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ハードボイルド書店員日記【197】

「すいません、ひとつ訊いてもいいですか?」

灼熱の土曜日。だが商業施設の中は人工的に涼しく、空気が乾いている。喉の奥に感じるざらつきが不気味で仕方ない。
黒髪をポニーテールに纏めた若い女性。オーバーサイズ気味の白いTシャツの真ん中に「YEET」という青い文字がプリントされている。

「これってリメイクなんですか?」
レジカウンターの上に村上春樹「街とその不確かな壁」(新潮社)が置かれる。昨年4月に発売された著者最新の長編小説である。
「リメイクといえば、まあそうですね。かつて同じテーマで書いたものをいまの春樹さんが新たに」
どこまで話していいのか悩ましい。
「ってことは、やっぱり古い方を先に買うのがいいですか?」
「そう、ですね」
ただ、その古い方こと「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(新潮文庫)が上下巻ともに売り切れなのだ。先ほど万引き防止の巡回をしつつ、文庫エリアの棚を整理していて気づいた。下のストッカーにもブックトラックにも見当たらない。
「発表された順に読み進めることで解像度が上がる部分はあります。しかし現在から入ってルーツまで遡っていくのも、それはそれで新しい読者にしか味わえない面白さかと」
首を傾げている。納得していないようだ。

「ジェイ・ウーソですよね?」
「え? はい」
今日は世界最大のプロレス団体・WWEが両国国技館でショーを開催する。彼女の着ているTシャツは、出場する人気レスラーのグッズなのだ。
「これから行きます」
「彼のお父さん、ご存知ですか?」
「いえ。去年の秋から見始めたので。レスラーだって聞きましたけど」
「リキシというリングネームで、主に2000年代のWWEで活躍していました。金髪のオールバックで黒いまわしみたいなものを身に着けて」
「本当に相撲を?」
「ではなく、いわゆるギミックです。かつてヨコヅナという名のトップレスラーがいたので、そのキャラクターを受け継いだのでしょう。ただ息子さんがこれだけのスターになって国技館で試合をするのは、彼にとっても感慨深いはずです」
何度も頷いてくれた。

「お父さんもジェイみたいなタイプですか?」
「ジェイは身軽だし飛び技も使いますが、リキシはリングネームからイメージされる通りの巨漢レスラーです。ただダンスが上手く、サングラスを掛けて流麗に踊っていたのが忘れられません」
「え、面白そう」
「見たくないですか?」
「見たいです。ヨコヅナさんの試合も」
「そういうことかなと」
一瞬間が空き、それから「ああ」と安心したように笑みを浮かべた。
「店員さん、商売上手ですね」
「たまたまプロレスが好きなので。本と同じくらい」

荷物になるから今日買うつもりじゃなかったけど、と苦笑しつつ「街と~」を購入してくれた。
「試合開始までずっと読みます。電車の中とか」
「両国までけっこうありますからね」
「でもプロレス会場でこんな分厚い小説を開いてたら嗤う人いるかも」
「気にしなくていいのでは? 春樹さんもきっと同意見です」

記憶の底を掘り起こす。たしか174ページ。前後の詳細はネタバレになるから伏せるが、こんなセリフがあった。

「耳を貸さないで」
「恐れてはいけません。前に向けて走るんです。疑いを捨て、自分の心を信じて」

「街とその不確かな壁」村上春樹 新潮社 174P

楽しんできてください。本を、本屋を、村上春樹を、そしてプロレスを好きでいてくれてありがとう。YEET!!!

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