連載小説『平の迷走曲』最終話

 しばらくして、鳴岡のインタビュー記事が出た。琴音がデビュー直後に載ったのと同じ雑誌だ。そこには、焦ってはうまくいかずまた焦るという悪循環に陥っていたこと。マネージャーや同業者と揉めたものの、それが仕事について考え直すきっかけになったこと。周りに迷惑をかけた分、これからの仕事で挽回していきたいと思っていることなどが書かれていた。
 琴音も雑誌を買って読んだが、バイオリンを持つ写真の鳴岡は、子どものように楽しそうに笑っていた。
それから一か月後、琴音はコンサートに出演するため控室にいた。琴音の先生や鳴岡も出る大規模なコンサートだ。
「そうだ琴音ちゃん、これを渡しておこうかな」
 先生から渡されたのは、一通の手紙だった。あて先はフェリーの運航会社になっているから、あのコンサートについての感想だろう。
 手紙は、音楽好きの初老の女性からだった。琴音のことも前から知っていたらしいが、本人の生演奏を聴いたのは初めてだという。
『楽しそうに演奏する平さんを見て、本当にあのフェリーでコンサートを聴けてよかったと思いました。人生百年時代といいますし、私も老後の楽しみに楽器を始めてみようかと考えています。平さんのようにはなれませんが、生活にいろどりが増えるのが今から楽しみです』
 少し癖のある丁寧な字でつづられた手紙を読み終え、ほっと息をつく。琴音の演奏を聴いて楽器を始めてみようと思えたのなら、これほどうれしいことはない。琴音の楽しそうな様子が伝わったのなら、演奏したかいがあったというものだ。
でも、あの日の琴音は全力で演奏を楽しんでいたとはいえない。調子の悪かった日々の中ではマシな方というだけだ。これからはもっと音を楽しむ琴音をさまざまな人に見てもらえるだろう。
鳴岡の演奏はあれ以来のびやかになった。聴いていて苦しくなることはない。
「なにをしても俺は平にはなれないし。俺なりのやり方で演奏を楽しむよ」
 リハーサルで、鳴岡は琴音にそう言った。その言葉は琴音にも刺さった。私も先輩のようにはなれないけど、自分なりのやり方で楽しみ、楽しませればいいのだと、この一か月で琴音は考えるようになった。急成長した鳴岡から、琴音はいい刺激をもらっている。今日のコンサートも楽しみだ。琴音は笑った。
「笑顔、自然になったね。前は引きつった顔だったから、見ててつらかった」
 先生の言葉に微笑んで会釈をすると、琴音は先生と別れ、楽屋にこもった。しばらく演奏する曲を思い描くのだ。曲のこと以外は考えないように、目を閉じる。ある種のイメージトレーニングだ。
 しかけてあったアラームで目を開ける。頭がすっきりして、体も軽い気がする。
 今日の曲目には、以前失敗した「タイスの瞑想曲」も入っている。不安がないといえばうそになるが、結局は楽しんだもの勝ちで、楽しませたもの勝ちなのだ。そう思うと不思議と不安は和らいでいった。
 まずはピアニストが舞台へ向かい、琴音も続く。あれだけプレッシャーに感じた拍手の音に、今はやさしく包まれているような気さえする。トークへの苦手意識も減った。今回は、小学生のときの失言のこと、その人なりの演奏スタイルがあると気づいたことなどをさらっと話す。話し終え、笑顔でマイクを司会者の人に返した。
ピアニストとアイコンタクトをとり、呼吸を合わせ、弓を弦に落とす。手が震えることも、顔が引きつることもない。自分がどこにいるのかわからなくなるくらい、琴音は演奏に没頭した。自分と観客のあいだに一枚の薄い壁があるみたいだった。観客の反応は目に入るものの、それを大きく意識することはない。
 迷走して、瞑想して、それでも音楽が好きだ。そう思いながら琴音は拍手に包まれた。

参考サイト
NHKらららクラシックホームページhttps://www.nhk.or.jp/lalala/archive140308.html
(最終アクセス2020年10月23日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?