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百一歳の地図

私の母は、間もなく七十五歳になる。

母の日と誕生日が近いので、私は毎年二つの記念日をひとつにまとめて、少しだけ高価な贈り物を渡すことにしている。

今年は新品の自転車をプレゼントした。
ちょっとした買い物などに毎日使用しており、風雨に晒されだいぶ古くなっていたのでちょうど良い機会だと思った。

母はとにかく元気者だ。

二日に一度はグラウンドゴルフに出かけ、仲間と共に春夏秋冬を問わず広場を走り回り、大声を出しながら汗をかく。

練習が終わると広場の隅にあるベンチに腰掛け、皆で持ち寄ったコーヒーやお茶菓子を口にしながらテレビ番組や子供、孫なんかの話に花を咲かせている。私がお昼からの勤務の時など、「おー!いってらっしゃい!!」と、数人の逞しい応援団の掛け声が、車の中にまで届いてくる。
私はそんな声援に背中を押されながら、今こうして人並みの生活が送れるようになったと思っている。

約二十年前、妻を病気で亡くし、私は二人の子を連れ慣れ親しんだ熊本の実家に帰って来た。
失意のどん底、という表現があるが、私には意を失う暇も感覚もなく、半ば無意識の中で体が勝手に動き、からくり人形のように生活を送っていたように思う。なぜならばその辺りの記憶が曖昧で、当時の日々を思い出す方法は、自分で毎日つけていた日記を読み返すことくらいだからである。
今になって思えば、目の前の現実や困難な状況などの数々から心や身体を防護するために、条件反射的に、まるで機械のように自らの脳が発令した防衛本能だったのかも知れない。

慣れない仕事に疲弊しても、育児に追われていても辛いと感じたことはあまりなく、何か体を慌ただしく動かし続けることが、自分の背中にドンと取り付けられた巨大なネジを毎日稼働させる動力のような感じがしていた。

妻のお墓に毎朝行き、お水と線香を交換していた。
墓前に座り込んで目を閉じ、それから仕事に向かう日々であった。

当時はあるファミリーレストランで働いており、帰宅するのが深夜遅くになることも珍しくなかった。

ある時私は運転を誤り、道路脇の畑に突っ込んでしまい、車が大きく破損してしまった。
またある時は、家のガレージに駐車する際、勢い余って後ろの壁に激突してしまった。いずれも深夜二時を回っており、疲労やストレスから頭が朦朧としているような状態あった。

見るに見かねた母は、今まで見た事のないようなものすごい剣幕で私を怒鳴った。

「あんたはなん、ボーッとして生活しとるんね!?たまたま自分の車をダメにしただけで済んでるけど、もし誰か人を轢いたりしたら謝ってすまんのだけん!それに自分の身になんかあったら子供達はどうするんか?まだ自分の母親が亡くなったことも理解してないとに、父親まで死んでしまったらかわいそうだとは思わんのか?あんたはひとりの体じゃないんぞ。たとえ嫁さん亡くして辛いかも知れんけど、辛いのは自分だけとは思いなさんな!向こうのお義父さん、お義母さんだってあんた以上に辛いんよ。もっともっとしっかりせんか!!そんなんやったら不規則な仕事なんて辞めなさい!!あんたの一番の、たったひとつの仕事は二人の子供を一人前に立派に育てあげることや!!死ぬんやったらそれからにしなさい!!」

母は目を真っ赤に充血させ、唇を震わせながら一言一句を胸の奥から搾り出すように私にそう言い、ドアをバタン!!と閉め部屋を出て行った。
私は長い、永い眠りから、やっと目が覚めたような気がした。


母は、何より曲がった事が大嫌いな性格である。
そして、
「間違った事さえしていなければ、いつも自信を持ってお天道さんを見上げる事が出来る」
というのが信条だ。

高校一年の春に三者面談があった。

私はある私立高校に通っていた。
クラスの友達も、学校全体を見ても、いわゆる「お金持ち」の家庭がほとんどで、駐車場にはそれはそれは高校生の私なんか見たこともないような高級車が所狭しと並んでいた。ピカピカに輝き威光を放つ車から、政治家や芸能人のような雰囲気の大人が続々と降りてくる。
母は田舎から軽自動車でやって来た。
停める場所が分からず守衛さんに頭を下げながら、誘導してもらっていた。

母を迎えに行き、「お母さん、周りはすごい車ばっかりやね。おれのクラスも半分以上がどっかの社長の息子よ。隣のクラスには政治家の息子もおるし、ほら、そこの〇〇歯科の息子、席が隣りばい」とキョロキョロしながら私が言うと、「なーん、車の品評会に来たんじゃないとよ。あんたの行く大学とか成績の話をしに来たんだけん、頭の中身で勝負しなさい」
と、まるで私の話なんて相手にしていなかった。

「ここは高校でしょ?親なんてどんな見た目だろうがカッコだろうが関係ないわ。主役はあんた達生徒でしょ?」


庭掃除をしている母に自転車をプレゼントすると、タオルで汗を拭きながらにっこり笑ってくれた。
グラウンドゴルフで少し痛めたらしい左の腿をトントンと叩きながら、その自転車に近寄って珍しそうに眺めていた。

「あんた、無理したんじゃないとね?」
と聞いて来たので、私は首を横に振って得意気な顔と余裕を作って見せた。

「私もあんた達三人が大学に行ってかかったお金合わせたら、この田舎なら家が数軒建ってるばい。ま、いい家をいくつ持ってても住む人がいないなら意味ないもんね。ね、おとうさん?」

父は知り合いから頂いた真鯛をさばきながら、
「お、今度はもうすぐ父の日やなぁ。おれもどう、新しい自転車を頼んどくか。あ、余裕があるなら新しい車でもいいぞ」
ととぼけていたので、母と目を合わせて二人で笑った。父は見事な手さばきと熟練の技で、新鮮な魚を三枚におろしていた。

妻のお葬式の日、私は気が動転していてまともな挨拶すら出来なかった。

それを見た父と母が二人で私のそばに立ち、

「みなさん、今日は参列してくださって、ありがとうございました。息子は今日からまた一から歩き出します。私達家族も共に歩んで参ります」

と、言葉を代弁してくれた。

その約束を今もずっと忘れず果たしていてくれる父と母に、いつか恩返しが出来ればいいなと思う。
私が子供の頃から授かった恩は数え切れないので、二人には長生きをしてもらい、その間にちょっとずつ分割して返していきたい。
このままずっと元気でいてくれて、父と母が百歳になり、百一歳を越えたとしても、助けてもらった半分も私は返せないのかも知れない。

新車は無理だけど、また来月、自転車屋さんに行って父の欲しいと言っているマウンテンバイクを見て来よう。

そう言えば、今年に入り息子と娘、そして母にも自転車を買ったので、次で四台目になるなぁと、ふと思った。
いい機会だから前から欲しかった自分の分も買おうかな、
とも考えたが、それはまた今度でいいかな。

母の乗っていたお古の自転車に、もう少し乗ろうと思っているから。

「お昼ご飯は鯛のお茶漬けにしよかね、ね、おとうさん?」

この古い自転車を漕ぎながら、
母はいつもどんな風景を見ていたのだろうか?

前向きな母のことだ、いつもお天道様を見上げながら、きっと孫たち二人が結婚して子供を授かり、その子たちを抱っこするそんな果てない未来を、毎日夢見ていたのかも知れない。今もそうなんだろう。

「おー!いってらっしゃい!!」

眠気も吹き飛ぶその応援歌に背中を押され、
私は今日も、生きている。









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