連載小説『平の迷走曲』④

「みなさま、大変長らくのご乗船、お疲れ様でございました。これよりさきの道中のご安全を心よりお祈り申し上げますとともに、またの日のご乗船を、心よりお待ちいたしております……」
 下船のアナウンスが流れ出した。乗客たちは念のためもう一度荷物チェック(といってもバイオリンのような硬いものが入っていないか触るだけだが)を受けて降りていく。もし乗客のなかに犯人がいて、持ち去られてしまえば追跡はほぼ不可能になる。だが、二回も荷物検査を受けたのだから、その可能性は極めて低いだろう。
 琴音たち以外の乗客は全員下りた。これから、社長や琴音、鳴岡、マネージャーの古澤などで、船内をもう一度捜索する。昨夜、鳴岡と古澤が社長と相談してそうしようと決めたらしかった。琴音もこのまま降りるわけにもいかないため、捜索隊に加わることにした。
 琴音、鳴岡、古澤、社長、そして数名の船員たちが散らばってフェリーの中を探す。とりあえず今から一時間、集中して探すことになった。バイオリン捜索中も視界に鳴岡の姿がよく映る。やはり疑われているからだろう。ロッカーのなかやベンチの下なども覗き込んで探す。さすがにこんなところにはないだろうと思いながらも、念のためにあちこちを確認する。
 大きなサイズのロッカーがあればバイオリンも入るのだろうが、フェリーのロッカーは基本的に貴重品かせいぜい小さなかばん用の大きさだ。
 足が棒になるくらい船内を歩き回り、あらゆるところを探した。少しでもバイオリンが隠せそうなところは、すべて開けて確かめた。船員の次にフェリーの間取りに詳しくなったのでは、というくらい探し回った。捜索開始からそろそろ一時間が経つ。一番上の階にいた琴音は、その場で軽く伸びをした。一応まわりを見まわしてから、鳴岡の部屋に戻ることにした。一番下の階まで階段を下りていく。
 鳴岡の部屋をノックして開ける。鍵はかかっていなかった。荷物はすでに車に移動させたと言っていたから、部屋のなかにはなにもないのだろう。
「えええっ」
 鳴岡の部屋のテーブルの上。そこにはケースに入ったバイオリンが置いてあった。鳴岡のものだ。部屋のなかに鳴岡はいない。捜索が始まった時点ではここにバイオリンはなかったから、持ってきたのは今船に乗っている人のうちのだれかだ。
入口に立ちすくんでいたら、背中に誰かがぶつかった。驚いた声がする。声からするに古澤だ。続いて鳴岡も現れる。
「俺の、バイオリン……」
 鳴岡は急いでバイオリンに駆け寄り、自分のものだと確かめると、ほっとしたのかソファに座り込んだ。手が震えている。その顔は笑っているようにも泣いているようにも見える。
 琴音は今までの出来事を頭の中に並べていった。鳴岡のバイオリンが消えたこと。懸命に探しても見つからなかったこと。分解説や、犯人の目的を推理したこと。無事戻ってきているということは、犯人の目的は窃盗ではない。それにバイオリンを鳴岡の部屋に置ける人は、今船に乗っている人に限られる。
「そうか」
 犯人の目的が窃盗でなかったのなら、一番怪しいのはこの人だ。
「犯人は、古澤さんじゃないですか」
 古澤はうなずいた。バイオリンの扱いになれていて、この船に乗っていて、部屋も鳴岡の隣だから、バイオリンを隠すのも返すのも楽にできる。このタイミングで返したということは、バレるのも覚悟の上だろう。
「古澤さんなら、わざわざフェリーで盗まなくても、ほかにもチャンスはありますよね。
だから、疑うこともなかったんですけど」
 同じ理由で、古澤の部屋を探すこともなかった。
「でも、いくら探してもバイオリンは見つからない。もしかして、犯人の目的が窃盗じゃないんじゃないかって思ったんです」
琴音はほかのふたりの様子をうかがいながらしゃべる。鳴岡はどこを見ているのかわからないような顔で、古澤はなにかをあきらめたような笑みで聞いていた。
「盗んでお金にするのが目的じゃなかったら、目的は個人的な感情なんじゃないですか。恨みとか、妬みとか」
 もしそうなら、犯人は鳴岡さんとかかわりがある人ってことになりますよね。そう言って琴音はそっと古澤の顔を見た。古澤は続きを促すようにほほえんだ。
「荷物検査でバイオリンが見つからなかったとき、分解されたかも、捨てられたかもって、思いました。きっと鳴岡さんも、そう不安に思ったんじゃないですか」
 だから、あえてフェリーで盗むことにより、海に捨てられた、分解された、という不安を与えるのが目的だったのではないか。これが琴音の推理だ。
「平さんの言う通り。そろそろ犯人だと名乗り出るつもりだったけど、当てられちゃったね」
 今の古澤が一番、保護者のような顔に見える。
「目的は、んー、ちょっと鳴岡くんに目を覚ましてほしかったから、かな」
「それ、どういう」
今まで黙って琴音の話を聞いていた鳴岡が口を開いた。
「最近仕事が減っていること、気づいているでしょう?」
鳴岡は自嘲気味にうなずいた。
「気づいてたよ。割と崖っぷちだったってことくらいは」
「お客さんを急き立てるような演奏は、あまり好まれない。このままだと、仕事が減って、バイオリニストとして生活していくことは難しくなる」
古澤は鳴岡の目をしっかりと見ている。鳴岡はふてくされた少年の顔で、マネージャーを見返した。
「だから俺に、正気を取り戻せって?」
 鳴岡くんはどうして音楽を始めたの? と柔らかな声で古澤は問いかける。
「誰かに勝つため? 完璧な演奏をするため?」
「わからない……」
 ふてくされた顔から一転、鳴岡は迷子のような顔になる。
「わからないんだよ……。でも仕事はしなきゃダメで、なのにその仕事が減ってきてて、平に勝たないといけない気もして……」
「同じだ……」
 琴音は鳴岡を見ずにつぶやいた。先輩と比べ、先輩のような演奏をしなければと思っていた自分と、重なるところがあった。
「鳴岡くん、技術はすごくいいものを持っていると思うの。焦るように演奏をするところさえ直ったら、素晴らしい演奏者になれるのに」
「それとバイオリンを隠したことと、どう関係あるんだ」
怒っているときよりはいくぶんか小さな声で、鳴岡は疑問をぶつけた。
「バイオリンがなくなっても、音楽を続けたいと思っているのかどうか」
 落ち着いた声で古澤は言った。試されていたことに気づいたのか、鳴岡は真顔になる。
 鳴岡はバイオリンを隠され、怒ったし探し回った。「たいしたバイオリンではない」と言いつつ、愛着を持っているということでもあるだろう。
 今までの自分の行動を振り返っているのか、鳴岡は黙っている。琴音もうつむいて考えこむ。自分はどうしたいのか、これからどのようなバイオリニストになりたいのか。あらためて考えてみる。
「正直ね」
 古澤が妙に軽い調子で口を開いた。
「バイオリンがなくなったら、鳴岡くんは諦めてしまうんじゃないかって、ちょっと思ってた」
「だけど鳴岡さん、諦めませんでしたよね」
 さっきまだって、琴音を視界に入れつつも懸命に探していた。
「平さんも根気強く探してくれたしね」
 しばらく沈黙が続いた。琴音は最近の鳴岡の演奏を振り返る。熱心だと思ったら急になげやりな態度になったりと、まるで中学生のあのときに戻ったような演奏。辞めたいのにいやいや演奏しているのではないかと思ってしまうような態度に、舞台袖でもカリカリしているのが目についた。
「俺、なんのためにバイオリニストやってんだろうな」
ぼそりしたつぶやきだった。
「俺も小学校に入る前は、楽しんで演奏してたんだろうな。平みたいに」
 鳴岡の視線が琴音に向き、琴音はなぜか姿勢を正した。
「でもいつのまにか、そんな気持ちもなくなった」
 いつからかコンクールや発表会でいい評価を得ることが、目的になっていた。演奏することが、ただ自分をよく見せる手段のひとつになっていた。苦し気に鳴岡は絞り出した。
「なんか違うなって思ってはいたけど」
 今までよりいっそう辛そうに鳴岡は続ける。
「立ち止まったら、周りに抜かれて仕事がなくなる」
「でも、このままバイオリニストとして続けるのが辛いなら、休むっていう選択肢もありだと思うな」
 古澤は鳴岡の肩を労わるように軽く叩いた。
「でも隠すのはやりすぎだったんじゃ……」
 小さな琴音のつぶやきを、鳴岡が拾う。
「本当にな。俺がどれだけ、どれだけ」
 鳴岡は言葉を切った。どれだけ、のあとが出てこないのか、口を閉じて、椅子の背に体を預ける。琴音は心配そうに鳴岡を見る。何回か琴音が瞬きをしたあと、鳴岡は口を開いた。
「心配したし、イラついたし、混乱したし、吐くかと思った」
 はああっ、とひときわ大きなため息をついて、鳴岡はガシガシと頭をかいた。これからの仕事用なのか、きれいにセットされた髪が乱れていく。古澤はそんな鳴岡の様子をじっと見ている。
「本当にごめんなさい」
 古澤が突然頭を下げた。ぎょっとした様子の鳴岡は背筋を伸ばし、琴音もつられて姿勢を正した。
「鳴岡くんのためだと思って、鳴岡くんがこれを考えるきっかけにしてくれたらって、思って」
 鳴岡はまだ驚いた顔のまま、古澤を見ている。
「でも鳴岡くん、さっきからずっと手が震えてるし」
 琴音は鳴岡の手を見た。じっくり見なければわからない程度だが、震えている。
「ショックだよね。いくらあなたのためとはいえ、やりすぎた」
 鳴岡は何か言いたげに口を開け、目を細めた。しかし、何も言葉は発さずに、唇をかんだ。
「バイオリンがなくなってあなたがどれだけショックを受けるか、考えられていなかった。ただただ、演奏のことばかりで、鳴岡くんの気持ちを考えずにこんなことして……。本当にすみませんでした」
 古澤はもう一度頭を下げた。
「顔を上げて」
 ぼそっとした鳴岡の声が古澤の頭に落ちた。
「俺、立ち止まって見るよ」
 古澤の顔は、どこかほっとしたような表情に見える。その顔を引き締めて、古澤は琴音の方を向いて、再び頭を下げた。
「平さんも、本当にすみません。巻き込んでしまって、申し訳ないと思ってる……」
 確かに、犯人だと疑われたのは怖かった。しかし、今回の騒動で得たものもあるのだ。全部が全部悪い思い出だったわけではないから、いえいえ、と首を振る。
「私、社長とスタッフさんに謝りに行ってくる。内輪の事情でものすごく迷惑をかけてしまったからね」
 反省しきりという表情の古澤が立ち上がった。俺も行く、と鳴岡も続いて立ち上がる。二人とも、昨日よりもどこか安定感のある立ち姿に見えた。
 二人が部屋を出る前に、琴音にも謝らなければならないことがあった。
「鳴岡さん、昔ひどいことを言って、すみませんでした」
 今までは怖かった鳴岡の目が、もう怖くなくなっていた。誠意が伝わるようにと思って、目を見て謝る。
「こっちこそ悪かった」
投げやりな調子だが、少し温度のある声で返事が返ってきた。
二人は部屋を出て行った。一人になった琴音は、安堵のため息をついて、背もたれに持たれる。
鳴岡が拍手の量や人気にこだわっていたのなら、琴音は先輩のようになることにこだわっていたのかもしれない。今回の騒動は琴音にも無関係ではない。のびのびと演奏すれば素晴らしい演奏者になる、という言葉は、琴音にも向けられたもののようだった。私も少し考え直してみよう、と思えた。
 悩みがすべて解決したわけではないが、これからは気持ちを楽にして、楽しんで演奏できそうな気がした。
つづく

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