連載小説『平の迷走曲』②

 琴音は自分の部屋に戻っていた。先ほど鳴岡が来て、マネージャー立会いのもと琴音の荷物や部屋を確認して帰っていった。結局、琴音の部屋に彼のバイオリンはなく、鳴岡はしぶしぶといった様子で引き揚げた。去り際に聞こえた舌打ちと、琴音に向けられた目は、まだ彼女を疑っているようだった。
 今は鳴岡と社長の相談の結果、乗客の荷物チェックが行われている。といってもバイオリンほどの大きさのものを隠せるかばんは限られている。乗客もとても多いわけではない。船員も協力すればチェックにはさほど時間はかからないはずだ。
 琴音は荷物チェックに抵抗を覚える乗客も多いのではないかと心配したが、チェックの様子をこっそり見に行った限りでは、協力的な客が多かった。鳴岡のバイオリンが盗まれたと知って、心配してくれている客もいるようだ。
 これで見つかればいいのだが、見つからなかったら疑いの矛先は琴音に戻ってくるだろう。鳴岡の剣幕では、どこかに隠しておいてあとで回収するつもりじゃないか、なんて言い出しかねない。
 窃盗犯だと言われてしまったらどうすればいいのだろう。もちろん琴音は盗んでなんかいない。しかし、ここで悪い噂がたったら、バイオリニストとして仕事を続けていくことは難しくなる。高価で繊細な楽器を扱うだけあって、評判と信用がとくにものをいう世界だ。盗んだことが確定していなくても、グレーゾーンというだけで仕事は確実に減るだろう。
「音楽、続けたいなあ」
 琴音はそっとつぶやいた。先輩の代わりになれるだろうかという重圧につぶされそうでも、そのせいで失敗してしまっても、音楽を嫌いになったわけではなかった。
 今までさんざん考えてきた、自分が先輩の代わりになれるだろうか、という点についてもう一度考え直す。音楽をやめることも考えた。しかし今更演奏以外の道を選ぶ気にはなれなかった。だが先輩の代わりになれる気はしない。
 代わりになれないから、と仕事をすべて断った自分を琴音は想像してみた。でもそうすればきっと、バイオリンを弾きたくなるに違いない。バイオリンを弾かない自分、というのが想像できないのだ。バイオリン以外の特技がないからか、長年弾いてきたからか、バイオリンをやめた自分を思い描けなかった。
 しかし、どう転んでも先輩のような演奏はできない。でも、仕事をしなければ生活できない。ぐるぐるぐるぐる、頭は回る。
「平、やっぱりお前だろ! お前がこの船のどこかに隠したんだ!」
 鳴岡がノックもせずに部屋に入ってきた。考えごとのせいで鍵を閉め忘れていたと、琴音は今気づいた。
「平さん、彼のバイオリンなんだけど、見つからなかったの。でも、それだけで平さんが犯人だとは言えない。鳴岡くん、少し落ち着いて」
 後ろから入ってきた古澤がなだめてくれる。バイオリンの価値をよく知っていること、控室への出入りを怪しまれないこと、バイオリンの扱い方もきちんと心得ていること。確かに、鳴岡から犯人として疑われてもしかたないくらいの条件を琴音はそろえている。
「私、ロビーとかロッカーも探してきます」
 そう言って琴音は立ち去ろうとするが、鳴岡がでも、と引き留める。
「私が船を降りる前に、もう一度荷物チェックしてもらって構いませんから」
 今度は鳴岡も食い下がってこなかった。
 琴音が犯人でバイオリンはこの船のどこかに隠されている、というのが鳴岡の推理だ。しかしそれは琴音以外にもいえることだ。この船でコンサートと講演があることはフェリー会社のホームページで事前告知があった。コンサートを聴くために乗った客もいるだろうし、そんな人は楽器の価値も知っているだろう。
 なにも私だけが怪しいわけじゃないんだ。そう考えながら琴音は船内を歩く。歩くことで、いろんなことが解決すると信じているかのように、ひたすら廊下や展望デッキを歩き続けた。
 乗客の荷物からは何も見つからなかった点が引っかかる。鳴岡の推理は半分当たっていて、バイオリンはこの船のどこかに隠されているのかもしれない。
 琴音はフェリーの中を探しだした。ただ、さすがに従業員スペースに無断で入るわけにはいかないので、客用のコインロッカーや浴室のロッカー、ゲームコーナーの景品入れの中など、バイオリンを隠せそうな場所を片っ端から確認していく。バイオリンは全長約六十センチ。小さなロッカーには隠せない。ロビーから始まり、レストランやゲームコーナー、展望デッキ、浴室、キッズルームなどを見て回る。
「平さん」
 後ろから声をかけられてふりむくと、古澤が立っていた。心配そうな顔だ。その顔では、琴音がいないあいだにバイオリンが見つかったということはなさそうだ。では、琴音を心配して来てくれたのか。あるいは、最有力容疑者を見張りに来たのか。どちらでもあまりうれしくない気がした。
「もう九時よ、疲れてない? ここでの講演会の前も仕事があったんでしょう」
 どうやら心配してくれているようだ。
「明日も仕事が入ってるって聞いたけど、大丈夫? 平さんも少し休んだ方がいいと思うけど」
「私もってことは、鳴岡さんも休んでいるんですか」
 ええ、彼も明日仕事だから、と古澤は軽くうなずく。あれだけ窃盗だ犯人だと喚き散らしていたのに、今は落ち着いているらしい。
「控室を離れた鳴岡くんにも責任はあるから、注意しておいたけれど……。 平さん、巻き込んでしまったうえに探してもらって、ごめんなさいね」
 古澤は眉を下げ、謝ってくる。琴音はいえいえ、と苦笑いした。
「私、まだ音楽をやめたくないんですよ。うまくいってないのにしがみついて、かっこ悪いなって自分でも思うんですけど。でもバイオリンを弾いてない自分が想像できないっていうか」
 琴音が低い声で言った。古澤は少し笑った。
「鳴岡くんも同じようなことを言っていたな。『同じバイオリンで二度と演奏できないとしても、俺は続けたい』って」
「鳴岡さん、バイオリンを見つけるの、あきらめるんですか」
「あのバイオリンはあきらめても、演奏は続ける覚悟があるってことでしょう。でも、あのバイオリンへの愛着もあるみたいだから、見つけられたらいいんだけどね」
 琴音は鳴岡が、自分のは大したバイオリンではないと自虐しているのを聞いたことがあった。それでもやはり、長い時間ともに過ごしていると、愛着もわいてくるものだろう。自らの楽器を「愛妻」と呼ぶ演奏者もいるくらいだ。琴音も自分の楽器は好きだ。
「音楽をやめたくないから、窃盗犯と疑われたままでは嫌なんです。もう少し探してみます」
「ありがとう、でも無理しないでね」
 琴音は古澤に会釈をし、いったん自室に戻った。

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