「光る君へ」のその後をめぐる宇治陵巡礼 その8(最終回) 「天使たちのシーン」/「奇跡」
京都外国語大学のグローバル観光学科の学生と一緒に運営しているメディアALKOTTOのnoteにおいて、編集長として関わっているコピーライターでENJOY KYOTOの編集長でもあるこのぼく松島直哉が書き連ねてきた、日本史と自分史を重ねてたどるお散歩エッセイ「宇治陵巡り」。いよいよ今回が最終回である。やまない雨はなく、明けない夜がないように、どんな出会いにもやがて別れがあるように、長い長い旅にも当然のように終わりというものはやってくる。
塔、光、坂、神、死、新、と来て最後を飾るテーマはやはり「生」である。村上春樹が小説「ノルウェイの森」の中で「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と書いていた。死について思いを巡らせることは、生について思いを巡らせることでもあり、死者を悼むことは、いま生きている人々を祝福することでもあるのだ。それが今回の陵墓巡りの主題でもある。
前章でこの長く坂道の多い陵墓巡りを、体力的にいまやっておいてよかったという趣旨のことを書いた。たしかに身体は年々自由がきかなくなってきている。しかしそのいっぽうで、感覚のほうはといえばむしろ不思議なことに年々鋭敏になっているような気がしている。自然、音楽、絵画などなど、美しいものに素直に心が反応するようになってきているのを感じるのだ。たとえば若い頃はピアノソナタといったらベートーヴェンばかり聴いていて「ショパンなんてセンチメンタルがすぎて聴いちゃいられない」なんていって毛嫌いしていたけど、いまはしみじみいいなあと好きになった。また、中学生の息子や一緒にALKOTTOを運営している学生たちから勧められた本や音楽や映画なんかにしたって、柔軟に素直に受け入れられるようになった。たぶん40歳くらいまでだったら「ぼかぁこういうはやりものはねえ…」とか「革新性のかけらもないじゃないか」なーんて、いちいちケチをつけては、作家性の高い作品や比較的ファインアートに近いジャンル、つまりは自分好みの世界観のなかだけで安住していたと思う。でもいまはみきとPやまふまふやトビー・フォックスなんかをSpotifyのお気に入りに登録し、青山美智子さんや蓮見圭一さんの本だって読む。PSYCO-PASSや進撃の巨人、葬送のフリーレンや響け!ユーフォニアムといったアニメ作品も見るようになった。歳をとると保守的で頑固になるなんてよくいうのだけど、ことアートやエンタメに関しては、ぼくはむしろますます柔軟になっているようにさえ思う。身体性に関する神経が衰えた分、精神的な面での感覚器官がそれを補っているのかもしれない。
いずれにせよ、これもまあいってみれば、ぼくにとっては次なる世代がこの世の春と謳歌している「New world coming」なのだと思って、そのおこぼれを素直に享受し、楽しんでもいる(その歌の続きをそう長く聴くことはできないだろうが)。
そのいっぽうで「うへえ、こりゃあもうやり直せないなあ」と思うこともまた増えたと思う。ぼく自身はこれまでたくさんたくさん間違ってきた。でもそのたびに、すぐ間違った原因を究明し、じゃあこっからどうやり直すか?と客観的かつ冷静に対処し、ひとつひとつの課題を一歩ずつ解決していくことができる人だった。しかし、それなりに歳とってくると(それこそ冷静かつ客観的に分析した結果)人生の残り時間を考えればこの問題を根本的に解決することはもう叶わないんだな、と認めざるを得ない事象がだんだん増えてくるのだ。これがけっこうリアルにしんどい(それをしんどいと思えるのはまだ若いからだよ、とも思うのだけれど)。
やり直すといえば、今回巡るべき陵墓をすべて巡り終わって、最後にめざすのはここからすぐ近くにあるわが母校・東宇治高校なのだが、もういちど高校生からやり直したいか?と問われたら「ノー」と即答するだろう。若さというのはそれなりにしんどいものだからだ。高校生男子というのはどうにもならない未来への不安とプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、ニキビだらけのアホづらを細い肩の上に乗せ、自分ではコントロールできない欲望の塊をぶら下げているだけの、じつにか弱くもしょうもない生き物なのだ。さすがにそんな時代に戻りたいとは、すくなくともいまのぼくは思わない。
ただ、こうやってかつて毎日毎日、来る日も来る日も不機嫌な顔をして通い続けた坂道の通学路を歩きながら、「もしいま、この場所で、この木幡の丘の中腹で、18歳の自分に出会ったとしたら、いったいぜんたい、ぼくはなんといって声をかけるだろうか?」などと考えてみたりはする。老害じみた説教をするだろうか。ありうる。でもその声に耳を貸さないだろうことは誰よりもわかっている。なにしろ相手は18歳のぼく自身なのだから。
と考えて、おそらくいまのぼくはそのような態度でもって息子たちと対峙している、ということにふと気づく。彼らもまたすでに思春期に差し掛かっていて、実際ぼくのささやかな助言になどほとんど耳を貸す素振りもない。かつて自分が父親に対してそうだったように。
でも。それでも。父は言葉の少ない人だったがいくつかの教訓はある。それは言葉ではなく、その時々の風景として目の奥に刻まれている。実家の小さなダイニングでものすごいスピードで黙ってメシを食う姿であったり、ケンカをして家を飛び出したときにぼくを探し歩いていた深夜の公園の白い電灯に映し出された影だったり、三菱ギャランΣの運転席の後ろ姿であったり、祖母の葬儀の時に流れていた父の涙として、だ。その記憶のなかの父はひとことも言葉を発してはいない。けれど、たぶん父もいまの自分が息子たちに抱いているような思いを持って、ぼくを見つめていたのだろうと、いまはわかる気がする。感情に任せて届かぬ言葉を投げつけるより、すこし離れて黙っていよう、と。父はぼくとちょうど30歳差。いまや82歳になっている。
そして数年前に死んだ猫は、20歳近く(人間の年齢だと90歳以上)だったこともあって最後の数年はほとんど寝てばかりいた。ただ同じ部屋にいたというだけの存在だった。忙しかったこともあって(手のかからない子だったこともあった)晩年はあまり遊んだりすることもなかった。彼が死んだあとになって「ただそばにいる」という愛情の示し方というものがあるのだと学んだ。おそらくは父も、そして母も、そういう思いだったのだろうと、いまとなってはわかる。
歳をとるということは、そういう言葉にならない言葉がわかるようになってくるということでもあるのだ。そしてそれは人間だけではなく、たとえば陽だまりで居眠りしている猫の寝言や、虫たちや鳥たちの声、しまいには花々のささやきからも、気持ちが伝わってくるようになるのだ(決してオカルトではなく)。だとしたら、歳をとることはそんなに悪いことでもないなと思う(ときにその「聞こえすぎる耳」が邪魔をすることもあるのだけれど)。
冒頭にも書いたとおり、今回ぼくはこの墓巡りという死者との対話を通じて、自分を含めていまこの時代を一緒に生きている人のことを考えたかったのだとわかった。それはやはり、ここまで長い長い取り止めのない文章を書いてきて、そしてこの最後の章を書き終えて、ようやくわかったことでもあるのだ。歩きながら考え、書きながら考える自分らしいな、と書き終えてみてあらためてそう思う。というところで、藤原北家の陵墓を巡った旅もこれでおしまい。
で、ここからは例によってぼくが大好きな、蛇足というべき「あとがき」である。あくまで延長タイブレークみたいなものであり、求められてもいないアンコールのようなもの。音楽でいえばいわゆるアウトロにあたるといっていいだろう。たとえばこのあと引用している、くるりが演奏する記念碑的に長くて美しい「奇跡」のMVのような、胸に響くアウトロになっていったらいいなと思う(それにしても山内宗一郎氏のスライドギターのソロの美しさといったら!)。
今回このようなエッセイのようなコラムのようなものを、心の向くままに書き連ねた。純粋に自分のために文章を書いたのはひさしぶりだった。かつて若い頃に映画の脚本や創作ノートとしての短編小説を書いていたころ、それは自分との対話というかある意味では祈りのようなものだった。そしておそらく中学生の頃、とある女の子に宛ててくる日もくる日も長い長い手紙を書いていたのも、そうした祈りのような時間だったのだといまはわかる。だからこのようなきわめて個人的な文章を、個人ブログ(いまはもう使ってない)でもなく、はたまたこのALKOTTOのnoteの「編集長日記マガジン」でもなく、旅エッセイマガジンとして書き残すことが正しかったのかどうかもわからない(でも自分ではここしかなかった)。
前半のほうで「自分の人生がコトンと音を立ててこれまでとはまったく異なる方向へ大きく動き出そうとしている予感のようなものがこの1ヶ月ほどある」と書いた。というのもこの春に発売された別冊太陽で12ページにわたってぼくの書いた記事が掲載されていたり(ある一定以上の年齢の方ならその凄さをおわかりいただけると思う)、同じくちょうど春先から「本を書いてみませんか」という書籍企画のお話をいただいたり、これまでとは異なる種類の仕事が同時に動き始めていた。またそれ以外にもいろんな新しい動きが出来事が次々に起こっていて、さまざまなことが自分の中で変わっていく予感を感じていた。こういうことがぼくにはおおむね10年くらいに一度のペースで起こってきた。そのたび「ああ、いまがそれなんだな」といつも思う。だけどこれまでと違っているのはもしかしたら「これが最後かもしれない」ということだった。焦りもあり、戸惑いもあった。でもそのぶんだけ、なにかしら大きな希望を感じてもいたのだった。とても久しぶりに、それこそ10代の頃に感じたような種類の希望だった。
だからなんとなく、18歳の自分がいた場所を歩いてみたくなったのだ。もちろんもともといつかはこの宇治陵巡りをしたいとの思いもあった、またいまちょうどその藤原北家の栄華を描く「光る君へ」を放映中でもある。これもまた「ああ、いまがそれなんだな」と思わせるファクターでもあった。いろんなものごとと環境とタイミングが、ひとつの場所へと引き寄せられていく。宇宙の引力や磁場、天体運行の法則に従っているかのような感覚を覚えた。許波多神社の境内でなにかを預言するみたいにキンキンと鳥が鳴いていたように、自分の中でなにかを促す予兆、それも突き動かされるような激しい衝動のようなものがあった。でも自分はもう若くない。18歳ではない。いつまでも不機嫌な10代のようには生きられないし、10代とは違ってもはやひとつだって失敗できないのだ。だから喧騒や日常の雑事から離れて、すこしひとりで考えたかった。考えながら、遠くまで、早足で、ボブディランのアルバムジャケットみたいにポケットに手を突っ込んで、とにかく歩きたかったのだ。
そんなふうにして5月の爽やかに晴れた5月の朝に木幡の丘を歩いた、その軌跡がこの全8回にわたって書き連ねてきた文章である。この文章が誰かの、なにかの役に立てばいいなと思う。と同時に、これはかつてとある女の子に宛てて書いた長い長い手紙と同様に、とても私的で内省的な祈りのようなものであり、けっきょくのところは自分に向けられた言葉なのであるということも、よくよくわかってはいるのだ。
これで本当の本当に最後なので、あらためて振り返ってみる。「光る君へ」で話題の藤原道長はじめとする藤原北家の陵墓がある丘。そこは自分の育った街の坂道でもあった。それらを重ねながら辿ってみてあらためて感じたのは、おそらくはよほどの権力者でもない限り、ぼくの知り合い含めてほとんどの人は、1000年後に誰かが墓参りをしてくれるなんていうことはまあまずないだろう、ということだ。命が尽きて土に還った後は、ほんの数十年もすれば、ぼくが生きていた記録も散逸し、ぼくを知っていた人もみな、やさしい光の中へとやがては消えていくのだろう。生まれる前という永遠の時間があって、やがて死んだ後という永遠の時間の中へと戻っていく。いまは、そのあいだの、ほんの一瞬の光の輝きなのだ。いまぼくの(そしてあなたの)目の前にいる人は、大きな宇宙を長い時間かけて旅しているなかで、なんらかの運命によって導かれ、たまたま近くをすれ違った孤独な彗星同士のようなものだ。だから「奇跡」を待つ必要なんかない。もうすでにみんながそれぞれの「奇跡」のなかで生きているのだから。
おそらくぼくはずっとこれからも、残りの人生を賭けて、18歳の自分にかけるべき言葉についての答えを探し続けることになるのだろう。いずれにせよ、とにかくいまぼくらはこうして生きていて、こうして誰かと出会っている。一緒に笑ったり、泣いたり、ときに怒ったりもしながら。そうしていずれ大きく手を振って別れを告げる日が訪れるのを、いまはまだ見て見ぬふりをしながら待っている。だからせめてそれまで、なるべく笑っていよう。できるだけ遠くを見渡し、できるだけ大股で歩いていこう。できうる限りのオシャレをして、誰かとおいしいごはんを食べに出かけよう。強いお酒をゆっくりと飲み干そう。大きめのヴォリュームで好きな音楽を部屋に鳴らそう。遠くの街に住む人に長い長い手紙を書こう。明け方の海を見にいこう。猫にご飯をあげよう。ベランダの植物に水をあげよう。雨の音に耳を澄まそう。愛を、人生を、肯定しよう。
それが、ぼくの今回の墓巡りとそれを通じた死者との対話で得た教訓だった。森の中でキンキンと響き渡っていた、あの姿を見せない鳥の歌のように、最後まで読んでくれたみんなの心のいちばん柔らかい場所で響いていてくれたらいいなと、それだけを祈って筆を置く。それじゃ、いつかまた!
今回巡った宇治陵一覧マップ
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