連載小説『平の迷走曲』③

 船内はだいぶ探したが、見つからなかった。では荷物検査で見つけきれなかっただけで、誰かがまだ隠し持っているのだろうか。ベッドに寝転がった琴音はバイオリンの大きさを思い浮かべ、ほかに隠せそうな場所や持ち物がないか考える。
「あっ」
 叫んで跳ね起きる。もっと小さなかばんや狭い場所に、バイオリンを隠す方法がある。分解すればいいのだ。弦を張っている黒い指板を外せば、一番大きなパーツは胴の部分になる。胴は五十センチないくらいだろうから、隠せる場所は少し増える。
「でも、だめだ」
 琴音は頭を抱えた。相応の知識や道具を持つ人間でも、バイオリンを傷つけずに分解することは難しい。傷つけてしまえばバイオリンの価値は下がり、どこかに売って金をせしめようなんていうことはできなくなる。傷つけずに分解できるような能力の持ち主がこの船にいるだろうか。分解説はあまり現実的ではなさそうだ。
 鳴岡のバイオリンは今頃どうなっているだろう。想像は悪い方へと膨らんでいった。きちんと扱われているだろうか。湿度の高い場所に置かれていないだろうか。バイオリンにとって湿気は天敵である。そもそもこの船のなかにあるだろうか。もう捨てられているなんてこと、ないだろうか。そう考えるといてもたってもいられなくなってしまい、琴音は部屋を出て甲板に向かった。少し外の風を浴びて、頭を冷やした方がいい気がした。
 甲板は冷え切っていた。夜の海は穏やかである。車より少し遅いくらいの速度で、フェリーはすーっと進んでいく。町の明かりが遠くにあるため、地上よりも星がはっきりと見える。琴音は手すりの近くまで寄って、海を見下ろした。あそこまで探してないということは、海に捨てられているのでは、という考えが一瞬頭をよぎってしまう。すぅっと寒気がした。もしそうなら、もう永遠に見つからないだろう。見つかったとしても、到底使える状態ではなくなっているはずだ。そうなったら、鳴岡はどう思うだろう。今までの鳴岡の態度を思い出す。
「鳴岡さんに嫌われてるのかな、私」
 考えないようにしていたことが、つい口をついて出てしまった。いくら琴音が怪しいといっても、あそこまで疑ってかかるのにはなにか理由があるのかもしれない。加えて、『音楽を楽しんでいる感じがして、いいよな』という言葉も引っかかる。皮肉っているような響きがあったように感じるのだ。琴音を嫌っているから、そのような態度をとるのだろうか。鳴岡は最近仕事が減っていてヤバいから、ピリピリしてるんだよ、という同業者の言葉を思い出す。
 琴音と鳴岡はデビュー時期がかぶっており、周りからライバル同士だとみなされたこともあった。彼が好戦的というか、勝ち負けにこだわる性質なのは琴音もなんとなく知っている。演奏ににじみ出ているからだ。琴音自身は、演奏者が楽しむのが一番という先輩の教えが頭にあるので、鳴岡に「勝った、負けた」という感情を抱いたことはない。だが、鳴岡は琴音をどう思っているのか。仮にも同業者のバイオリンを盗むような人間と思われているのか。
「私、バイオリンを盗む動機があると思われて……」
 そこまで言って、はっと顔を上げる。動機だ。犯行理由の面から犯人やバイオリンのありかを絞り込めるかもしれない。
 プロのバイオリニストが使っているバイオリンである。売ればそれなりのお金になることは間違いない。車がポーンと買えるくらいのお金にはなるはずだ。それとも犯人は楽器コレクターや鳴岡の熱狂的なファンで、バイオリンが欲しかったのか。そうすると、先ほどの琴音の「楽器分解説」「すでに捨てられている説」は説得力がなくなる。売ったりコレクションしようと考える人間が、楽器を乱暴に扱うわけはないからだ。
 仮に乱暴に楽器を扱うような人間が犯人だった場合は、犯人の目的が分からなくなってしまう。金目当てなら、傷つければ大きく価値が下がるバイオリンよりも財布などを狙った方が確実だ。やはり「分解説」「捨てられている説」はなさそうだ。しかし、バイオリンが見つからないから「捨てられたのではないか」と考えているわけで。
「鳴岡さんにダメージを与えられれば、なんでもよかったとか……」
 思いついてからまさか、と首を振る。そのためだけにバイオリンを盗むのはハイリスクすぎる。鳴岡、ダメージ、と思い浮かべたところで、鳴岡の様子が気になってきた。彼はどうしているだろう。体も冷え切っていることに気づいた琴音は、早足で船内へと戻った。
 船内に入ると、自分が今までかなり寒いところにいたと気づいた。今さら寒気がして、温かいものを飲もうと自販機に向かう。ホットコーヒーを買い、これを飲んだら鳴岡の様子をうかがいに行こうと決める。
 部屋でふて寝しているのか、鳴岡の部屋の前に立っても物音は何ひとつ聞こえない。寝ているのなら起こすのも申し訳ない。自室に戻ろうとしたとき、前から鳴岡が歩いてきた。無視されるだろうな、と思ったのに、鳴岡は話しかけてきた。
「平、俺のこと探してた?」
「え、ええ」
詰まりながらもうなずくと、鳴岡は俺も探してたんだと言って、ロビーへと歩き出した。ワンテンポ遅れて琴音もついていく。なんだかさっきまでと態度が違って落ち着かない。ロビーの端の長テーブルに、椅子一つ分の距離をあけて座る。話し出したのは、鳴岡の方だった。
「船内を探してたみたいだけど、ずいぶん長い間帰ってこなかったな」
「犯人と疑われたままは嫌なので」
「でも、見つからなかった」
事実を突きつけられて、琴音は黙ってうつむくしかなかった。自分を疑っている人間と二人きりで話すのは、ものすごく居心地が悪かった。安定感のある椅子に座っているはずなのに、座面がぐらついているような錯覚に襲われる。
「実は俺が平を疑った理由、もうひとつあるんだ」
琴音は思わず鳴岡の顔を見た。バイオリンの価値や扱いを知っていること。控室への出入りを怪しまれないこと。そのうえまだあったのか。
「平って、俺のこと嫌いだろ」
鳴岡は窓から海を見ている。本当は何も見ていなくて、ただ琴音を視界に入れたくないだけかもしれないが。
「デビュー時期はほぼ同じなのに、お前はどんどん有名になっていくし。いつも楽しそうに弾いているし」
言葉の意味をそのまま受け取れば、これはほめ言葉なのだろう。しかしこの状況でほめられたと思うほど琴音は鈍感ではない。次に続く言葉が怖い。
「だけど金は俺の方が持っててさ。多分、平のよりも俺のバイオリンの方が高い」
「鳴岡さんの楽器の方が質がいいから、私がそれをほしくなったって言いたいんですか。だから盗んだって」
鳴岡はゆっくりうなずいた。まだ琴音を見ようとはしない。街を離れたのか、窓の外の明かりは少なくなっている。進んでいるのか止まっているのかわからない。
「そんなことしませんよっ」
多くの乗客が寝静まって、音の少ない空間に琴音の声が響く。慌てて口をつぐむが、まわりにほかの客の姿はなかった。楽器にはそれぞれ持ち主との相性がある。それを壊すような真似をするはずがないのに。
「でも平、昔俺に言ったこと覚えてるか」
鳴岡の苦々しげな視線が注がれる。琴音には身に覚えがない。なにか傷つけることを言ってしまっただろうか。
「『鳴岡さんに使われるバイオリンはかわいそうね』って、言ったこと」
鳴岡にそう言われて琴音は再び黙り込んだ。心当たりがなかったからではなく、あったからだ。自分でもびっくりするくらい鮮明に、当時の記憶がよみがえってくる。まだ生意気な小学生だったころ、中学生の鳴岡に向かって確かにそんなセリフを吐いたことがある。
鳴岡があまりに苛立たし気に演奏するから、ミスをしたり怒られると、楽器に八つ当たりするかのような扱い方になるから、見ていられなくなったのだ。そして、そのあとに続けて、「あたしが使ってあげたいくらい」と言ったことも、鳴岡が裏切られたみたいな顔をしたこともついでに思い出した。
「だから、それを十数年越しに実行したんじゃないのか。人気があるお前より、俺の方がいいバイオリンを使ってるから、それが許せなかったんじゃないのか。あんたにはふさわしくないって、そう思ってたんじゃないのか」
なにも言えなかった。首を振って否定すると、鳴岡はため息をついた。つんとするアルコールのにおいがした。
「俺はまだ疑ってるから」
鳴岡は琴音に視線を向けずに立ち去った。その後ろ姿はふらついていて、危なっかしく見えた。
 琴音はテーブルに腕をのせて顔をうずめた。目を閉じたり開けたりする。
話すのが苦手になった理由がわかった気がする。鳴岡にああ言ったことをどうして忘れていたのだろう。きっと鳴岡を傷つけてしまったことがショックで、うかつな発言をしないように無口になり、そこから話すことに苦手意識を持つようになったのだ。しゃべるのが苦手になったのも、今回の事件で疑われたのも、自分のせいじゃないか。
「あああああ」
 琴音は大きなため息をついた。申し訳ないことをしたな、と思う。だが言ってしまったことはもう取り消せない。それに、あの生意気だったときが、一番純粋に音楽を楽しんでいた時代だったような感じがする。あのころにはすでに先輩と出会っていたし、先輩の持論も知っていた。なにも気にせずのびのびと演奏することができて、それが上達にもつながった。先生に褒められることも多くなった。だから天狗になってもいて、鳴岡にあんなことを言ってしまったのだろうが。
「小学生のときの気持ちで演奏できたら、なにも怖いものはない」
 自室のベッドの上で、自分に言い聞かせるようにする。コーヒーを飲んでいるのに眠気がやってきた。やはりいろいろあって気疲れしたのだろう。

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