連載小説『平の迷走曲』①

 甘美なメロディがコンサートホールに響いている。聴いているだけで眠くなってしまうような、マシュマロでできた布団みたいな、甘くて柔らかなバイオリンの響き。
 オーケストラをバックに、平琴音は『タイスの瞑想曲』を演奏していた。俗世間に生きるタイスが、修道士アタナエルに説得され、修道院に入るかどうか悩むシーンの曲である。
 曲調が不安げに変わるところで、琴音はミスをしてしまった。ほんの少しの音のずれだが、オーケストラのメンバーにはもちろん、耳の肥えた客にも伝わってしまっただろう。会場の空気が少し揺らいだのを琴音は感じる。顔こそ微笑んでいるものの、内心では動揺する。またミスしてしまわないだろうか。観客はどう思うだろうか。弓を持つ手が震えてしまって、おかしなところでビブラートがかかる。落ち着いたテンポの曲なのに、指がもつれておいていかれそうになる。曲の後半に差し掛かると、はじめのメロディがピアニッシモで繰り返される。音量の調節がうまくできない。自分が出している音の大きさが把握できない。小さすぎるようにも、大きすぎるようにも聞こえて、また手が震えだす。ひよひよと力ない旋律が流れ出していくような気がする。だめだ。またやってしまった。最近ずっと、こんなことばっかりだ。葛藤するタイスのように、琴音もここのところずっと悩んでいた。
 発端は、琴音の先輩がしばらく演奏からは身を引くこと、そして、先輩に来ていた仕事が琴音にも回ってくると知ったことだった。
「琴音ちゃん、音楽は、音を楽しむものだよ。今の琴音ちゃんは、『音が苦』になっちゃってるよ」
 音楽は音を楽しむもの。これが先輩の口癖だった。バイオリンの先生に怒られて泣いていたとき、発表会で失敗したとき、同じバイオリン教室の子にいじめられたとき。琴音が困っているとき、先輩はいつもそう言って琴音を慰めた。怒られても、失敗しても、いじめられても、結局は楽しんだもの勝ちなのだと、琴音に笑いかけた。
 失敗を恐れて手が震えてしまう今の自分が、先輩のいう「音が苦」の状態になってしまっていることくらい、琴音は十分にわかっている。それなのにどうしても、ミスが怖い。間違えれば、またやってしまったと萎縮していく一方だし、納得のいく演奏ができたときも、次こそ失敗してしまうのではないかという不安がつきまとった。
 そして、さらに琴音を苦しめたのは、先輩に来ていた仕事が回ってくるようになったことだ。琴音は先輩のような演奏をしなければならないのだ。全身で音を奏でるような演奏で、観客を楽しませなければならないのだ。そう思うと、手が震えて、ミスをしやすくなる。ミスをしてさらにミスが怖くなる。完全な悪循環だった。
 ふと目が覚めると、フェリーの中だった。「タイスの瞑想曲」を失敗したのは夢だったのか、と一瞬ほっとするが、すぐに記憶が戻ってくる。確かにあのとき、コンサートで琴音はミスをしたのだ。そして、夢の中の先輩は琴音に笑いかける。
 ついさっきまでコンサートホールにいたはずなのに、もうフェリーに乗っている。正直、どうやって自分が移動してきたのか記憶がない。割り当てられた部屋のベッドで、枕もとの時計を確認する。乗船してからさほど時間は経っておらず、次の仕事まではまだ余裕があった。頭の中はこれからフェリーで行われるイベントのことでいっぱいだ。
「新造船の初航海記念に、トークショーとコンサートをしてくれないかな」
 そう琴音に頼んできたのは、琴音が一番お世話になった師匠だった。師匠とフェリーを運航している会社の社長は親しい。バイオリン教室の建物を広げるときや発表会のときなどに社長が寄付をしたほどの仲で、琴音とも面識がある人物だから、琴音に仕事がきたのは自然なことだ。しかし最初にこの話が回ってきたのは先輩であると後で知り、琴音は今までにないプレッシャーを感じた。それを知ったとたん、断りの電話を入れようとスマホを手に取ってしまったほどだ。琴音が出ずっぱりではなく、もう一人バイオリニストも参加すると聞いたこともあって、さすがに断りはしなかったけれど。
 私は先輩の代わりになれるだろうか。音楽の楽しさを伝えられるようなバイオリニストでいられているだろうか。最近の琴音は、寝ている間でさえそのことを考えているといっても過言ではないくらいだった。
 だるさの残る体を起こして、テーブルに置いてあったトートバッグから、いつも持ち歩いている雑誌を取り出す。七年前、十五歳の天才少女としてデビューし間もない琴音が、音楽雑誌のインタビューを受けたときのものだ。
 目当ての箇所は記事の終盤、尊敬している人はいるか? という質問のところだった。本当は蛍光ペンかなにかで囲ってしまいたいけれど、それすらもったいないような大切な思い出を、そこで琴音は話しているのだ。
「尊敬している人は、バイオリン教室の先輩です」
 そう琴音は答えている。尊敬するようになったきっかけも、その答えに続いている。
 琴音が中学のころ、バイオリン教室で合奏の練習をしていたときのことだ。急に停電してしまった。外はもう暗く、不安がっている小さい子たちを元気づけてあげないと、と琴音は思い、楽しい話をして笑わせようとした。しかし、彼らは浮かない表情のままだ。
 そのとき、軽快な明るい音が流れてきた。子どもたちの顔が、ぱっと輝いた。みんなが知っている、有名な映画の曲だ。琴音が顔をあげると、先輩がバイオリンを弾いていて、さっきまで聞こえていた泣き声がぱたりとやんだ。先輩は教室で習うクラシック曲ではなく、ディズニー映画の曲、アニメの主題歌などをメドレーのようにしてどんどん弾いていった。途中でマリオが失敗したときの効果音なんかも入れて、本当に楽しそうにしていた。
「そんなことがあって、音楽が人の気持ちを明るく、軽くしてくれるって、学んだんです。音楽の力で子どもたちを慰めて笑顔にした先輩を、とても尊敬しています」
 先輩についての話題を、琴音はそんなふうにして締めていた。当時の記事を読むだけで、あの日の教室の様子が目に見えるように思い出される。
 琴音は先輩のようになりたいのだ。音楽の力で人を笑顔にできるような人間に、そしてなにより、自分が演奏を楽しむことのできる人間に、憧れている。
 さっきのタイスの瞑想曲だって、もとは先輩に依頼されるはずの仕事だった。先輩と肩を並べられるくらいの演奏をしたいと意気込んでいたのに、あのざまだ。こんな調子では、先輩のようなバイオリニストになるどころか、バイオリニストとして活動することすら難しくなっていくのではないか。思考は悪い方へと流れていく。
 しかけてあったアラームが鳴った。そろそろロビーに移動して演奏の準備をしなくては。無理やり気持ちを切り替えた琴音は軽くストレッチをし、部屋を出た。まずはトークショー、それからミニコンサートだ。顔をパン、と手で挟んで気合を入れる。
 演奏の前のトークショーで、これまでの経歴や苦労話、尊敬する人物について話す。雑誌のインタビューでした話を繰り返す。
 ほかにも、身長は平均的なわりに手が小さいため、手の大きい人より演奏に苦労する曲もあること。しかし手が小さいなりの強みもあること。小学生時代に初めて自分の演奏の録音をしたとき、自分の声の録音を聞いたときくらいギャップがあったので、録音データがすり替えられたのではないかと子どもながらに一瞬疑ってしまったことなどを話す。客席からも笑い声が聞こえる。反応がいいことにそっと安堵した。
 琴音は話すのがあまり得意ではない。本当は演奏後にトークショーという構成だったところを、話す方が緊張するから早く終わらせたいと交渉して、順番を入れ替えてもらったのだ。このあとに出てくる同業者の鳴岡奏一は、本来の順番通り、演奏からトークショーをするらしい。
 いつから話すのが苦手になってしまったのだろう。小さい頃はむしろおしゃべりだった。録音データのすり替えを疑って、これは自分の演奏ではないと言い張るくらいには、生意気な子どもだった。関係ない方向に行ってしまいそうになる思考を、コンサート用に切り替える。
 ミニコンサートの出来は、最近の中ではマシな方だった。ミスはなく、久しぶりに演奏を楽しめたような感覚があったし、観客の反応も上々だ。トークショーの反応が温かい感じだったのもプラスに働いているだろう。
「平は演奏を楽しんでいる感じがして、いいよな」
 出番を終え舞台袖ですれ違ったとき、同じくバイオリニストの鳴岡がそう声をかけた。賞賛というより冷やかしや嫉妬のように聞こえた。
 鳴岡の演奏が始まった。テンポの速い曲を弾いているわけではないのに、急げ急げと急き立てられているように感じる。音も必要以上に大きく、どこか一本調子だ。聴いていて落ち着かない。それでも曲が終わると大きな拍手が鳴っている。琴音が演奏したときのほうが拍手の音量が大きいことに、琴音は気づかない。そして拍手の量が少ないと鳴岡が気にしていることも、琴音はあまり気づいていない。
 琴音はほっと一息ついて、自分の部屋に戻り、ベッドに身を投げ出す。フェリーが出港して一時間くらい経った。まだ夜の七時を回ったところだが、眠気が忍び寄ってくる。しばらくぼーっとする。
 今頃、鳴岡は演奏を終えて、トークをしているだろうか。職業は同じ二人だが、琴音は鳴岡に苦手意識を持っていた。彼の演奏は聴いていて安心できない。いつもなにかに追い立てられているようにも、自分の全力を発揮しなくては、と無理しているようにも、聴衆に実力を見せつけて戦いを挑んでいるようにも聴こえる。最近はそれが顕著になっていて、見ていてつらかった。彼のトークをわざわざ聞きに行く気にもなれなかった。しばらくうとうとして、本格的に眠りに落ちかけた瞬間、隣の部屋から怒鳴り声がした。鳴岡の部屋だ。
「どういうことだよ!」
 隣の部屋に行ってみると、鳴岡が声を荒げていた。そして彼は琴音を指さし言った。
「バイオリンを盗んだの、平じゃないのか」
「えっ」
 思わず声が漏れた。盗んだ、とはどういうことだろう。鳴岡のマネージャー・古澤が琴音に状況を説明する。コンサート後にバイオリンを控室において、鳴岡が少し控室から離れたすきにバイオリンが消えてしまったらしい。鍵はかけ忘れていたそうだ。控室といっても、会場となったロビーに近い客室を借りていただけなので、入ろうと思えば誰でも入れてしまう。念のため自室も確認したがどこにもなく、そこであの大声だったらしい。
「バイオリンの価値を一番わかってるのは平だろ。だからお前がやったんじゃ……」
 琴音は慌てて否定した。バイオリンの価値や扱いに慣れている人間が客の中にいるかもしれない、と反論すると、鳴岡は一瞬つまったあと言い返してくる。
「でも、一番知ってるのは平だろ? お前なら控室に出入りしてても不思議じゃないしな」
「私、盗んだりしませんよ」
 古澤がまあまあと二人をなだめる。眉を下げた困り顔は、子どものいたずらに手を焼く親や姉のようにも見えた。
「まだ犯人を決めつけるには早いでしょう。どうかな、とりあえず社長に相談してみたら」
 大きな足音で出ていく鳴岡の後姿を見ながら、琴音は息苦しさを感じていた。鳴岡の演奏を聴くときに感じる息苦しさと同じだった。

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