プレリュード

「お願いします! 尾上のためにも、書いていただけませんか」
 手島夏樹は頭を下げた。しばらく顔を上げずにそのままでいると、頭を上げてください、と声がする。そっと頭をあげると、目の前には困った顔の南健太郎がいた。
「手島さんの頼み、受けたいのはやまやまなんだけどね」
「やっぱり、だめ、ですよね」
 南はつり気味の眉を下げて、夏樹と目を合わせた。眉とは対照的なたれ目が、申し訳なさそうに細められる。
「僕、今は予定が立て込んでいて、もちろん書けなくはないですけど、ひとつひとつの仕事の質が落ちてしまうのは避けたいんです」
 だから引き受けることができない。ほかを当たって、もっと質を保ったままかける人を探してほしい。そう南は言った。
「尾上明里さんと手島さんはご親友ですよね?」
 念を押すようなその問いかけが、割れガラスとなって夏樹に突き刺さった。二人は誰にも引き裂けない親友だったはずだ。
「せっかくの彼女のCDなら、解説も魅力あるものにしたほうが、よりよいものが出せると思います。だから、ほかを当たってください。僕なんかよりも優秀な人はいくらでもいますよ」
「南さんは、憧れの存在です」
 本筋とは離れた言葉が、思わず口をついて出てしまった。憧れてきた存在だからこそ、軽々しく僕なんか、など言ってほしくなかった。
 南は苦笑いしてありがとう、とつぶやいた。

「あかり!」
 階段を下りる途中で親友の名前を呼ぶ声がして、夏樹は立ち止まった。あかり、あかりあかり。どこにいるの。
「こんなときは謝らなきゃだめだよ」
 聞こえてきたのは小さな娘を叱る親の声。あかり、とはその子の名前なのだろう。夏樹は階段の下にいる親子をしばし眺めたあと、そっとため息をついた。階段を下りる足がロングスカートのすそを踏んだ。
 尾上明里がこんなところにいるはずはない。もしいたとしたら、夏樹は涙を流して飛びついただろう。遠ざかる親子を見ながら、小さな子に尾上明里の面影を探す。笑っているような口元が、明里に似ている気がした。
 その笑顔が明里から消えて久しい今、明里が夏樹の前に姿を見せることは少なくなった。自宅に閉じこもったきりの彼女は、ほとんどの時間を一人で過ごしている。部屋でなにをしているのか夏樹には知る由もないが、生きているのに死んだような生活を送っているのだろうとおおかた予想はついた。その予想が当たっていないことをどこかで祈りながら、夏樹はほとんど諦めていた。
 夏樹の愛した明里は、おそらく二度と戻ってこないだろう。体が生きていても心がそうでなかったら、彼女は亡くなったも同然。葬式の気分で過ごす日々を、夏樹は明里のラストCDの完成という目標を杖に、必死で生きているのだった。

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