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①根本的な原理の、根本的な原理が指し示す内容自体への再帰的な適用による破れ、②個の総体として全体が成り立っているという意識状態(A)と、全体自体の現象として個々が創造的に認識されているという意識状態(X)、③Xの意識状態の上での、全体の構成を変え(色合いを変え)、それを体感するという意識での創造のアプローチ(根源に解放された創造性)

<はじめに>

今回の内容は、以下の記事との関連性が高い内容となっている。

※参考記事:

①対象や事象に対する二元的な認識の付加と、そのリアリティ感、②(認知等の違いを含む)新しい意識や状態に基づく、新しい基礎概念群、それに基づく人口言語の創造と、それによる、新しい質の文化文明、ネオ科学、人類の創造の可能性、③引き寄せ系における現実創造と、その時点の(体験世界上での)人類等の集合意識に対するゼロイチ的創造との融合的なアプローチ




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「根本的な原理の、根本的な原理が指し示す内容自体への再帰的な適用による破れと、その意識や状態レベルへの落とし込み」


今回の内容は、<はじめに>でも示したが、以下の記事との関連性が高い内容となっている。

※参考記事:

①対象や事象に対する二元的な認識の付加と、そのリアリティ感、②(認知等の違いを含む)新しい意識や状態に基づく、新しい基礎概念群、それに基づく人口言語の創造と、それによる、新しい質の文化文明、ネオ科学、人類の創造の可能性、③引き寄せ系における現実創造と、その時点の(体験世界上での)人類等の集合意識に対するゼロイチ的創造との融合的なアプローチ

上記の記事で示した見解は、その見解自体が再帰的に適用されるによって(再帰的に適用されるという原理的な構造を内包しているため)、内容の確からしさは破れている。
(見解の内容が示す現象認識は成り立つが、同時に例外可能性を内包しているため、破れてもいるということ。
そうした構造自体を、上記で示した現象認識が生じた時点で内包しているということ。)

そして、こうした構造自体が、人類という器(認識、思考、見解、創造の機能)に、生じている。(今示したこの内容も、この内容自体が再帰的に適用される。故に破れている。)

これを俯瞰して腑に落ちることで、言語的理解、思考的理解の段階から、状態、意識、そのものの変化が生じ、その段階に至り、体感される。

例、自転車に乗れるようになった状態は、乗るためにいろいろと試行錯誤したり、考えたりしている状態とは、質的に異なる。


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「個々や全体の存在としての相対性、個の総体として全体が成り立っているという意識状態と、全体の現象として個々が認識されているという意識状態、全体の構成を変え(色合いを変え)、それを体感するという意識での創造のアプローチ(根源に解放された創造性)」


ある状態への至り(ある境地への至り)、状態(境地)の段階の変化に関して、個人的な視点としては、より本質的には上下はなく、色合いの変化(役割の変化)と捉えられる。

ある尺度においては、そこに段階性を見出すことで、上下等を見出すこともできる。
ある境地の段階(段階A)に至るために、前段階(段階B)を経由した場合、段階Aと段階Bは、変化のプロセスという尺度および関係性から捉えると(認識すると)、上下関係(前後関係)等の認識が生じうる。

しかし、そうした尺度や関係性の認識を取り払った場合、段階Aと段階Bはそれぞれ独立して存在し(個々の事象として切り取り認識することができ)、生じる効果や作用がただ異なっているだけである。

(その効果や作用を何かしらの目的軸で鑑みる場合、その有効度に対して感覚的に上下等を見出せる(感覚的に生じうる)場合がある。
しかしそれも(意識、無意識問わず生じているような)目的軸によって形成されているのであって、それを取り払った際には、上下はなく、それぞれが単体として特徴的な形態((体感的にも)感知されるもの、作用を見出せるもの)として存在し、特徴的な作用を持っている(だけ)として捉えられる。

その上で、目的軸(感性や志向性、ニーズ、特定の境地への方向性等)により、変化の前後、効果の上下、等を、メタ情報(二次的情報)として関係性(認識)を見出すことも、無意識的、または意図的にできうる。

意識的、または無意識レベルで生じている目的軸(感性や志向性、ニーズ等)を意識化して、意図的に目的軸を設定したり、変えるなどを行うことで、様々な上下、前後などのメタ情報(二次的情報)を見出したり、それらを操作や活用するなどして創造することを可能にもする。



しかしより始原的には、上記で示した例でいう段階A、段階Bは、その存在を見出す(体感される、境地に至る)において、前後関係、上下関係等の認識を(無意識的にでも)活用する場合もあるが、段階A、段階Bに関する、前後関係、上下関係等は相対的に見出されるメタ情報であり、段階A、段階B自体は、それぞれとして、それぞれを一存在として認識させる(存在させる)特徴を持った独立したもの(現象)である。

またその体感されている段階A、段階Bもまた、別の基礎的な刺激等(基礎刺激F群)により成立していて、その刺激等もまた別の基礎的な刺激等(基礎刺激G群)により成立している。
これら基礎刺激F群、G群、どちらも、別視点からの応用刺激により成り立っている。
その応用刺激は別視点での基礎刺激により成り立っている。
対象(刺激)はある視点から見たら基礎的なものであり、ある視点から見たら応用的なものである。
すべてが同時に成り立っているからこそ、全体も個々も存在し、一つの個が成立しなければ、全体も成立しない。無くなる。

さらに言えば、こうした個々と全体も人間の器の性質が切り取り認識しているものであり、より本質的には全体があるのみであり、それを全体自体の機能(現象)として、個々という形で切り取り認識し(人間や個という存在認識、感覚感情との内的なものもしかり)、その個々の存在を前提とした上での、その総体としての全体(狭義での全体)を見出しているということ。

更により本質的には、上記で示したことと重複する部分があるが、個々が集まって全体が成り立っているのではなく(そうした意識領域、認識領域もあるし同時に成り立ってもいるが)、(広義、より本質的な)全体があり(認識、言語領域での理解を超えた形で「存在」し)、それが個々を創っている(切り取っている、見出している)ということ(という風に捉えられる)。
その個々の見出しは無限であるということ。

またより本質的には、(より本質的な)全体の構成が変わっているだけで、減ったり増えたりすることはない。
色が変わっているだけ、(より本質的な)全体の構成が変化しているだけ、それを(より本質的な)全体の現象として生じた個々(人間、個的意識)がその色合いの違い(刺激、五感覚での刺激、そこから生じるリアリティ、現実感、事実感等)を体感しているだけ。
ある種、無限であり、表層における変化はあるが、深くは変化はない。
(しかしこの認識もまた破れている。これらの認識が成り立つと同時に破れているという認識が同伴する。)


こうした縁起的な認識でもって、あらゆる概念や認識を捉えていくと、あらゆるものがあってないようなものである。
その上で意識的(またはそれぞれの魂に基づく感性によって(それぞれの役割としての感性))に目的軸等を見出したり、設定して、対象事象そのものや、対象事象に対する上下、前後、善悪(二元的な情報)、それらに基づく価値観や法則群等のメタ情報(二次的情報)を意図的に見出し、活用する(創造する)ということが出来る。
(時にそれら二元的な情報、認識を昇華して活用もする。)

「何かしら」(より本質的な全体)を無限に感知、分割し、(それを見出し)、働きかけたり、操作したり、創造していくことが出来る。
これは「何かしら」(より本質的な全体)の構成を変えているということ。
(根源に解放された創造性)


これらは言語的、五感的に、認識できないものを、言語的な表現を用いて、仮想的に表現したもの。
故にこの言語化したもの自体が、本質的な何かしらや、それに対して、感知すること(したこと)そのものを指している訳ではない。
その上で、言語表現化しておくことで、直観的な理解や状態変化のトリガーとなり得ると思われるため示す。

後日だとしても、言語領域での理解を超えた領域での理解(または体験)を誘発すると思われるため示す。


★★★

「より本質的な全体の現象としての個々の感性等による各役割の見出しと、その繋がりによる狭義の全体の見出し、それによる全体の構成変化(創造)による全体の質の変化、その人間の器による色合い(質)の違いとしての体感化」


変化の際の各段階は、本質的には色合いの変化と捉えられる。
色合いにより、担えるものが変わる。
(各色合いに適した内容であれば、よりフィットした感覚で取り組める。)
変化の各段階(各色合い)で、それぞれの担える役割がある。
その段階(色合い)で無いと担えない、担いずらい(フィットしずらい)役割がある。
全ての役割によって、全体が構成され展開している。

より本質的には、全体(すべてが個々として分割されていない何かしらとしての全体)があり、それを人間の器の機能として、個別に切り取り、個々を認識しているということ。
その認識された個々が集まって全体が構成されているという風に感じられる状態、意識があるということ。

個々の役割等によって全体が構成されているというよりも、(より本質的な)全体そのものがあり、それを認識する際に、個々が与える影響、相互作用等から「役割」という認識でもって切り取り、それら個々の役割の連動性を捉えることで、「(狭義の)全体」を再認識しているということ。
これは<創造的な再認識>であり、(本質的な)全体そのものへの認識ではない。

また見出された個々の役割、および、個々の繋がりにより見出される(狭義の)全体は、それらを捉える観点および感性により、無限に見出されうる。
その上で、どのような観点や感性により見出されたか(どのような意識や状態により見出されたか)により、個々の役割やその繋がりである(狭義の)全体において生じる影響や相互作用、全体の質(色合い)が変わる。
(個々の役割および全体を、どのように創造的に見出すかにより、生み出せる対象、事象、また世界そのものが変わるということ。)

全てはニュートラルであるが、見出したり体感する主体である個々の感性等により、よりフィットするかどうかを知らせる人間の器の機能として、感覚、感情、身体的刺激、認識等において、二元的に感知、および認識されるような刺激(ポジティブ、ネガティブと感じられたり、認識されるような刺激)が発生する。それらの刺激もまたニュートラルであり、相対的なものである。

個々というものを認識する意識の層(レイヤー)で個々の対象の操作(構成の変化、働きかけ、創造)を行うことによって、(本質的な)全体(すべてが分割されていない何かしらとしての全体)の色合いが変わる。

全体の色が変わったことを、人間の器の機能として、個別に切り取り個々を認識する意識状態(人間の器としての認知機能等)にて感知するとき、様々な個別の事象の質的な変化として体感される。

全体(すべてが分割されていない何かしらとしての全体)の色が変わっても、本質的には全体(すべてが分割されていない何かしらとしての全体)は変わっていない。

全体というものに関しての認識として、全体(すべてが分割されていない何かしらとしての全体(より本質的な全体))と、人間の器の機能により個々を分割して認識している意識状態における個々が合わさっての全体(狭義の全体)とでは、その認識の質が異なる。色合いが異なる。

このように個人的に捉えている。


<※あえて上で示した「根本的な原理の、根本的な原理が指し示す内容自体への再帰的な適用による破れと、その意識や状態レベルへの落とし込み」の項と同じ内容を繰り返す※>

上記で示した見解は、その見解自体が再帰的に適用されるによって(再帰的に適用されるという原理的な構造を内包しているため)、内容の確からしさは破れているということ。
(見解の内容が示す現象認識は成り立つが、同時に例外可能性を内包しているため、破れてもいるということ。
そうした構造自体を、上記で示した現象認識が生じた時点で内包しているということ。)
そして、こうした構造自体が、人類という器(認識、思考、見解、創造の機能)に、生じていること。(この内容もこの内容自体が再帰的に適用される。故に破れている。)

これを俯瞰して腑に落ちることで、言語的理解、思考的理解の段階から、状態、意識、そのものの変化が生じ、その段階に至り、体感される。

例、自転車に乗れるようになった状態は、乗るためにいろいろと試行錯誤したり、考えたりしている状態とは、質的に異なる。

※参考記事:

科学と本質との関係性、人類という心身の器の変化変容による科学の質の変化可能性

地の時代→風の時代など、エネルギー的な変化の周期における、人類の内外的な変化や移行の既存パターンを刷新する、3層(4層)の土台とその完了

街型のプラットフォーム、革命を超えた革命と、その後の世界の流れ、内外的な新しい質の世界の完成


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