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#1 ALKOTTOのこれからを考えるための、これまでの活動レポート

編集長の松島です。ぼくはかつて「後日読んでもらいたいささやかなまえがき」という名のブログを書いていた。当時はそれなりに読者もいてコメントなんかももらったりもした。ネットがいまより幾分か素朴だった時代の昔話だ(でも楽しかったなあ!)。そのブログはいまではもうなんとなく書くのをやめてしまったのだけれど、ALKOTTOのnoteにおけるこの文章というのは、まあいわゆるそのブログの代わりのようなものになるのかな、なればいいなと思っている。

ところでいきなり余談なのだけど、ぼくは小説の巻頭や巻末に付された作家自身による蛇足のような「まえがき」や「あとがき」が大好きで、むしろあれを読む楽しさをしっかり感じとるために本編である小説を読んでいる、というようなところがないわけでもなかったりするのだ。(まあそういう奇特な人は少ないだろうけど)この文章もそういう人にとっては楽しんでもらえるのではないかなと思う。では、それ以外の人にとってこの文章にどんな意味があるかといえば、いわゆるEditor’s noteというか、編集長ブログのようなものであり、新聞でいうところの社説に似た位置づけになるものと思ってもらえばいいだろう。

ただ実際には、もっと気軽なエッセイみたいなものを書いていこうと思っている。それはたとえば企画を考える前段階としての制作メモだったり(それをさしてぼくはかつてのブログに「まえがき」という名前を付したのだった)、それよりもっと個人的な日常を記したダイアリだったり、あるいはもっと踏み込んだ観光論なども含まれるかもしれない。もしかしたらそこから新たなマガジン企画が生まれるかもしれないし、メンバーである学生たちへの示唆につながるような公開講座テキストのようなケースになることも結果的にはあるかもしれない。いずれにしても今回は初回ということで、(少し長くはなるけれど)ひとまずALKOTTO開設からここまでの経過を軽く振り返って書き残しておくことにしたい。


夏のメモワール

〜ALKOTTOスタートから最初の60日間〜

街にようやくクマゼミの声が聴こえるようになったかなという7月1日、ALKOTTOのnoteとinstagramの公式アカウントが正式にオギャアと産声を上げた。あれから2か月がたったいまではすでにツクツクボウシの声も聴かれなくなり、耳に届く虫の声はその主役の座を秋の虫に明け渡している。朝晩もずいぶんと涼しくなって、考えてみればすっかりひと夏が終わろうとしているというわけなのだ。

7月1日の公式アカウント開設に向けて、活動自体は4月からおよそ3ヶ月をかけてじっくり準備してきた。まず最初に取り組んだのプロジェクトのネーミング。それからメンバーのチーム分け(note担当チームとinstagram担当チーム)をおこなった。それぞれのチームでどんな役割分担をするのか?どんなことを発信していくのか?などについてミーティングを毎週のように重ねてきた。そうしてようやくにして7月にスタートしたのだった。

当初はもう少し早く開設する予定だった。遅れた理由は、じつは新学期前の段階ではもう少しこじんまりした会議をイメージしていたのだけど、4月に15人もの1年生が一挙に入ってきて、総勢20名ほどの大所帯になったことで、意思疎通やコンセプトの浸透に時間をかけたほうがいいと判断したからだ。

なぜなら、ぼく自身は大学の講師でもなければ、この活動も正式のゼミでもない、あくまで有志による任意の課外活動なので、いったいどこまで責任を持って参加してもらえばいいのか探りながらのミーティングだったからだ。かつ、そもそも1年生は日本各地から集まったばかりで彼女ら同士の関係性もまだ固まってない。それゆえ、毎週水曜日のお昼休みの1時間という短い時間のなかで、一歩ずつ距離を近づけていく作業を根気よく続ける必要があったわけなのだ。(それにしても、コミュニケーションのもっとも大事なポイントである「名前と顔を一致させる」のにマスクが邪魔だったなあ!)。

さて、そのようにしてようやくALKOTTOがスタートを切った記念すべき7月1日というのは、偶然にも祇園祭の幕開けときっかり同じタイミングでもあった。それはALKOTTOがスタートして最初の京都らしい催事ということであり、さらに今年は3年ぶりに鉾建てや巡行が復活した特別な祇園祭だったことも重なり、ぼくとしては勝手に縁のようなものを感じていた。当然、今年の祇園祭には多くの注目が集まっている。なにかわれわれも発信できないかと考え、鉾建てに始まり、宵山の縁日や、前祭の山鉾巡行まで、例年よりもじっくりと見て回った。結果的には(まだ発足したばかりだったこともあり)あまりきちんとした企画を実行することはできなかったけど、丁寧に複数の鉾建てを見て回ったりしたことはこれまであまりなかったことなので、個人的にはいろいろ収穫はあったと思う。

そういえば宵山の時期に恒例のバケツをひっくり返したような激しい夕立が今年もあった。3年ぶりに歩行者天国となった通りに出た露店で、子どもたちと買い食いをして歩いたのも楽しい思い出になった。祇園祭の露天が中止される前の2019年には小学1年生だった次男坊さえ、もう高学年になって子ども浴衣を着るのは恥ずかしいからイヤだというようになった。中学生になった長男はそのうち「友達と行くから」と一緒には行ってくれなくなるんだろう。そんなことを思いながら遠くに見える夏の夕暮れとほのかに灯る提灯の灯りを見ていた。祭が変わらずあることで、逆に自分の変化が浮き彫りになる。日常のお菓子とか、季節の催事とか、京都の人にとっての伝統文化と向き合い方のベースはそこにある、とあらためて思った。

でもそれらの出来事も、いまや明け方に見る夢のように、遠い記憶になっている。夏の記憶というのは陽の光が強いぶん陰影が濃くなり、ついこないだのことであってもまるで何年も前のことのように感じたりするものだ。海面を走る夏の太陽の光、白く眩しい砂浜、ラジカセから聴こえるビーチボーイズや大瀧詠一のヒット曲、潮風になびく女の子の髪、遠くの雷鳴、突然の通り雨、雨上がりのキラキラ反射するアスファルト。そうしたものがひときわ美しく思い出されるのは、きっとその強い陰影のせいなのだ。これは、そのようにして2020年の夏が始まり、終わっていった記録でもある。今年の夏が、みんなにとってよい思い出を刻んでいてくれたらいいなあと、ぼくは心から思う。


noteで書くということ

〜プロフ記事と公式まとめマガジンに追加された人気記事ついて〜

noteのほうでは、ぼくを含めたALKOTTOのnote担当メンバーにプロフィールをまずは書いてもらった。このプロフィールがとても良かった。理由のひとつとしてはマスクで顔が見えないなか、彼女たちが個々になにを考えているのかがすごくよく伝わってきたので、編集長としてメンバーの内面を知ることに大いに役立った。
そして、なにより彼女たちの文章が良かった。多くの学生はついこないだまで高校生だった子たちばかりで、もちろん文章の書き方を体系的に学んだことなどない(はずだ)。それでも彼女たちが書いた文章は、読んでいてどれもとってもチャーミングで(すくなくとも、ぼくにとっては)しっかり読ませるものになっていた。基本的にはちょっとした字使いを幾分か手直しをしただけで、ほぼ彼女たちが書いた文章がそのままのかたちで公開されている。

もちろんプロの目から見て文章力や表現力という点では決して質の高いものだとはいえない。まあ少々ゲスないいかたというか、わかりやすい表現をすれば「お金の取れる」文章ではない、ということになるだろう。手法や構成などいくつかの点でもう少し手を加えても良いかもしれないとさえ思ったりもした。たとえば、ぼくならこんな書き出しで書くだろうとかいちいち考えてしまったりもした。

それでもぼくが、あえてほぼそのまま公開することにした理由は、まずもってこれは彼女たち自身のプロフィールであること。そしてその点でいえば、彼女たちの思いや息遣いのようなものが、これらの文章のなかにきちんと存在していることがぼくにはしっかりと感じ取れたこと。なによりそれが、ぼく自身の心を打ったことが大きい。いくら技巧的にうまく書けていてもまったく心を打たない文章というものは、いまやネットにはいくらでも溢れている。しかし、彼女たちのプロフィール記事には、なぜ自分が京都の外国語大学でこうした活動に身を投じることになったのかが(すこし拙く、たどたどしくはあるものの)みずみずしくも切々とした語り口で記されている。そこには、書くという行為、言葉で思いを伝えることの原点のようなものがたしかに存在している。みなさんにも、ぜひ読んでみてほしい。

あともうひとつ。春に配布し、ALKOTTOのできるきっかけになった冊子「Kyoto School Trip Guide」を、日本語と英語の併記というかたちでマガジン化して公開した。このなかで特筆すべきは、二条城内にある茶房 前田を紹介した記事が、note公式のまとめマガジン「国内旅行 記事まとめ」に入ったことで、突出したビュー数を叩き出していること。いまのALKOTTOのビューのうちおよそ50%はこの記事が稼ぎだしている。まあSNSでのPRがほとんどできていない現状では、こうなることはある程度あたりまえではあるのだけれど、(それがこちらの意図によるものであれ、今回のような偶然による外的な要因であれ)、いかに読まれる場所に記事を置くことが大事であるか、ということをあらためて学ばせてもらった出来事でもあったので、備忘録として書き留めておく。


集客か?発信か?

〜SNSでの活動方針についてのいくつかの事柄〜

つぎにSNSでの活動について。SNSは先にも書いたように、基本的にはinstagramを中心にしている。ただ、正直なところいまはまだあまり多くの投稿はできておらず、それもあってまだ広く周知することはしていない。それにはいくつかの理由が絡み合っているのだけど、いちばんの課題はチームのなかで方針が固まっていないことだ。

ぼく個人の考えをいえば、SNSの目的は「集客」であると思っている。つまり、note で書かれた記事や、記事を書くために付随して起こる取材やミーティングの様子などALKOTTOの活動全般を、SNSというオープンスペースで広く周知することで、不特定多数の外部を、母艦であるここnoteへと連れてくるというミッションである。

しかし、SNSチームのなかにはSNSでも独自の発信をしたいという声が多いようで、そのためのフォーマットを検討中ということなのだ。ぼくとしては当然それも考えていて、それはそれでやっていきたいし、そうした「発信」も学生中心にやってもらっていいと思っている。とはいえ、肝心の「集客」へとつなげるための告知活動が止まってしまっているので、そこは早急に改善しなければならない課題でもある。

昨今はいくら質のいい記事を書いていても、まずは知ってもらえなければ読まれない。読まれなければ世界に存在しないのと同じなのだ。かつて著名なインフルエンサーは「いくら質が高くてもPVの少ないライターより、質が低くてもPV稼げるライターのほうが価値がある」とまで言い切っていた(結局その人はいつの間にかライターからライター講師、メルマガ商売へと移っていき、気がつけば電子マネー投資とか、ときどきの流行りを発信する人になって、いつしかメディアから消えていったけど)。

正直にいえばこのプラットフォーム至上主義には抗わねばならない、という古参のもの書きとしての意地はあるにはある。とはいえ、届けることの重要性を無視しているわけではもちろんない。つまりその意味においても、noteチームが発信を中心としたコンテンツクリエイターとしての実践をするのだとしたら、このSNSチームのメンバーには、いかにしてコンテンツを読者に届けることが難しいか?そして届けるための手法にはどんなものがあるか?といった、マーケティングやPRという分野について、実際に自分のメディアを持ったうえで体験してもらう場になればいいなと考えている。そしてそのバランスするところが、このチームを継続していくうえでの価値になっていくと思うのだ。

というわけなので、当分はtwitterのほうで記事の告知はしていこうと思っている。じつはこちらはひとまずぼく自身がこっそり運営していたもので、フォロワーもぼくが個人的に知っている、ごく僅かな人だけだ。ほぼ周知もしていない(それもあえての実験だったりする)。現在はnoteの記事のシェア投稿を淡々としているだけのだけれど、今後は京都の観光情報やALKOTTOに関わるニュースをシェアしたり、京都の情報アカウントとしても機能させていけたらと考えている。


50歳と17歳との対話

〜オープンキャンパスで高校生と大学生からそれぞれ学んだこと〜

最後にオープンキャンパスのことについて、かんたんに書いておきたい。8月の5、6、7日の3日間にわたっておこなわれた京都外国語大学のオープンキャンパスにENJOY KYOTOのブースを設置してもらい、メンバーと一緒にこれまでの活動や新しく発足したALKOTTOについて、これから受験しようと考えている高校生とその親御さん相手にお話する機会をいただいた。

3日間いろんな地方から来たいろんな高校生(と、その親御さん)と話してみて気がついたことは、意外にぼくらの活動への関心が高かったことだ。実際には先にも書いたように単位がもらえる授業でもなければ、学校公認の正式なサークルですらない。だから「ふーん、そうなんですね」みたいな薄めのリアクションが返ってくるんだろう(むしろだからこそフランクに話していいだろう)とタカを括っていたところが正直あった。高校生に「自分のメディアが持てるんですよ」なんて言ったところで、それが一体どういうことなのかよくわからないだろうと思っていたからだ。ところがよく考えればいまはSNS時代。10代でも発信することはかんたんにできるため、むしろ彼ら彼女らのほうがその価値に関心を持ってくれたようだった。

また、けっこう来場者に2年生が多かったことも印象に残ったことのひとつだ。あとで聞いてみると、いまではわりとあたりまえのことなのだそうだけれど、まだ2年生のうちから大学選びをするのかあと、ちょっとしたカルチャーショックというか隔世の感があった。まあぼくは高校時代にちょっと道を外れていてそもそも大学に関心がなかったので、ぼくの「常識」なんてあまり参考にはならないけれど。

ついでに(というとあれだけど)活動をPRするためのYouTubeライブにも出演した。10分間でかんたんに活動を紹介する内容で、台本なんかはナシで学生と一緒にほぼアドリブで喋りきった。これまでぼくは基本的に裏方でSNSでもこうした自分が出演して動画配信するみたいなことはやってこなかったけど、ちょっとやってみてもいいかなと思った(ぼくがこんなこと話すなら見てみたいなとかあるとこっそり教えてもらえると嬉しいな)。とにかく、こうやってむしろぼくのほうが学生たちからいろんな気づきやきっかけをもらっている。そこがこのプロジェクトをやっていてなにより楽しいところでもあるのだ。

というわけで、今回はこれでおしまい。やれやれ。ちょっとここまでの経緯をまとめて書いたので、ボリュームがすごいことになってしまった(もちろんいくつかの記事に分けることも考えたけど、記事としてこれはひとつにしたかったのだ)。さすがに今後はもうちょっとライトにして、そのぶん更新頻度を上げていこうと思っている。ただ、ぼくは昨今のメディアにおける「ネットで長文は読まれない」というような論調をどこかで信用していないところが多いにある。むしろそれは読者を信用していないメディアの側が自身があまり手をかけずに作った記事を読ませるために苦心していることへの小賢しい言い訳なのではないかとさえ疑っていたりもするのだ。

いっぽうこのぼくといえば、おそらくここには(数はそれほど多くないだろうけど)読みごたえのある長文こそ読みたいと願う読者の存在というものを、まだどこかで信じているところがある。だからここではそういう人(つまり姿は見えないけれどどこか遠くにいる誰か)に向けて、深夜にスタン・ゲッツやスティーリー・ダンやシューベルトのピアノ・ソナタを聴きながら書く長い長い手紙のようなつもりで書いていこう、とぼくは考えている。どうぞお楽しみに。

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