題や当たり前」とされていたり、されやすいことなどのような、個別的、普遍的な様々な事象における土台として、作用や影響しているものの一つと捉えられる。これは個人レベルだけでなく、集団や社会、人類における個別的、普遍的な、諸問題、諸現象においても同様と思う。

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こうした体験を踏まえ、これは表層における段階での在り方としてのことだが、世界を変えるのではなく、「色合いを変える」という意識や感覚に至った。(当時は「色合いを変える」という言語化された認識ではないが。)

世界は現在、過去、未来、パラレル、において、完璧であり、祝福されている。その上で、何層にも連なる表層の領域(を仮想的に認識した際)において、普遍的な領域の表層のレイヤー群に変化を与えることで、ある種完璧な状態から別の完璧な状態に変化させる。そのそれぞれの完璧な世界において人間という器を通して生じ体感されるものの、「色合い」を変える。そのような「変化させる」という行為や現象に対する内的な感覚の変容が生じた。これは自分の中でのとても大きな意識、状態、エネルギーの質的変容だった。
(これに限らず、いろいろな体験と気付き、意識や状態の変化があったが、これもその中の大きな一つだった。)

私は現段階において、エネルギー領域での個々や世界へのアプローチだけでなく、個々や全体におけるエネルギー領域での変容やアプローチも加味した上で、物質、システム領域、社会領域でのアプローチにフォーカスが行く、そこへの発揮にフォーカスが行く。

システム領域、社会領域、人類領域、それ以上の領域(地球や本質的な宇宙も含むが)における、「新しい状態(世界)を創り上げる」ということを成す、繋げるための物理領域での実際的な取り組みにおいて、上記で示した「本質的な意味で完璧なこの世界において、その色合いを変える」という取り組み意識、状態、エネルギーにて行うことを意図している。これは、深い領域において全てを「そのまま」として認めた上で、より表層の領域において、個々およびそれらが織りなす現象の質を変え、底上げし、その結果として「昇華的解散」「別形態への昇華(創造)」を成すことを指す。

また「色合いを変える」という抽象的な感覚、認識、エネルギーでもって取り組むことは、実際的な領域を「特異な形」で、認知や認識、感知、判断、実行、創造することに繋がる。
それによって、生み出されるもの(生じる現象)は、実際的な領域において、質的な作用的および形態的な変化をもたらす、と捉えている。
同時に、実際的な領域での作用的および形態的な質的変化は、エネルギーレベルでの質的な変化も内包している、また繋がる、と捉えている。

「世界(対象や現象)の色合いを変える」という取り組み意識で取り組むことによって、世界の質(色合い)が実際的にも、エネルギー的にも、「変わる」と捉えている。


🔻【②】🔻


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②-1「自己の核となる部分や領域、理想創造に関する、自己認識上における解像度のある程度の高さと、理想創造系における、具体的な情報の捨象性」


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私の各物事においての解像度自体は高くはないことについての話に戻す。

物事における理解の深み、解像度は、自らの核となる物事においては、ある程度の深さを追求する。自らの感性から、全ての事象や物事を捉える、創造することに繋がる、主となる方向性、分野についてなどだ。

また、人類および世界における理想創造についても、私にフィットする観点から、ある程度の深まりがあるし、今後も深まっていくと思う。ただ、私の物事の理解の性質から、抽象的な領域での独自の蓄積(すでに状態化や非言語化されたものも含む)が多数をしめる。具体的な概念や認識、言説(社会的に共通認識化された概念、認識、言説など)としての蓄積は、ゼロではないが、多いおよび解像度が高いとは現時点では言い難い。

理想創造における各分野において、「スパイラル的に」本質的な気付きを得たり、抽出し、意識や状態の開拓をしていた部分はある。ただ、意識や状態の開拓および各物事における独自の抽象的な概念群の見出しのために活用した社会的な共通認識化された概念群自体は、捨象されてしまったり、されている部分もある。



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②-2「自らのアイデアや見解等の解像度の程度、有識者や従事者等の段階との乖離」


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自分が出すアイデアや見解に関しては、各物事や分野における社会的な共通認識化された概念群を主としてベースとしたものではなく、それらから抽出した独自の抽象的な概念群を主としたものである。または、各物事や分野自体から直接抽出した本質的な気付きや認識、また各物事や分野、もしくは自らにおける普遍的な物事への理解や把握の感覚その意識や状態等に基づいたものである。

各物事や分野における、独自の抽象的な概念群や本質的な気付き、各意識や状態の解像度は、各時点での自らにとって必要と感じられた解像度のため、ものによっては高くない場合もある。(注:普遍的な物事や事象に対する理解や把握に関する意識や状態は、ある程度の解像度というか段階であると個人的な感性としては感じている。また人類等における理想創造についての、抽象的な領域での解像度は、それに準ずると捉えている。またこれからも、より深まると感じられる。注:終了)

そのため、自らの各物事や分野における、アイデアや見解は、解像度がある程度の段階(各分野の有識者や従事者の解像度ほどではない段階)でのものとして、生じている場合が多々ある。



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②-3「見解やアイデアに関する各分野への解像度の程度に関係の無い、見解やアイデア自体の意義意味」


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ただ、私に限らず、解像度の高さ深さとは関係なく、想像性、創造性、突飛な閃き等から発せられた見解やアイデアが、革新的だったり、本質をついていることも往々にしてある、と捉えている。またこれも私に限らずだが、具現化可能か、ある面から見て本質的か、確からしいか、効果的か、などといった程度に関係なく、その見解やアイデア等が生まれる事自体が「全体性の表れ」であると捉えている。そうした生成された見解やアイデア等といった「全体の表れ」が、他者や他存在に影響を与え、それ自体が真ではなかったり、効果的ではなくとも、実際性には至らなくとも、別の真なるもの、効果的なもの、実際化されるものに、繋がる、それらを生み出すことに意識レベルだけでなく、無意識レベルでも「寄与している」と捉えている。

そのため、私自身の見解やアイデアに関して、関連する各分野や物事への解像度の程度に関係なく、自らの見解やアイデアが出ること、それを表に出すこと自体は、それ単体が実際性はどうか、効果はどうか、ある尺度での確からしさはどうかに関わらず、全体において、意義意味あるもの、寄与するものと自らの本質からの確からしさから思っている。そうした理由から表に出す。(繰り返しになるが、これは私に限らず、全ての人々において私の視点、感性からは確からしいと捉えている。)
こうした認識の元に、表に出していると、捉えてもらえるとありがたい、と思っている。




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②-4「自らのアイデア等の好みとしての実際性、実現可能性、物質的、身体的、精神的、心理的、社会的な効果性」


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その上で、私の好みとしては、「既存に囚われない」、01的な創造やアイデア、私の本質的な確からしさからの見解、私の感性からの理想や理念等を打ち出すが、それが「実際性」「具現化可能性」「効果性」を持っていること、持っているものであることを好む。あくまでエンタメや芸術的な創作物を好み、その実現性や具現化可能性、物質的、身体的、社会的な効果などはあまり重視しない、むしろそうしたものを縛りと感じる方向性での創造とは、私の好みのニュアンスは異なる。(注:エンタメも芸術もあらゆる創作物も、その形態自体で全体に対して深く寄与している。またその上で、全体に対して実際的な側面にも影響を与えていると捉えている。感情面等を満たすという意味合いだけで無く個人的には捉えている。:注.終了)

私は枠には囚われないものを創りたい、試みたいが、実現性や実際性、物質的、身体的、精神的、心理的、社会的な効果なども、しっかりとあるものを創りたい。(そこに至るまでの過程として、またあえて意図して、具現化可能性などから離れたものを提示する、考案することはあるかもしれない。)

そのため、基本的に自らの見解やアイデア等は、自らの蓄積してきたこの世界や自己における感覚や意識、状態、抽象的な独自概念群、また各物事や分野におけるそれらを元に、実際性、実現可能性、物質的、身体的、精神的、心理的、社会的な効果などを持つものとして、主観的には認識しているもの、感知しているもの、想定されるものを示している。




🔻【③】🔻


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③-1「自らのアイデアや見解に対する有識者等とのやり取りについて」


🔶
その上で、自らのアイデアや見解等に対して、各物事や分野の有識者や従事する人々、それぞれの方向性や質感での解像度の高い(深い)人々から、各分野や物事における社会的に共通認識化された概念群での知識を問われると、個人的には「詰まる」場合がある。これは個人的に好ましくは思わない。

ただ、正直、こうしたことに関して深い領域では気にしていない。私のような性質のタイプではこうしたことが起こりやすいし、また社会的な共通認識化された概念群をベースとするタイプの人における行動や反応として、「このように認識や反応、感知、行動する傾向があるだろう」と想定されるためだ。

なので、できる限り共通認識化された概念群で示せるようにしたいが、直観のような感じで一気に来たものに関しては、やりづらい。直観で来たものに関して、自らの内にある蓄積された智慧的なものである場合は把握できるが、直観で来たもののより具体的な部分についての根拠となるものは、抽象的な自らの認識以外には自らが持つ具体的なリソース(知識や情報)の中には無い場合がある。ただ、調べると直観の根拠となる事象や事柄がこの世界に既にあることが見つかったりするが、それがやり慣れていないこともあり、負荷がかかるので、あまり細かく突っ込まれ過ぎると困るところがある。

むしろ直観で来た抽象的なアイデア等について、自分でもその根拠となるものを調べるが、より細かな部分や実現性や効果性の調査、各分野での社会的に共通認識化された概念群への変換などは、各分野や物事における解像度の高い有識者や従事者の力を借りて行う方が望ましいと思っている。  

その際に、各分野や物事における解像度の高い有識者や従事者側の見解や判断として、実現性や効果性などが高くないとされる場合、その内容によって、「このままの内容ではそうだな」と思えるものなら受け入れ、内容の再考等を行う。ただ、言語的に説明できなくとも、「これは行ける可能性が十分ある」と、感じられる場合もある。(これは、自己の独自概念としては言語的に解釈や説明可能でも、他者が理解できるように翻訳することがその場では難しい場合もあり得る。)

有識者や従事者側の意見として厳しいとされたものであっても、「これは行ける可能性が十分ある」と感じられるものに関しては、可能な方法は無いか、対応した有識者等に限らず、別の有識者等に交代してでも、やり取りし続ける。行けるか、行けないかに関わらず、「これだ」というポイントに達するまで行うことを、基本のスタンス、かつ理想とする。





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