誰にも追いつけないスピードで地面蹴り上げ空を舞う
昨日の「苔」をA3の紙に絵にした。
titleは「VOITHISTE ME PARAKALO.」ギリシャ語だ。
最近これが顔にこびりついている人がたくさんいて、今綺麗な色が見えないのだが、タイトルを絵に入れてみたらなんだかいい感じに仕上がった。こんなに汚い苔の世界も、芸術となるのだな。
笑顔の裏に涙や怒りがある。
それが渦巻くと、全体が真っ黒な色になる。
私は、綺麗事だけ信じるような愚かな人間にはなりたくない。
本当にそれが正しいのか?
自分の思っていることだけが、事実で正解なのか?
いつだってそう考える。それは、共感覚を筆頭とし多様性を伝える身であるからだ。自分の主張が間違っていれば、正す。違うと思っても、その可能性もあるかもしれないと、理解する。尊重する。
このことに関しては上記記事に詳しく書いてある。2ヶ月も前の記事だが未だにスキがたくさん来る、なにやら人気の記事らしい。
こんな思いをする人がこれ以上増えませんように、と部屋と神棚を掃除し、穢れと罪を今日も祓った。
伊勢生まれだがなかなか帰ることができず、両親にたのみ伊勢神宮でいただいてきた神棚には、天照大御神と、氏神様の御札が入っている。
最近は良く、天照大御神が私に何かを伝えようと色々と伝達をあれやこれやと方法を使いしにきて、もはやスピリチュアルとかそういう話ではなく、宗教とかそういう話でもなく、ただただ私の道を正しい方へ導こうと必死で話しかけてきた。
誰かが悲しむような、傷つくような道を選ぶことは違うと
今日はこの歌を聴け、と言われた。
この歌が、今の私に伝えたいメッセージだそうだ。私の夢である「目に映るもの全てを愛する」に通づる箇所があり、少し寒気もした。
それから、「怒り」を無くすようにとも言われた。
私の怒りはどうもうちの神棚にいる天照大御神に連携していて、電波障害やエスカレーターが止まったり、家電が壊れたり、いじわるをしてきた人が目の前でいきなり熱を出したり、他にもここには書けないような事態を起こすことがある。
そしてそれらはなぜか私には被害の及ばない出来事になる。それが怖くて、偶然にしては多すぎるので「怒り」を持たないように、持たないようにと気を付けていたが、やはりこれは連携していたことが原因とわかり、なんだか謎が解けた。
が、最近はまた「怒り」に支配されていた。
怒りは二次感情なので、奥に別の感情が眠っているのだが、自分自身に掘り起こすと「苦しさ」「不信」「それでも信じたかった気持ち(悲しさ)」などが出てきた。
怒りを持つときはこうやってゆっくりと自分に問いかけることすら、忘れていたのだ。穏やかに戻ってもまた色々なことが起こるためだ。
それでもこの膨れ上がっている感情が、何も起こさずに終わるとは思えなく、穏やかになるように自分を調整しては込み上げるものを抑える、そんな作業を今日はしている。
早く、また穏やかな日々が訪れますように。
山口葵
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