秋月もる
「お願いします! 尾上のためにも、書いていただけませんか」 手島夏樹は頭を下げた。しばらく顔を上げずにそのままでいると、頭を上げてください、と声がする。そっと頭をあげると、目の前には困った顔の南健太郎がいた。 「手島さんの頼み、受けたいのはやまやまなんだけどね」 「やっぱり、だめ、ですよね」 南はつり気味の眉を下げて、夏樹と目を合わせた。眉とは対照的なたれ目が、申し訳なさそうに細められる。 「僕、今は予定が立て込んでいて、もちろん書けなくはないですけど、ひとつひとつの仕事
昨夜降っていた雨も上がり、強い日差しの中、櫻井は居酒屋「気楽屋」に向かう。「気楽屋」は櫻井が職場から家へ帰る途中にあり、昨日もにぎわっていたのを彼は見た。しかし、今朝は打って変わって物々しい雰囲気が漂っている。入り口には黄色いテープが張ってあった。見張りの巡査に警察手帳を見せて、櫻井は中に入る。現場は奥の大広間。事件は昨夜ここで行われた同窓会で起こったらしい。大広間ではすでに現場検証が始まっていた。 犯人である宮本早苗は昨夜、自ら出頭してきた。彼女の証言によって事件の概要
事件があってから、俺に連絡を取ってくる友人は減った。友人の多くがあの事件で亡くなってしまったからだ。生き残った奴らのほとんどは宮本早苗の友人だ。早苗が失踪する原因を作った俺に、優しくしてくれという方がわがままだろう。 早苗はあの日、どうして俺を助けてくれたのだろう。俺が戸田のストラップを壊し、その罪は早苗に着せられた。それがきっかけでいじめがエスカレートし、早苗は失踪した…。失踪や今回の事件の直接の原因はいじめだが、それを誘発したのは俺だ。彼女は俺をものすごく恨んでいたは
「よく頑張ったな、黛君」 その言葉を聞くたび、私の心はドキドキと音を立て始める。矢坂先生は、私の好きな人。すっと鼻筋が通っていて、生徒の誰かが面白いギャグを言った時の、くしゃっとした笑顔が好きだった。その落ち着いた声も、まっすぐな立ち姿も、わかりやすい授業も含めて、先生のことが好きだった。 中学校に入学して、私と吉沢君は学級委員になった。先生はよく目をかけてくれていた。委員の仕事をやり遂げるたび、ほめてくれた。まだ若かった先生は私にとって「頼れる優しいお兄さん」という立ち
待合室で真奈の姿を見たとき、私は心臓が撥ねるのを感じた。地元で働いていれば、知り合いが来院することなんてよくあるのに、どうしてだろう。思わず看護師の立場を忘れ、駆け寄った。 「真奈ちゃん!」 彼女の目はとろんとして焦点があっていなかった。とりあえず体温計を渡し、問診票に記入する。名前や生年月日はわかっている。どんな症状があるか、アレルギーがあるかなどを、真奈に聞きながら書いた。 「まりえちゃん」 真奈が体温計を手渡してきた。39度2分。インフルエンザの疑いもある。 「診
福岡県某所にある会社。ここが私の職場だ。 「羽田野さん!」 先輩に呼ばれ顔を上げる。 「これ、コピーお願いしていい?僕、今手が離せなくって」 「わかりました」 コピー機へと向かう途中、後輩の黛真奈とすれ違った。顔色が悪い。 「マユ、大丈夫?」 黛真奈だから、マユ。私がつけたあだ名だ。 「ああ、美里さん。大丈夫です」 そういわれたが明らかに大丈夫そうではない。 「無理しないでよ」 「ええ」 黛は小さくうなずいて去っていく。あの顔色も無理はない。半年前に彼女が巻き込ま
次の日、黛真奈は自宅マンションで刑事と対峙していた。刑事が吉沢を彷彿とさせる美形で、昨日のことを思い出し辛くなる。あれは紛れもない悲劇だった。 「塩素ガスを発生させたのは、宮本早苗さんで間違いありません。店の洗剤を二種類、混ぜたそうです。あの『混ぜるな危険』ってやつです。店を出る前に、急いで混ぜて会場に置いていったと」 刑事は告げた。あの時の様子から予想していたことだが、改めて言われると衝撃が胸に響く。 「今回の同窓会を企画したのは黛さんとのことでしたが、趣旨は何だったんで
次の日から、早苗へのいじめがエスカレートした。犯人は早苗だという噂が広まったからだ。噂の出所は不明だ。 彼女が教室に入ると「ゴミは出ていけ!」。トイレに行くと何人かの女子が待ち構えていて、「一生トイレにこもってろ!」と閉じ込められたり、便器に顔を入れられた。持ち物には悪口が書かれ、靴は消滅。体育から帰ってくると、制服はもう手の施しようがないくらいに切り裂かれていた。 事態を重く見た矢坂が、校長に報告しいじめっ子たちを停学処分にしようとした矢先、早苗は消えた。消えた理由は
舞台は中一の冬、十二月初旬の文化祭が終わってしばらくたった日のことだ。 「あの日、戸田夕華ちゃんが帰りの会の直後に、大声で叫んだのよね」 その日は雪が降っていて、何センチか積もってもいた。気温は氷点下、帰り際になっても雪は解けていなかった。矢坂先生は配るはずのプリントを職員室に取りに行っているから、帰れない。鞄に荷物を詰めたり、窓の外を眺め帰れるか心配したり、部活の準備をしたり、各々好きなように過ごしていた。突如、大声が響き渡る。 「あたしのストラップ壊れてる!誰かが壊し
スクリーンに「あなたにとっての思い出の一枚はありましたか?」とクラスの集合写真をバックに文字が表示された。スライドショーが終わったのだ。みんなからは拍手が起こる。 「すごいよ、黛! これ全部作ったの?」 吉沢が聞いてきた。ええ、と控えめに答える。 「さっすが、黛真奈だな。みんなの期待にしっかり応えた」 真奈は曖昧に頷いた。吉沢の言葉で昔言われていたことを思い出し、辛くなる。さすが真奈ちゃん。あなたなら信用して任せられる。君にお願いしてもいいかな? 真奈はプレッシャーに
黛真奈は同窓会の受付に立っていた。参加者名簿にチェックを付け、会費を徴収する。割と集まりがよく、あとは元担任が来れば全員だ。集まりがいいのは、クラス規模の会で参加者も二十人ちょっとだからというのもあるが。外は夏の夕方らしく雨が降っている。道も混んでいるはずだよねえ、と真奈はため息をついた。今日は中学の同窓会で、卒業してからもう八年が経とうとしていた。がららっとドアが開く音がして、担任だった矢坂慶太が姿を現した。 「黛君、久しぶり。待たせてごめんね」 真奈の声のトーンと体温
しばらくして、鳴岡のインタビュー記事が出た。琴音がデビュー直後に載ったのと同じ雑誌だ。そこには、焦ってはうまくいかずまた焦るという悪循環に陥っていたこと。マネージャーや同業者と揉めたものの、それが仕事について考え直すきっかけになったこと。周りに迷惑をかけた分、これからの仕事で挽回していきたいと思っていることなどが書かれていた。 琴音も雑誌を買って読んだが、バイオリンを持つ写真の鳴岡は、子どものように楽しそうに笑っていた。 それから一か月後、琴音はコンサートに出演するため控
「みなさま、大変長らくのご乗船、お疲れ様でございました。これよりさきの道中のご安全を心よりお祈り申し上げますとともに、またの日のご乗船を、心よりお待ちいたしております……」 下船のアナウンスが流れ出した。乗客たちは念のためもう一度荷物チェック(といってもバイオリンのような硬いものが入っていないか触るだけだが)を受けて降りていく。もし乗客のなかに犯人がいて、持ち去られてしまえば追跡はほぼ不可能になる。だが、二回も荷物検査を受けたのだから、その可能性は極めて低いだろう。 琴音
船内はだいぶ探したが、見つからなかった。では荷物検査で見つけきれなかっただけで、誰かがまだ隠し持っているのだろうか。ベッドに寝転がった琴音はバイオリンの大きさを思い浮かべ、ほかに隠せそうな場所や持ち物がないか考える。 「あっ」 叫んで跳ね起きる。もっと小さなかばんや狭い場所に、バイオリンを隠す方法がある。分解すればいいのだ。弦を張っている黒い指板を外せば、一番大きなパーツは胴の部分になる。胴は五十センチないくらいだろうから、隠せる場所は少し増える。 「でも、だめだ」 琴
琴音は自分の部屋に戻っていた。先ほど鳴岡が来て、マネージャー立会いのもと琴音の荷物や部屋を確認して帰っていった。結局、琴音の部屋に彼のバイオリンはなく、鳴岡はしぶしぶといった様子で引き揚げた。去り際に聞こえた舌打ちと、琴音に向けられた目は、まだ彼女を疑っているようだった。 今は鳴岡と社長の相談の結果、乗客の荷物チェックが行われている。といってもバイオリンほどの大きさのものを隠せるかばんは限られている。乗客もとても多いわけではない。船員も協力すればチェックにはさほど時間はか
甘美なメロディがコンサートホールに響いている。聴いているだけで眠くなってしまうような、マシュマロでできた布団みたいな、甘くて柔らかなバイオリンの響き。 オーケストラをバックに、平琴音は『タイスの瞑想曲』を演奏していた。俗世間に生きるタイスが、修道士アタナエルに説得され、修道院に入るかどうか悩むシーンの曲である。 曲調が不安げに変わるところで、琴音はミスをしてしまった。ほんの少しの音のずれだが、オーケストラのメンバーにはもちろん、耳の肥えた客にも伝わってしまっただろう。会